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ロゼ(よあけ)03

「どうしたらカイと、仲良くなれると思う?」


 外は晴天。高く昇った太陽を隠す雲もなく、空は薄青に澄み渡っている。砂塵の匂いを帯びた風を浴びながら、ロゼは家の前で洗濯をしていた。平たい桶の中に水を溜め、カイの服にこびりついた血を落とす。その横で、祖母は背の低い丸椅子に座って日光浴をしていた。


「婆ちゃんだって知るわけないだろう、そんなこと」


 その手が抱える盆には、薄く裂いた馬肉が並べられている。干し肉を作るのだとカエラは言っていた。


「世の中にはね、自然と仲良くなれる相手も、どんなに頑張っても仲良くなれない相手も、仲が悪かったのに不意に惹かれ合う相手もいるんだ。あの子が、お前にとってどんな相手なのかは婆ちゃんにも分かるわけないよ」

「じゃあ、どうすればいいんだよ」


 冷えた手を空中で振ると、飛沫が乾いてひび割れた大地に染み込んだ。ロゼは後方へ腰を下ろして、遠くの荒れた山々を見つめた。

 カイの怪我の直りは異様に早かった。彼に拾った晩に塞がった傷は、見る見るうちにかさぶたになり、今や白く盛り上がった痕を残すのみとなった。数日寝たきりで過ごした後、おもむろに起き上がると、一瞬ふらついて僅かに顔をしかめ、それから何でもないように辺りをうろつきだした。


 家の中を訝しげに観察し、ふらりと外に出ると数刻戻らない。まだ本調子でないのだから、おとなしくしていろと、ロゼが諌めても聞く耳を持たない。そして、帰ってくるときは大抵、衣服を血や土で汚していた。


「やっぱり、全然落ちねえな」


 ロゼは水に沈んだ洗濯物を睨み、忌々しく呟いた。繊維に染みついた血液は、色は薄くなれど完全に綺麗になることはなさそうだった。

 カイはロゼに心を開こうとはしない。何を問い掛けても答える気はなさそうで、ロゼが思い遣って掛ける言葉も振り払われる。最早、お手上げ状態だった。

 祖母は優しいそよ風に、ふふ、と笑みを零した。


「ロゼがしたいように、すればいいよ。何を選んだってなるようにしかならないんだから、欲しい未来を信じるしかないよ」


 カエラを見上げると、降り注ぐ陽射しに気持ちよさそうに目を細めていた。ロゼは濡れた手で鼻を擦り、唇を引き結んで汚れとの格闘を再開した。



 その日は朝から曇っていた。暗雲が太陽を閉じ込め、強風が家の壁を断叩いていた。ロゼが竈の灰を掻き出していると、やっと目覚めたカイが甕の水を掬って飲み、おもむろに玄関をくぐって外へと行ってしまった。

 今日は天気が悪くなりそうだから家に居ろ。喉まで出かかった言葉をロゼは飲み込んだ。代わりに、ロゼは大きく息を吸い込むと、奥の部屋で休んでいる祖母へと大声を放った。


「ばあちゃん、俺、ちょっと出て来るわ!」

「あんまり遠くへ行くんじゃないよ」


 その声には覇気がなかった。カエラが咳き込む音に心が揺れたが、ロゼは大きく返事をした。


「はあい」


 カイの後を追っていると、山地へと入り込んでしまった。生えているのはほとんど枯れ木で、人の手が入っていないので荒れ放題だ。枝や葉が肌に擦れて細かい傷を作る。呼吸をする度に胸の中まで朽ちた香りが染みついてしまいそうだった。


 ロゼでさえほとんど通ったことのない獣道を、カイは慣れた様子で進んでいく。声を掛けることはしなかった。彼の方も、当然ロゼに気付いてはいるのだろうが、振り返ることはしなかった。

 彼が突然、足を止めた。身を低くして息を殺している。ロゼも彼に倣い、気配を消してしゃがみ込んだ、しばらく風音と虫の囁きのみが辺りを支配していたが、不意に枯れ葉を踏む微かな足音が聞こえた。瞬間、カイの体が跳ねた。


 揉み合う音。生き物の、唸り声とも悲鳴ともつかぬ叫び。やがて静けさが戻るまで、ロゼは意識の全てが削げ落ちていた。

 カイがゆっくりと立ち上がる。その手には、一匹の兎が握られていた。首が折れ、頭不自然な方向に垂れ落ちている。その白い毛並みには、血が滲んでいた。泥がこびり付いた腕で、カイは擦りむいた頬を拭った。昏い瞳がロゼを射抜く。


「……何?」


 挑むような響きだった。風が木々を揺らす。枝に切り取られた空では、黒雲が押し流されていた。乾いた舌で、ロゼは言った。


「食うのか? それなら、早く血抜きを」


 細く揺れた声を、彼は遮った。


「食べない。こんなもの、気持ち悪い」


 吐き捨て、死骸を地面に叩きつける。ロゼは痺れた膝を伸ばし、立ち上がった。カイが立っているそこには昆虫、兎、野犬、様々な生物の亡骸が打ち捨てられていた。中には腐り、異臭を放っているものもある。

全部、お前がやったのか。

 問いは、口に出さずとも分かりきっていた。ロゼは長いため息をついた。感覚の薄れた指先を持ち上げ、短い頭髪を掻く。


「カイ、お前、猫みたいだな」


 放った言葉に、カイが片眉を跳ね上げた。ロゼの脳裏にあったのは、顔見知りのリー爺宅に住み着いていた野良猫の姿だった。食らうでもなく、ただ遊びで虫や鼠を噛み殺し、戦利品をリー爺に見せつけ困らせていた、あの無邪気で残酷な獣。


「お前な、殺すなら意味を考えろよ。お前は猫じゃなくて人間だろ」

「はあ? 何で意味なんかいるんだよ。何をしようと僕の勝手じゃないか」


 僅かに裏返った声は、多分に苛立ちを孕んでいた。淡々とロゼは言い募る。


「そんな訳にはいかないだろ。全てのものは見えない糸で繋がっているんだ。考えなしに周りのものを傷付けてばかりいると、巡り巡って色んなものが悪くなる」


 ロゼは枯れ木を掻き分け、カイに歩み寄る。彼は一歩後ずさった。


「今お前が殺した兎だって、あのまま生きてりゃ子を産み育て、他の動物の餌になって命を繋いだかもしれない。無計画に殺してばっかりいると、生き物全体に良い影響がない」


 カイの正面に立ち、その手を取った。触れた瞬間、びくりと彼の体が震えた。ロゼは汚れたその腕に手を這わせ、泥を払う。


「生きるためには、殺さなければいけないときだってある。でも、お前は世界に一人で生きているわけじゃない。色んなものと関わり合って生きているだろ。お前のすることのひとつひとつが、見えるところや見えないところを、良くも悪くも変えていく」


 ロゼにも、母山羊のお産を手伝い、子山羊を慈しむその手で、鶏を絞める時がある。命の尊さを知っていることは、命を踏みつけて行かぬことにはならない。


「自分が変えたものの全てに責任を持てだとか、そんな無茶苦茶なことは言わねえけど、俺らだって色んなもんのおかげで生きていけるんだしさ、生き物を殺す時くらいその意味を考えろってこと」


 な、とカイの顔を見れば、その表情は複雑な様相を呈していた。けれど彼は、ロゼの言葉を馬鹿らしいと一蹴することはしなかった。

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