ベラ(しるべ)02
眠れないからと足を踏み出した夜は、静かに重い濃紺の帷を張り巡らせていた。緩く流れる霧のような雲の隙間から、銀砂を撒いたような満天の星が瞬いている。夜もなおぬるい風は微かに潮の香りを纏い、生と死の狭間の生臭い甘さを運んでくる。ベラが当て所なく足を動かし辿り着いたのは、崖下に海を臨む小高い丘だった。
雲が流れ、金色に輝く満月が現れる。眩い光は、周囲の淡い星を霞ませている。
ベラは雑草の茂る地面に膝を下ろした。揺れる呼吸を整え、ゆっくりと両手を胸の奥へと突き立てる。身体の中へ沈み込んでいく手先。温かく、懐かしい感覚。その中心で、力強く脈打つ心臓。どれだけベラが気力を落としても、決して生きることをやめようとはしない器官。ベラはその塊をそっと両手で包み込んだ。
体外へと引き摺り出しながら、羽化したての虫のような柔さの剣を感じる。身の内では質量のなかったそれは、空気に触れた瞬間、巨大な重石を思わせる斤量を持ち、ベラは地面に這いつくばりながら、辛うじて己の剣を引き抜いた。
息を荒げながら、大地に横臥する大剣を見つめる。手に負えない道具は、使う者を惨めにする。ベラは唇を噛み締めた。それでも、わななく口許は止められない。悔しかった。己への憤りが胸中を満たしていたが、その感情は薄皮を剥がせば行き場のない悲しみが鎮座していることを、その実ベラは分かっていた。
「どうして」
魔法を手にしてから、何もかもがままならない。不甲斐ない自分も、思い通りにならない力も、どうにもならないと分かるとただただ悲しさしか残らない。自然と、瞳から涙が零れた。雨垂れに似た、淡々とした雫が剣を濡らす。堰を切った心から、残忍な感情が溢れ出し、衝動的にベラは拳を振り上げた。両目を見開き、苛烈さを宿して振り下ろす。
分厚い白刃に、ひびが入った。行動に伴う結果に、異様な達成感が胸を満たす。それからは、無我夢中に大剣を壊し続けた。徹底的に、滅茶苦茶にしなければいけないと感じた。不幸に底があるのなら、その地をこの足で踏みしめなければいけないのだと思った。刃は無数に砕け、両手は血に染まった。望んだ結末を手に入れても、虚脱感しか湧かなかった。
沈んだ心で、ベラは裂けた両手を握り締めた。喉の奥から嗚咽が漏れる。視界が滲み、絞り出すように流した涙が頬を濡らす。奥歯を食いしばると、眉が歪み瞼が下りた。四つ這いになりながら、ベラは目を閉じ慟哭する。
「どうしてこんなに願ってるのに叶わないの!」
本当の事を知りたいと思った。自分の知らない、本当の自分がいるのではないかと祖国を飛び出した。けれど出会ったのは、長年連れ添ってきた情けのない自分の姿だけだった。
変わりたいと願ってきた。そのために剣を手にした。しかし結局、恐怖は骨の髄に纏わりつき、剣さえも自分を裏切った。
宵風に虫の音が混ざる。葉擦れの音を掻き消すように、優しい響きがベラの耳朶を打った。
「ベラ」
慈愛に満ちた呼び掛けだった。砂に水が染み入るように、荒んだ心に浸透していく声だった。瞼の裏に光が見えた。導かれるまま、ベラは顔を上げ、目を開いた。
ぼろぼろになった両手から流れた血が、小さな海を作っていた。夜の闇の中、赤黒く艶めくその水溜りから、蜃気楼のごとく立ち上がり揺らめくものがあった。
それは、金色の炎に見えた。
焚き火がはためき火の粉を撒くのに似て、彼女は金色のスカートを靡かせていた。
金色の髪、金色の肌、金色のドレス。辛うじて表情が窺えるほどに凹凸があるだけで、顔には目鼻がない。炎に溶けた蝋のようにつるりと捉え所のない容姿。存在しない口で、彼女は言う。
「ベラ。ねえ、聞こえる」
「聞こえるよ」
慈雨の声に応えると、胸のつかえが取れ濁流の感情が押し寄せる。
「あのね、あたし、間違ってたかな」
口にすると、ああ自分は間違えたのだいう実感が沸き上がり、諦めに似た受容が胸に広がるが、彼女は穏やかに首を振った。金色の髪が流れる。
「光のない場所で必死に足を踏み出すことを、間違いとは呼ばないわ」
「でも、あたし、何もできなかった」
「目に見える成果だけが、未来に貢献するということでもないの」
宵闇を払うように、彼女は眩く光っていた。
「ベラ。あなたは気づいていないだけよ。いつでもあなたの一番傍にあるというのに、分かり易いものばかりに囚われてしまうの」
「何のこと」
彼女は柔和に微笑んだ。ように見えた。




