ベラ(あらし)05
その時、柔らかな空気を苛烈な声が切り裂いた。
「今すぐ離れなさい! ベラ! アリス!」
ベラは肩を震わせ、声の方へと目を向けた。そこには、見慣れているはずなのに全く知らない、フェレの顔があった。
眉間と鼻頭に刻まれた深い皺。顰められ、つり上がった眼。固く食いしばった歯列とわななく唇の端。激昂し上気した頬で、フェレが大股で近づいてくるのをベラは呆然と眺めていた。あっと思った時には、フェレの怒気を放つ双肩から両腕が伸ばされ、ベラとアリスの肩口を掴んで乱暴に引き離した。
上体に押し寄せる衝撃。均衡を崩す腰元と、よろけて後ずさった片足。合わさっていた手の平が離れ、互いの指先の淡い皮膚の紋が名残惜しげに切り離されたのと同時に、向かい合った手の合間に灯っていた金色の光はすっと濃い金の糸へと収束し、手の平の中央から伸びた光る糸が、離されてもなおベラとアリスを繋ぎ止めようとするかのように、引き伸びて軽やかに宙を波打ち、金色の軌跡を描いた。
フェレが怒鳴った。
「あなたたちは、どうして私の話が聞けないんですか!」
アリスは首を竦め、ベラは瞬いた。
「何度も言いましたよね! 魔導師は絆を結んではいけないと! 魔導師が絆を結んだ結果、災厄が訪れることも、禁を犯してまで懇切丁寧に説明しました! それなのに、どうして私の忠告を無視するのですか!」
「待ってください」
肩を掴んだ師の手を退けながら、ベラは前に進み出る。
「あたし、ずっと考えていたんです。師弟契約を結んだ時は、ヴィクイーンと戦わなきゃってことだけで頭がいっぱいになって、戒律の意味をちゃんと理解できていなかった」
フェレの鋭い視線がベラを貫く。憤激を浴びながら、けれどベラは不思議と驚きが治まっていくのを感じていた。
「魔導師が絆を結んだら、悪魔になってしまうかもしれないっていうのは分かります。それが、どれ程までに危険なことかも。でも色々考えてみて、やっと本当の気持ちを掬い取れたんです」
真っ直ぐに、燃える双眸を見つめ返す。
「あたし、嫌です。たとえ災いの種になるとしても、他者との繋がりを否定して生きていくなんてこと、あたしにはできない。自分と違う考えをもって、自分と違う感じ方をして、自分と違う人生を歩んできた人と関わって……その人を知ろうと努力して、お互いに手を伸ばして、反発もして、理解しようとして、理解できなくても大切にしようとして……自分を知ってもらおうとして、隠したい部分も曝し合って、心を通わせ合う営みは……、とても怖くて、失敗したら悲しくて、でもそれができた時には何物にも代えがたいほど嬉しくて、そこから得られる絆はとても尊い。……だからあたし、人を愛することが悪いことだって、やっぱり思えない」
目を見開き、頬の筋肉を引き攣らせて、ベラに向かって足を踏み出そうとしたフェレの手首を、アリスが両手で引き留めた。俯きながら、か細い声で言う。
「……ベラは眩いです。彼女と共にあると、光に導かれるようだと思います。彼女に近づくことで災いが起きるとは、わたしも信じられません」
フェレの声に悲嘆が滲んだ。
「ああ、ベラ……アリスまで……」
目を伏せ、顔を振ると、フェレはしばらく黙り込んだ。皺だらけの両手で顔面を覆う。沈黙が夜闇に溶ける。耳の奥が鳴り出す頃、静かな低い声がフェレの喉から滑り出た。
「あなたたちは、ルノアールとディクソールの過ちを、繰り返すつもりですか。そうやって安易に感情に流されることによって、どれほど多くの人を、後世に渡って傷付け、危険に晒すつもりなのですか」
アリスが短く息を吸い込む。
「待ってください、師匠。ルノアールとディクソールの過ちは、ヴィクイーンを完全に倒せなかったことではないのですか」
弟子の方を見ようともせず、フェレは疲れ切った言葉を落とした。
「逆に聞きますが、ヴィクイーンを倒すとは、アリスはどういうことだと思っているのですか」
「え……それは、ヴィクイーンが魔力を失うほど完膚なきまで打ちのめして、殺すことではないのですか」
ふっと鼻から息を吐いたフェレに、アリスは眉をしかめた。ベラが片足を踏み込んだ。
「教えてください、フェレ聖導師。あたしたちには、本当のことを知る権利があります」
胡乱な視線をベラに投げ、フェレは顔を歪めた。
「当事者が、一番真実に近くあるべきというわけではないでしょう。ましてや、深淵の縁にいる者は、半分は飲み込まれているようなものです。正常な判断力をもって全貌を捉えることなど、到底できない」
「理由も分からず、従うことなんてできません」
ベラの言葉に瞳を揺らし、フェレは呟いた。
「あなた達が信頼に値するのならば、どんなに良かったか……」
がん、とこめかみを殴られたような心地で、ベラは両目を見開いた。眼球が乾き、肋骨を心臓が叩いて暴れるのを感じていた。息苦しさが胸を衝く。浅く息を吸うと、高く喉が鳴った。
倒れるようにアリスがよろけ、一歩足を引いた。蒼白な顔で、彼女は薄く唇を開いて師を見つめた。




