ベラ(しるべ)01
腕の中のアリスの体は、酷く軽かった。まるで、皮膚の内側が空洞になっているようだとベラは思った。二人を包んでいた光が淡くなる。掻き消されていた世界の色が蘇る。草原の緑が、風に揺れていた。空の青が、高く突き抜けている。雲の白が、薄く滲んでいた。
草を膝で掻き分け、ベラは真っ直ぐ修道院へと向かう。裏口の前に、フェレが立っていた。彼は何も言わなかった。ベラも伝えるべきことはなかった。師弟は無言で擦れ違う。一瞬、息の詰まるような緊迫があった。しかし通り過ぎてしまえば時間は穏やかな静けさで広がっているだけだった。
アリスの部屋に向かって、階段を上る。時折り板が軋み、沈み込む錯覚を覚える。部屋の前につくと、アリスの膝裏を通した手を伸ばし、ノブを捻る。室内は薄暗い。掠れた音を立てるドアを潜り、質素なベッドに少女を寝かせた。
白いシーツには、所々赤茶の染みが散っていた。室内は空気がこもり、かすかに饐えたような匂いがして、ベラは思わず眉を寄せる。厚いカーテンを開けると、眩しい陽光がベラを照らした。開け放った窓から、暖かな風が吹き込んで部屋の空気を掻き混ぜた。塵が光を反射し、幾千の星のように煌めく。
ベラはベッド際へと歩み寄った。アリスの寝顔は険しく、幼さからは程遠く痛々しい。膝を床につき、布団に乗せた腕に顔を横たえた。目を閉じると、小さな呼吸音が鼓膜を揺らす。ベラは意を決してベッドに登った。木枠が乾いた音を立てる。アリスの体を跨いで膝立ちになると、ベラは少女の胸元から少し離れた位置に、両手を重ねて浮かせた。瞼を落とし、集中する。
「お願い。願って……」
賭けだった。
彼女が治りたいと願わなければ、傷を癒すことはできない。ベラは祈ることしかできなかった。
以前、彼女がヴィクイーンにつけられた傷を治したのとは訳が違う。ベラは今、アリスによって傷付けられた人々と、アリス自身が彼女につけた傷を癒そうとしているのだった。アリスがそれを拒絶すれば、彼女はもう目を覚まさないかもしれないとベラは思った。
重ねた手の平が震える。指先に血が集まる。魔法はまだ発動しない。
「治って。お願い……」
空気は乾いて陽だまりの香りがした。敷布団に沈み込んだ膝が、僅かに痺れる。丸めた背中が、小さく軋む。
その時、ベラの手の平が、灯火が宿ったように暖かな熱を発し出した。熱はだんだんと強くなり、皮膚が焼き付いてしまいそうだとベラは思った。瞼の向こうに、眩い金色の光を見た気がした。
熱が引いて再び目を開けた時、ベッドには血や泥の跡一つない少女が横たわっていた。広がった赤い巻き毛が艶めいている。ベラはそっとアリスの袖を捲った。そこには、滑らかな褐色の肌が鎮座していた。
視界が滲んだ。湿った吐息が漏れる。ベラは両手で顔を覆った。窓から射し込んだ甘やかな陽射しが、半身を温めていた。流れる時は静謐で、囁くように緩やかだった。
いつの間にか、眠ってしまったようだった。微睡みの中、震えた瞼をそっと持ち上げると、真横にあどけない寝顔があった。初々しい眉、丸くベッドの方へ垂れた頬、薄く開いた唇。一瞬顔がぎゅっと顰められ、肩がぐっと丸まると、赤い睫毛が数回瞬き、焦点の定まらない澄んだ瞳が姿を現した。
視線が絡まり、安らかな気持ちになったベラが微笑むと、アリスが勢い良く跳ね起きた。衝撃に、埃が舞う。
「なんで、あなたがここに……」
毛布を胸元に手繰り寄せたアリスが呆然と呟く。ベラは冷めた空気に晒された肌を撫でつつ起き上がり、目尻を下げた。
「体調はどう? 痛いところはない?」
その言葉に射られたようにアリスは表情を強ばらせ、額、頬、肩、腕と自分の全身を手の平で確かめる。そして、顔を青くして言った。
「治したのね」
彼女はベッドの淵まで後ずさり、そのままずり落ちるように両足を床につけると、仁王立ちになり顔を伏せた。長い髪の合間から、低い声が漏れる。
「わたしから……を……で」
「え?」
聞き取ろうと前傾姿勢になったベラの鼓膜を、鋭い声がびりびりと打った。
「わたしから、傷を奪うな!」
真紅の瞳が、怒りに燃えていた。
「この傷はわたしが生きてきた証、この痛みはわたしが生きる意味! 安易な快楽の為に奪っていいものではない!」
喉を引き裂くような、悲痛な声だった。
「返して。わたしはもう、痛みなしで生きることなんて許されないのよ……」
項垂れ、蹲った小さな体躯を、ベラは呆然と見つめていた。驚愕と悲しみ、そして行き場のない怒りが混ざりあって、茫洋とした痛みとして胸の奥に鎮座している。窓から差し込む光は乾いて、昼の白い輝きを放っていた。吸い込んだ空気は喉を刺し、胸の中は鉛が詰め込まれたように重く感じた。




