ベラ(しるべ)03
彼女は柔和に微笑んだ。ように見えた。
「自分の本当の思い、本当の傷から目を逸らさないで。自分を偽っても、傷口は癒えないわ。傷口を見据えて大切に守り育てていくと、いつか美しく気高い傷跡になるわ。それはあなたに祝福を与えてくれるでしょう」
「あたしの傷って何」
「問うてはいけないわ。だって、あなたが一番よく知っているのだもの。問い掛けに応える声が最も正しいというわけでもないでしょう」
「あたしを見捨てるの」
「手を取り足を取ることだけが愛の形ではないわ」
彼女は優雅に、身体を揺らす。夜に映える苛烈な美しさが目に痛い。ベラは思わず息を呑んだ。
「あなたはよく知っているでしょう、ベラ。人間はね、自分の傷から目を逸らすためには、時に驚異的な手段を見つけ出すのよ。わざと傷を増やしたり、他者の傷ばかり見つめたり、傷そのものをなかったことにしてしまったり。どんな傷も受け止められるくらい、強くなりなさい、ベラ。いくら目を逸らしても、傷は血を流し続けるわ。傷を見つめ真剣に対処し続けることが、一番自分を守るのだから」
「あなたが救ってくれるのではないの」
「誰かに救ってもらえるのを待つことほど、辛いことってないわ」
彼女はベラに両手を差し伸べた。応えるようにベラは頬を差し出す。近くなる輝きに瞼を閉じると、彼女の小さな手の平が触れた頬が焼けるように熱くなった。しかしそれは、不思議と心地の良い痛みだった。
「ベラ。誰もあなたを本当の意味では救えないという事実を、辛くても受け入れなくてはいけないわ。でもね、夜の闇がいくら生ぬるく心地良いからって、冷たい光に手を伸ばす健やかさを失わない限り、あなたはあなたを救うことができるの」
「辛い思いなんてしたくないよ」
「あなたが恐れているのは痛みではないわ。もうどこへも行けないということを突き付けられることよ。安心して、傷口に飛び込んでいいわ。あなたは自由だもの。恐れていることは、決して起きやしないわ」
「嘘だよ」
「どんなに身体を縛られても、どんなに意志を捻じ曲げられても、誰もあなたの魂を汚せない。それって、とっても寂しくて、とっても清々しいことよ。あなたは自由なんだもの」
いつの間にか、涙は枯れていた。ベラは濡れた唇で笑みを作った。弱々しくも、明るさを失わない笑顔だった。
「結局、一人で歩けってことね」
「傷を磨きなさい。一陣の嵐は祝福を呼ぶわ。痛みの中へと飛び込むのは勇気の要ることだけど、自分の足で進めない苦しさの比ではないでしょう。あなたはその心と体でここまで生きてきた。だから、きっとできるわ」
すると、ベラの周囲を渦巻くように、どこからか突風が沸き起こった。
「ベラ。手を出して」
優しくも甘さのない声が命じる。ベラは風の中、必死に目を開けた。前に掲げた手は血に濡れている。傷口の上で、金色の彼女が笑っていた。
「あなたはあなたの軌跡を、誇りに思っていい」
烈風に彼女が霧のように掻き消えていく。待って。口元をついた言葉を飲み込んだ。ベラは笑顔で風を見送る。彼女が霧散すると、残滓のようなつむじ風だけが残り、砕かれた剣を撒き上げた。
ベラが血まみれの手を伸ばすと、血液が幾筋もの糸となって蠢き、剣の破片を絡め取って縫い上げた。風が消え去った頃、ベラの両手は傷一つないまっさらな肌に戻り、その手の内には元通りに美しい大剣があった。森閑とした夜の満月が、白刃を煌めかせる。剣客に嵌められた大粒の鉱石が、深い碧をたたえていた。
ずっと、刃物を握るのが怖かった。両手が血に染まったことを、人の肉を裂いたことを、思い出してしまいそうだった。今まで、必死に恐怖を克服しようとしてきた。けれど、そうではなかったのではないかとベラは思う。どんなに否定しても、胸の奥深くへと押し込めようとしても、自然に湧き上がる感情は消えることはない。善でもない、悪でもない、臆病な自分を認めなければいけなかったのだ。
「あたし、人を殺したくなかったんだ」
柄を握り締めながら、呟く。腕の一部であるかのごとく、大剣は軽くなっていた。
「誰も、殺さないでいよう」
祈るように、剣を額近くに寄せた。静かな大気は、さざ波の音を孕んでいる気がした。星の瞬きが祝福となって、雪のように降り積もる夜だった。人を傷付けない剣ならば、振るうことを恐れる必要はない気がした。
 




