アリス(ねがい)01
出会わなければよかったと、アリスは思った。最初から出会わなければ、彼に特別な一人として認識されることも、彼を特別な一人として認識してしまうこともなかったのだ。月明かりに照らされた窓辺、彼女は部屋の隅で膝を抱えた。
修道院の質素な一室、そこがアリスに与えられた自室だった。黴臭い床、硬いベッド、染みが散った天井。息苦しく思えたのは、初めてのことだった。
いつも、自分以外の誰かのことを思って生きてきた。自分よりひもじい人、自分より痛みを抱えた人、自分より絶望に濡れた人。
祈ることこそが、彼女の生きる意味だった。祈りという行為にこそ意味があり、そこに彼女自身は必要なかった。
「誰かに愛されることが、こんなに苦しいなんて、知らなかったわ」
彼女は独りごちた。
愛されたいと願ってきた。修道院に拾われ、誰もに平等に慈愛を与えるシスター達に育てられ、博愛という正義を知った。与えることこそ、与えられることなのだと。
けれど、その他大勢から隔絶され、自分という個を他の誰よりも尊重される歓びを、一度でいいから味わってみたかった。その結果がこれだ。生ぬるい憧れが、危うく彼女の使命を殺すところだった。
ノックの音がした。
「迎えに参りました。エグタニカの巫女よ」
アリスは両手で自分の頬を滅茶苦茶に捏ねた。そして首を振り、迷いを断ち切ると、立ち上がり色褪せたドアに向かって歩み出す。
「今、参ります」
神殿の中は、ひたすらに白く、静かだった。大木のような柱が等間隔に並び、その中間にぽつりぽつりと蝋に明かりが灯されている。広い廊下を黒服の神官たちに囲まれながら、硬い生地の巫女装束に身を包んだアリスはぎこちなく進む。
先頭を歩いていた神官が、大扉の前で立ち止まった。
「エグタニカの巫女よ、こちらが祭儀場になります」
樫でできた扉だった。両開きで、少し黒ずんでおり、精緻な彫刻が所狭しと施されている。
黒い頭巾を被った小柄な神官二人が進み出て、重厚な扉を引き開けた。金具が擦れ、鈍い音を立てる。
暗く広い室内に、廊下の淡い光が差し込んだ。一番初めに照らし出されたのは、ずらりと敷き詰めたれた椅子だった。何列も並んだそれの前に、祭壇があった。
光が、祭壇を浮き上がらせる。一段高くなった床に、円と線を組み合わせた不思議な文様が刻まれていた。その中央が、黒く汚れている。その染みは中心ほど床板が腐るぐらいに濃く、縁に向かうにつれて滲むように淡くなっている。
酷く饐えた悪臭に、アリスは顔を顰めた。その臭いの元を探して視線を上げると、少女は凍り付いた。
「何なんですか、あれ……」
高い天井から、幾筋もの鎖が垂れている。重なり、撓んだそれは、祭壇の中心へと収束する。そして人型のなにかの、腕に、首に、足に、胴に、幾重にも巻きついていた。
「あれは、先代の巫女です」
黒服の神官が言った。
「エグタニカの巫女は、その身を国に捧げ、永遠の魂を手に入れ国に加護を与えるのが役目なのです」
眩暈がした。全身から血の気が失せ、そのくせ心臓だけがうるさかった。手足が痺れ、平衡感覚が崩れる。アリスは呼吸を忘れた。誰かが叫んだ。
「嫌あああああああああああああああ」
気付いたら、喉が震えていた。声帯が擦り切れたように感じた。
それからは、無我夢中だった。必死に駆けた。たくさんの人に身体をぶつけ、絡め取られながらも、ありったけの力で抵抗した。
遠くに声が聞こえた。
「逃がすな、捕まえろ」
その言葉が、脳内に反響した。彼女には正しいことはなにも分からなかった。ただ、ここにいてはいけないことだけが確かだった。
節くれだった大きな手に腕を取られた。強い力。厚い筋肉。じっとり湿った手汗。その全てが、アリスに嫌悪をもたらす。少女は素早く腕を払い、男の腕を跳ね除けた。しかし、その反動で態勢を崩す。
白い床がゆっくりと近付き、頬を張った。半身に衝撃が駆け巡る。叩きつけられた身体は一瞬跳ね、制御をなくして力なく横たわった。
いくつもの手が伸びて、少女の身体を地面へと押さえ付けた。肺が潰れ、骨が軋んだ。すると、膝に鋭い痛みを感じた。
「血だ!」
悲鳴のような声だった。
「純潔の少女が穢れてしまった! 神聖な神殿が汚された!」
「不吉だ! 不吉だ!」
「地下牢に放り込め! 二度と出すな!」
終わったと、思った。