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アリス(ねがい)02

 水滴の落ちる音だけが、その空間に静かに響いていた。心を飲み込みそうな暗闇は、涙も嗚咽も搾り尽くした。嘆く心も枯れ果て、アリスは冷たくざらついた床で頬を冷やしていた。


 人々の幸福を願った。その結果がこれか。

 目を閉じるのが怖かった。先程見た映像が、たやすく脳裏に蘇ってきそうで。けれどこの暗闇では、瞼一枚の厚さなど大した違いではなかった。


 その時、割れた呼吸を繰り返す少女の鼻先を、撫でる風があった。

 風は段々と大きくなり、彼女の赤毛を波打たせた。眼球に痛みを感じ瞼を閉じると、次に目を開けた時には二つの光がぽっかりと浮いていた。


 紫色と緑の入り混じった、見据える瞳。

 目を凝らせば、目の前の人物の白い肌と、長い銀の髪が暗がりに浮かび上がった。


「誰なの……」


 アリスの問い掛けに、男は答えなかった。代わりに言った。


「可愛そうな女の子。君も、世界に裏切られたんだね」


 少女は息を呑んだ。喉が壊れた音を立てた。


「願いをひとつ言ってごらん。なんでも僕が、叶えてあげる」


 麻薬のような声だった。頭の芯が痺れた。

 思い浮かぶのは、あの少年。アリスを愛し、特別にしてくれた。

 彼に会いたい。彼と生きたい。けれどそれはもう、叶わない。

 それならば。

 震える唇が、言葉を紡いだ。


「わたしの世界を、壊して」


 紫の光が細まった。アリスが何かを思う前に、少女の身体を強い衝撃が襲った。



 全身が、焼けるように熱かった。そのくせ、胸の底は冷静に凍えていた。


「痛いわ」


 口に出した途端、痛覚が打ち寄せた。眉を寄せると、瞼の裏に光を感じた。いつの間にか、夜が明けていたのだ。目を開けると、鈍色の空が見えた。そこで初めて、おかしいと気付いた。


 アリスは一筋の光も届かない地下牢にいたはずだった。そして彼女は、神殿が倒壊していることを知った。天井を突き破って降り注いだのであろう白い柱が、牢にいくつも転がっている。

 身じろぎをしたら、右手に激痛が走った。手の甲が、瓦礫に挟まれていた。左手で瓦礫を押しやり手を引き抜くと、安定を失った建物の破片が雪崩を起こした。慌ててアリスは身を起こし、歪んだ檻の柵から身を踊らせた。背後に、凄まじい音が響いた。


 瓦礫を踏み分けながら外に出ると、世界は一変していた。建物は崩れ、緑は抉られ、悲鳴と煙が辺りを満たしていた。人々は皆傷ついており、血の匂いが漂っていた。


「マリ……」


 アリスは呟いた。彼は一人で逃げられない。アリスは額から滴る地を拭いながら、王宮へと走った。

 王宮も、無残な有様だった。華美な装飾も、上級の木材も、今は形をなくして崩れ落ちていた。


「マリ! ねえ、どこなの? 返事をして!」


 アリスはありったけの声で叫び、彼の部屋があった辺りの瓦礫を掻き分けた。爪が割れ、皮膚が破れる。ぼろぼろの両手で動かした木片の下に、見慣れた黒髪が見えた。男性にしては長髪で、いつも油を纏って艶めいていた。

 その顔は土気色だった。唇からは血の気が失せ、けれど微かに呼気があった。


「マリ!」


 アリスは彼の身体を引き摺り上げ、胸に掻き抱いた。酸っぱい香り、貧弱な四肢、べたついた皮膚。その全てが、愛おしかった。


「マリ、マリ、マリ。ああ、よかったわ……」


 皮膚を重ねると小さな鼓動が聞こえた。彼を閉じ込めた両腕に力を込めると、細かく睫毛が震え、彼の黒い瞳が姿を現した。ひび割れた唇が動く。


「その声、アリスなのかい?」


 か細い声が言った。耳朶が震えた感動に、アリスは全身に鳥肌が立った。視界が滲み、安堵に肺がわななく。湿った溜息をつくと、彼女の瞳が光を捉えた。


 あたたかい、金色の光。綿毛のような輝く粒が、いくつも空から舞い降りてくる。灰の空を、荒れた大地を、崩れた建物を優しく照らす。

 触れては消えるその光に、アリスは興奮気味に言葉を連ねた。


「見て、マリ。雪よ。エグタニカに雪が降るなんて、初めてじゃない? すごいわ。綺麗ね」


 彼女の言葉に、彼は眉をしかめた。


「何を言っているんだい、アリス」


 少年の黒い瞳は、焦点を結ばず彷徨った。


「真っ暗で何も見えないよ。一体、何の話をしてるんだい?」

「あなた、目が……」


 アリスは首を振り、少年を抱き寄せた。溶け合う体温だけが、確かだった。

 金色の雪が降っていた。それはあまりに残酷で、幻想的な光景だった。


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