ベラ(あらし)03
目覚めは突然だった。
冷たい朝。鋭利な光を纏ったカーテンの合間に広がる庭は、一面の白だった。朝陽の熱に表面を溶かされた白雪と氷柱の輝きに目を奪われていると、ベラの胸裏にふっと淡い決意が浮かんだ。
もう、知らないままでいるのは嫌だ。
温かい布団から抜け出し、冷気に素足を晒した。凍えた床に張り付くような、痛いほどの冷たさが不思議と心地良かった。寝ぼけた頭で窓を開けると、繊維の隙間を縫って寒風が全身の皮膚を打ち付けた。吐いた息と瞬いた睫毛が一瞬で凍り付くと、頬を殴られたごとく目が冴えた。
野山を覆い隠し、どこまでも続く雪景色。美しい檻に閉ざされたこの国を、抜け出そう。
思い立ったベラは衣装部屋に駆け込み、侍女の制止を振り切り一張羅に身を包んだ。
雪の果てしない白と、冬天の薄灰を切り裂けるよう、鮮烈な青が良いと思った。豪奢なドレスを翻し、ヒールを鳴らしながら食堂に踏み入ると、ベラの横暴に支度途中の給仕が悲鳴を上げた。
ベラには計画なんて何もなかった。ただ、旅立ちの前に腹を満たさなければならないと思った。
ドレスを汚しながら、獣のように朝食を貪り食った。果実を皮ごと齧り取り、パンを喉に押し込み、熱い紅茶を胃に流し込んだ。手も口元もべたべたになった。食器も食べ物も床に散乱した。けれど、そんなことは構わないほどの強い衝動がベラを突き動かしていた。
『ベラ!』
引き攣った声に、ベラはゆっくりと顔を上げた。寝巻のまま髪を乱した姉が、呆然と立っていた。優しい瞳に、恐怖が揺らめいていた。ベラは乱暴に腕で口を拭い、姉を見据えた。
大窓から、清潔な光が差し込んでいた。塵がきらきらと輝きながら大気を旋回していた。淡く陽光を纏った彼女は、怯えを溶かして微笑んだ。ベラに歩み寄りながら語り掛ける。
『ベラ、怖かったのでしょう。もう大丈夫よ。わたしが傍にいるわ』
『来ないで……』
ベラは一歩後ずさった。右手がポットを倒し、熱い紅茶の飛沫が肌に散った。しかし、温度も感じられないほど、ベラは追い詰められていた。姉は両手を広げた。
『知らないことを怖がる必要はないのよ。知る必要がないことなんて、山ほどあるわ。何も心配しないで、知らないままでいていいのよ』
『嫌っ!』
ベラは咄嗟にテーブルに並んだナイフを掴んだ。震える両手で、姉に向かって構えた。薄青の双眸が、悲しげに揺れた。
「あたし、姉さまを刺した感覚が忘れられない。奥歯の隙間から小さく漏れた呻き声と、服から染み出た血の温度、ふんばりをなくして崩れ落ちていく体」
給仕が血相を変えて部屋から飛び出した。どこからか悲鳴が聞こえた。温かい血が滴る両手が、冷たくわなないていた。蹲った姉を尻目に、ベラは一人ドアへ向かって歩き出した。姉から離れるにつれ、足元から金色の光が湧きだした。柔らかな光に身を委ねることに、迷いはなかった。ただ、真実を探しに行くのだと、その決意だけが胸を満たしていた。
「姉さまを刺したあの日から、あたしは人を傷付けるのが怖いよ。傷付けたくない。傷付けずに守る方法が、きっとあると思うの」
ベラはゆっくりと瞼を上げた。水平線が黒い空を押し上げるように遠く波打っていた。
「ねえ、本当はアリスもそうなんじゃないの?もう誰も傷つけたくないと思ってるんじゃないの?」
真っ直ぐにアリスを見つめると、紅玉の瞳が視線を絡め、そっと外した。
「わたしは……ヴィクイーンを倒すことが多くの人を傷付けずに守る方法だと思っているわ」
構えていた剣を片手で胸の内にしまいこむ。自由になった両手を握り締め、ベラは体ごとアリスに向き合った。
「でも、誰も殺さずにすむ方法があるかもしれない」
アリスは俯いた。赤い睫毛が伏せられ、頬に長い影が落ちた。潮風に赤毛が波打つ。銀砂を撒いた夜の帷に、アリスの長髪は旗のようにひらめいた。
「ベラは……優しいわね」
彼女が持ち上げた口の端が、かすかに歪んだ。泣き出しそうな笑顔が、ベラを仰いだ。
「あなたの剣が光の道を歩むなら、わたしの剣が泥を防ぐわ。あなたの希望が荒波を渡ることを願うなら、わたしが代わりに波を被るわ。……約束する」
ベラは浅く息を吸った。どんな言葉で「違うよ」と言えば伝わるのか分からずに、困り果てたベラは作り笑いをした。下手くそな笑顔で笑い合う。べたついた舌で、仕方なく言った。
「アリスは、馬鹿だね」




