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マリ(よるべ)03

 その時、無音を打ち破る靴音があった。冷たいそれは、マリの膨らんでいた心に針を刺し、暴力的に熱を奪っていった。


「アリスを、あまり苛めないであげてはくれないでしょうか」

「どの口が言うんですか、フェレ聖導師」


 澄ました物言いに、マリは表情を歪めた。しかしフェレは気を悪くした様子もなく、続けた。


「彼女たちは孤独でいなければいけない。そうでないと魔法を失ってしまう。分かってください」

「そんな糞みたいな力、捨ててしまえばいい」


 唸るように吐き捨てる。威嚇をする獣のごとく、マリは鼻頭に皺を寄せた。


「聞き分けを持ってください。彼女たちは、全世界の命運を握っているのですよ」

「それは、あなたが背負わせたんでしょう」


 苦々しさを噛み殺し、マリは言った。


「僕は、あなたを恨んでいますよ、フェレ聖導師」


 胡散臭さを穏やかさで覆い隠したようなこの男が、出会った時からずっと嫌いだった。奇しくも同じ日だったのだ。初めてフェレに出会った日と、マリが足を手に入れた日は。

 まだ盲目に慣れない頃だった。ベッドの上で、いつも不安だった。アリスはほとんど部屋に引きこもって、なかなか会いに来てくれない。やっと会えても、精神が不安定で覇気がない。先の見えない暗闇を歩いている気分だった。


 散歩に行きましょうか、と修道女に誘われた時、馬鹿じゃないかとマリは思った。いくらまだ子どもとはいえ、細い手首でマリの世話をする彼女が、自分を背負って歩けるとは思えなかった。

 彼女はマリの足をベッドから下ろすと、脇に両腕を突っ込んで、椅子のようなものにマリの腰を移した。体重を落とした瞬間、椅子が軋んだ音を立て後ろへ下がった。「うわ」と慌てたマリに対し、修道女は「大丈夫ですよ」と余裕だった。

 そして、彼女達はそのまま椅子に体重を掛け、押し出した。


「わああ」


 乗り心地は、良いとは言えなかった。振動は直接全身に響き、段差では体が跳ねて倒れそうになる。下半身の感覚がないのが救いだった。もしあったら、尻や腰が痛くて仕方なかっただろう。

 それでも、気持ち良かった。つむじに太陽の柔らかな陽射しを浴びた。爽やかな風を正面から受け止めた。土と緑の香りで肺を満たした。鳥の遠鳴きに鼓膜を揺らした。見えなくても、広く美しい世界を感じた。それだけで、塞いでいた心が晴れ渡った気がした。


「これ、僕が一人で動かすこともできる?」


 高揚した問い掛けに、修道女は優しく答えた。


「練習したら、きっとできますよ」


 まず、筋力が足りなかった。当たり前だ。今までずっと、寝たきりだったのだから。辛うじて車輪を回せたとしても、前傾姿勢になると下半身の踏ん張りの利かないマリは顔面から地面に崩れ落ちてしまうのだ。手を滑らし、石に躓き、窪みに落ちては車椅子から投げ出された。手も頬も汚れ、擦り切れた。動かない足が重く邪魔だった。倒れた車体で回る車輪の音を聞き、ようやく這って向かう先が分かった。


 若いんだから、頑張ってくださいね。そんな気楽な言葉を残し、修道女は仕事に戻っていた。彼女は時折り顔を出しては、水の入ったコップを差し出し、マリの顔を「真っ黒になりましたね」と無邪気に笑った。

 空気が涼しくなり、強い陽光と鳥の羽ばたきにマリは夕暮れを悟った。体は擦り傷だらけ、服は泥だらけで散々だった。けれど、悲鳴を上げる肩と腕の筋肉で回した車輪は、今日で一番多く進んだ。


「やった」


 歓喜の声を上げた束の間、汗と破けた肉刺から零れた血が手を滑らせた。状態が大きく投げ出された。落ちる。そう確信した。

 けれど、マリを襲った衝撃は予想とは異なったものだった。時が止まったかのようにマリの身体は不安定な体勢で停止をした。金縛りにあったのかと思うほどの衝撃だった。


「ああ、間に合ってよかった」


 落ち着いた男性の声だった。初老ほどだろうか、穏やかさの中に深みが滲んでいた。車椅子に気を取られていて気付かなかったが、今ははっきりとこちらに近づいてくる足音が聞こえた。片腕がこちらに伸ばされる気配がした。すると、何にも触れられた感覚はないのに、身体が勝手に椅子へと戻っていった。不可解で、気分が悪かった。こんなことができるのは、おそらく魔導師だろう。マリは脳内でそう結論付けた。


「随分汚れてしまっていますね」


 男が自らの懐を探っているのが分かった。おおよそ、手拭でも取り出そうとしているに違いない。マリはうんざりして先手を打った。


「大丈夫です。後から自分で落とすので」

「そうですか。失礼しました」


 彼はマリ相手にも、慇懃な言葉遣いを崩そうとしなかった。丁重な姿勢のまま、訊ねた。


「修道院には、どちらから伺えばいいのでしょうか」


 頭上から投げかけられたその質問に、マリは眉を寄せた。不穏な風が足元から土埃を舞い上げた。吸い込んだ空気が、ざらついていた。その声に応えなければ良かったと、マリは後から思い返しては何度も後悔をした。

 希望と絶望が一緒にやってきた。そんな一日だった。


「あなたは、からっぽになったアリスを利用して、酷いことをしている」


 彼が与えた蜜は、計算通りアリスを掴んだ。食事も睡眠も拒絶し、生きることから逃げようとしていたアリスは、すっかり彼に心酔し、彼の言葉を信じきってしまった。

 だが、何が『伝説の魔導師の生まれ変わり』だ。何が『ヴィクイーンを封印できるのはあなたしかいない』だ。そんな上手い話、裏があるに決まっているのだ。それでも。


「でも同時に、感謝しています」


 マリは胸を張って言った。


「アリスに生きる希望を与えることは、あなたにしかできなかった」


 悔しいけれど、自分を責めて死にたいと泣く彼女に、マリは掛ける言葉を持たなかった。生きることに苦痛しか見出さなかった彼女に、明日の光を信じさせることが出来なかった。フェレしか、アリスを救うことはできなかったと、マリは痛感していた。たとえ、彼がアリスを導く先に、どんな非道が待っていようとも。


「だから僕、あなたが好きです」


 伝えることは、苦痛ではなかった。彼がアリスに与えるものが、彼女に恵みをもたらしてほしいと、祈るような気持だった。背筆な空気を肺いっぱいに吸い込んで、力強く声を放つ。


「アリスの力を信じてくれて、ありがとう」


 フェレは短く息を吸い込んだまま、何も応えなかった。そのまま口を開く気配もなく、彼は黙り込んだ。

マリは最早彼と話すこともなかったので、車椅子の車輪に手を掛けた。彼の脇を通るとき、かすかに洟を啜る音と嗚咽を聞いた気がしたが、気のせいだと思うことにした。自分の言葉が彼の何を揺らしたかなど、考えても詮無いことだった。

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