マリ(よるべ)04
聖堂を出ると、昼下がりの優しい陽気を感じた。風が運ぶ緑の香りに誘われるまま、風がやってくる方向へ車輪を進めていると、ゆったりとした上り坂に差し掛かった。上腕筋が悲鳴を上げる。けれどそれを無視して回していた時、片方の車輪が何かに乗り上がりそうになった。
一気に体勢が不安定になり、車椅子が坂に沿って後ずさる。マリは車体と一緒に転げ落ちるのを防ぐため、咄嗟に腹に力を入れて身を屈め、正面に身を投げ出した。眉間を寄せ、衝撃に備えるが、柔らかな弾力が体を跳ね返した。
「いったあい!」
悲鳴と共に、障害物が跳ね起きた。
「こら、マリ、自分の体重分かってるの。ちょっと、重いってば」
ベラの手が、マリの背中をばしばし叩く。遠くで車椅子が転げる音がした。どうやら、随分先まで落ちたようだった。
「ごめん」
マリは起き上がろうとベラの体の上でもがいてみたが、すぐにベラが根を上げた。
「うわ、ちょっと、くすぐったいから動かないで」
「そんなこと言ったって、ねえ、触らないでくれる」
「無理だって、痛っ」
ベラの腹に、マリの肘が沈んだ。咄嗟にベラが、マリの体を突き飛ばした。
「わああ」
「あ、ごめん!」
跳ね起きたらしきベラの謝罪が、頭上から降ってきた。マリは雑草に覆われた斜面に仰向きになりながら、思わず噴き出した。腹と胸を震わせながら大笑するマリの横で、ベラはしばらく黙っていたが、やがて彼女も草むらに倒れ込み、マリと一緒になって笑いだした。
全ての笑いが喉から湧き出た後も、吐く荒い息にも溶けた笑いが混じっていた。笑い過ぎた目尻には涙が滲んでいた。笑顔のまま引き攣れた表情で、まるで泣き笑いのように、マリは声を紡いだ。
「ベラ、いたんなら声を掛けてくれたら良かったじゃないか。あんまり気配がないから、倒れるまで気づかなかったよ」
「仕方ないじゃん、ずっと寝てたんだよ」
「こんなところで?」
「うん、不思議な夢を見た気がする……」
「ふうん」
夢見心地でいて妙にさっぱりした様子のベラに、マリは口元を歪めた。背中は柔らかい土とくすぐるような葉に抱かれている。その優しさを感じながら唇から漏らした吐息が、祈るように震えた。
「ねえ、君は、アリスが好きだろう」
マリの言葉に、ベラが身じろいだ。
「えっ、いや、アリスはあたしのこと、嫌いかもしれないけど」
少し遠ざかった声の方に、マリはむっとしながら顔を向ける。
「そんなこと聞いていないだろう。君は、アリスのこと好きなんだろう」
ベラがまた少し、身を引いた気配がした。
「あ、うん、そりゃあ、えっと、好きだよ」
「好きなんだね?」
間髪入れず、問い直す。
「う、うん」
動揺した声が答えた。
「それならいいんだ」
ゆっくりと空を仰ぎ、マリは言った。大地の匂い。そして、淡い大気の香り。どちらも強い生気に満ちている。
「アリスは強くて脆い。でも、僕はもう彼女を手放すことにした。今だけでいい。この戦いが終わるまで、君にアリスを託してもいいかな」
「それ、どういうこと?」
戸惑っているけれど、深い何かを無意識に理解した声が問う。
「どんなことがあっても、アリスを見捨てないでいてあげて欲しいんだ」
「そんなこと……」
気弱な声で区切ると、ベラは気丈に笑って言った。
「頼まれなくたって、当然だって。あたしたちはパートナーだもん」
強さと優しさに満ちた純真な声に、不意に胸が詰まった。自分たちは、どうしてこれほどまでに捻れ、歪み、絡まり合ってしまったのだろうという大きな悲しみがマリを襲った。弱い命だった。そうしないと、生きることさえできなかった。しかしそれを、必死に足掻いた結末を、恥じることなどない。
「よかった……本当に、よかった」
頬を熱い雫が伝った。唇がわななく。胸にせり上がった温かさは、マリの全身を包み込んだ。
「ちょっと、マリ、泣いてるの?」
暗い視界にも、光は見える。
「どうしたの、悲しいの?」
見当違いに問う声は、確かに澄んだ晴天の香りがし、頬にそっと触れた指先は、洗い立ての陽光を放っていた。




