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マリ(よるべ)01

 目が見えないからと言って、世界が色を失うわけではない。双眸が光を映すことをやめてしまっても、陽光の暖かな香りを乗せた風は、高く晴れ渡る昼間を教えてくれる。水を打ったように静まり返った聖堂の前方で蹲る小さな鼓動、息遣い、身じろぎの音は、強く気高い彼女の背負う孤独をマリに照らし出してくれる。

 マリは車椅子の車輪部を力を込めて回した。木製の部品が軋んで音を立てた。車輪が段差に乗り上げ、越え、落ちる。その衝撃音がアリスの意識を捉えたようだった。


「マリ!」


 七年前から変わらず、鈴の鳴るように高く澄んだ声が、喜びを滲ませている。彼女がこちらに駆け寄ってくるのが分かる。速い足音、弾んだ呼吸が段々大きくなる。アリスはマリの背後に回り、後ろから車椅子を押して通路を歩く。


「マリも、お祈りにきたの?」


 問い掛けは純粋で、マリは返答に困った。聖堂の奥へ進むほど、水を打ったような静けさが広がっていく。耳が痛くなるほどの静寂。マリは、アリスがどんな心性で少女信仰の社に祈っているのかが知りたくなったが、黙って首を振った。


「……血の匂い」


 呟くと、アリスが踏み出した足を引き、その場に立ち止まった。長い沈黙の末、アリスは重い口を開いた。


「……今日は、切ってないわ」

「鎌を掛けてみただけ」


 そう言って、マリは頬を緩めた。彼女が傷ついていないのなら、それだけで充分だった。


「切れなかったの」


 罪を告白するように、アリスは言った。


「切りたかったのに、切らなくちゃいけないって思ったのに、切れなかった。痕一つなく、ベラに治されたの。滑らかな肌を見て、あの子がどんな気持ちで治したかって想像すると、どうしても切れなかった」


 声が潤み、震えていた。さっきまで、泣いていたのかもしれないとマリは思った。おそらく、自分が現れたから取り繕っていたのだろうと。わななく声でアリスは続ける。


「わたしは傷付いていないといけないの。痛みを忘れることは許されないの。だって、わたしのせいで死んでいった人たちは、もっとずっと痛くて怖かったはずだもの。だから私は、傷付いていないと生きていてはいけないの」


 神に向かって、懺悔をしているようだった。


「本当は死ななくちゃいけないんだけど、わたしが死んだらヴィクイーンを殺せないから。ヴィクイーンを殺すためだけに生きることを許されているの。わたしが招いた災いは、わたしが清算しなければ」


 アリスは湿った息を吐いた。深い呼気は、罪悪感を包み込んでいるようだった。


「だからわたしは、楽しんではいけない。幸福になってはいけない。いつまでも苦しんでいなくちゃいけないの」


 淡々と紡がれた声が辛そうだった。マリは上体を捻って背後に顔を向けた。瞼に覆われた瞳は何も映さないが、嗚咽を必死に噛み殺すアリスの繊細な場所はすぐに分かった。

 久方ぶりに、瞼を持ち上げる。暗い世界は一向に変わらず、空気に触れても両目は何も感じない。焦点も合っていないだろう。それでも良かった。伝えたい気持ちを乗せる、言葉はまだ失っていのだ。自分が今持てるだけの愛情を込めて、音を吐く。


「君は、そう思っていないと生きていられなかったんだね」


 アリスは息を止めた。辺りは静まり返っていた。膜で柔らかく包まれているような、奇妙な非現実感と、触れれば割れる精緻な硝子細工のような、現実の残酷さが隣合っていた。目を細め、頬を緩める。見えなくとも、表情が、優しい微笑みになるように。


「ねえ君は少し、君を許してあげてもいいんじゃないかな。君は、君を憎みすぎているよ。それじゃあ、息をするのも苦しいはずだ」


 正解の分からない問題に心が挫けそうになる。けれど、間違いでも構わなかった。この愛情が音に乗ってアリスに届き、彼女が息を吸う時に感じる自責が少しでも和らぐのなら、それだけで充分だった。心を鼓舞して言い放つ。


「僕が代わりに引き受けてあげる。僕が一生、君を憎み続けるよ。だから安心して、君は君の嫌いな君を許してあげて」


 ひゅ、とアリスは息を呑んだ。彼女の身体から、様々な感情が溢れ出るのが分かった。入り乱れ、混ざり合い、昇華していくそれらがマリの肌をチクチクと刺激し、アリスが嗚咽をこらえようと声を抑えた頃にはすっかりその酔いに当てられていた。


「優しいのね、マリ」


 震える声が言った。マリは微笑を崩さなかったが、それは違うことをよく知っていた。アリスは、マリの告白をもう既に忘れてしまったかもしれない。幼い頃に一時浮上しただけの感情は、時の流れとともに消えてしまうものだと思っているのかもしれない。しかし、マリは今も昔と変わらずアリスのことが心から好きだった。


 彼女の、一途な生き方が好きだった。刹那の命を、信じるもののために迷いなく投げうてる、不器用さが好きだった。それはマリにはない心根で、それゆえにとても尊いものに感じられた。そして、自分を追い込んで傷付けずにはいられない、高潔さが悲しくて、愛おしかった。彼女の、人生への一生懸命さが好ましかった。だからこそ、アリスの呼吸が少しでも楽になるのなら、彼女を憎み続ける鬼にだって平気でなれる。それが、アリスを愛したマリの覚悟だった。


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