ノキノ(いえない)03
当時、シヨンは八歳だった。息子に対して使うべき言葉ではないと知っているが、シヨンはどこか変で気色が悪かった。ノキノ自身、自分をそれほど良い母親だったとは思っていない。シヨンを食わせるために必死に働いたし、身の回りの世話も不自由のないように整えた。けれど家族としては、やはりそれだけでは不十分だっただろう。ノキノは自信をもって、シヨンを愛していたとは言えない。
望んだ妊娠ではなかった。しかし、期待もあった。これで、あの人もこの町に腰を落ち着けてくれるのではないかと。ノキノの恋人は旅人だった。吟遊詩人で、国から国を渡り歩き、そこで見聞きしたことを歌にして伝え歩いているのだと語っていた。ノキノにはそれがどれほど金銭になることなのか分からなかったが、貴族の屋敷呼ばれる位だったので、生活に不自由している印象はなかった。
いつか、彼が言っていた。
「僕の故郷はね、砂漠の中にぽつんとある宿場町だったんだ。砂の海に囲まれて、厳重な装備がないと町から出ることも叶わない、そんなところさ。町の人々は一度も町の外に出たことがないし、誰も出ようなんて思わないのに、大陸中を旅する商人や冒険家がひっきりなしにやってくるんだ。彼等から広い世界の話を聞いてね、僕は絶対にこの目で広い世界を見てやるんだと誓ったよ。
それで家族の反対を押し切って町を出てね、まあ当然行き倒れるんだけど、そこで僕のお師匠様に助けてもらってね、そのまましばらく一緒に旅をさせてもらったんだ。いろんな国のスラムや王宮を見たよ。戦争や、革命の瞬間にだって立ち会った。今まで生きてきた中で、一番充実していたんだ。僕は、どうしてもっと早くあの国を飛び出さなかったんだろうって、何度も後悔したよ」
ノキノは料理をしながら彼の話を面白くない気持ちで聞いていた。ノキノも、生まれ育ったこの町を出たことがなかったし、それを恥じたこともなかった。だから、彼に自分の生き方を否定されたような気がしてしまったのだ。
正反対のノキノと彼は、おそらく一生交わることのないはずだったのだ。けれどなんの悪戯か、突然の大雨に困り果てた彼が門を叩いたのが、父母を亡くして一人暮らすノキノの家だった。
彼と過ごす時間は夢のように楽しかった。語り部をしているだけあって、彼は何でもないことを劇的に話したり、一緒にした行動全てを華やかに演出したりする才能があった。一瞬もノキノを退屈させなかったし、甘い愛の言葉を何度も囁いてくれた。ノキノは人生で初めて、常に酔っているような心地を体験した。
けれど、旅人を愛したのが間違いだったのだ。彼は、ノキノが縛り付けて置けるような人ではなかった。
「子どもが、できたみたい」
宵に訪れ、明け方にいつものように去ろうとする彼を、ベッドの中からノキノは呼び止め言った。まだ顔を出したばかりの朝陽が簾の隙間から部屋に差し込み、凍り付いた彼の表情を映し出した。空気には朝露の香りが満ち、生ぬるい空気が暑くなる昼を予感させる。上半身を起こしたノキノは深く息を吐き、冷めた目で彼を見た。彼は引き攣った表情で言った。
「嘘でしょ? 困るよ」
瞬間、ノキノの中に残っていた彼への期待や執着が砂のように崩れ去っていくのを感じた。夢から醒めたのだと、思った。
「もう、来ないで。来ても、入れないから」
彼は何も答えなかった。元より、二度とノキノに会うつもりはなかったのであろう、家を出るその足取りは速く迷いがなかった。母の葬式以来初めて、ノキノは毛布を顔に押し付け、涙で濡らした。
生まれた我が子は、静かな息子だった。あまり泣かないし、言葉を発するのも遅かった。あまり外界に関心がないようで、いつもぼうっと宙を眺めており、人見知りもあまりせず、誰に抱かれても身じろぎ一つせずぼんやりしているような、可愛がり甲斐のない子どもだった。
ノキノはシヨンを育てるため働きに出ていたので、シヨンを誰かに預けておく必要があった。初めはいつも世話になっている村長の娘に頼もうと思っていたのだが、ノキノと同じように乳飲み子を抱えていた隣家のエリーゼが、「わたしが見ておくよ」と声を掛けてくれた。
エリーゼもシヨンの父と同じく、異国の女だった。エグタニカ公国と共に旧リスサンチオ帝国を構成していた、北のハスバル皇国の生まれだと言っていた。彼女は旅の芸人一座で、踊り子をしていたらしい。彼女の天使のような容姿と、艶やかな踊りに見惚れた今の夫と結婚し、女児を授かっていた。
ノキノはシヨンの父と重なるエリーゼの出自にわずかに忌避感を持っていたが、有り難い申し出に甘え切りになっていた。それにノキノが従事していた仕事は、薪を切り出したり家畜を解体したりとどれも重労働だったので、エリーゼへの懸念など日々の疲労に薄れていった。
けれど、シヨンが大きくなると話は別だった。雨季に入ったばかりの夕暮れ、鮭の皮を繋ぎ合わせた合羽を着込んでシヨンを迎えに行ったノキノに、エリーゼが嬉しそうに言った。
「ノキノさん、この子、歌がすごく上手なんだよ。音感がいいよ。将来、有名な歌い手になるんじゃないかね」
朗らかに微笑むエリーゼに隠れるように、彼女の娘がこちらを窺っていた。エリーゼのスカートの裾を小さい手で掴み、大きな瞳を瞬かせている。その隣で、シヨンはつまらなそうに俯いていた。
ノキノは困惑して答える。
「そうなのかい? わたしはシヨンが歌ってるのなんて、聞いたことがないよ」
あら、とエリーゼがシヨンの背を軽く叩いた。
「じゃあ、お母さんに聴かせてあげなきゃね。恥ずかしいのかい?」
問われたシヨンは、栗色の髪で表情を隠し、指を弄んで遊ぶだけだった。この無口なシヨンが歌を歌うとは思えなかった。ノキノは安心して口許を緩めた。
「いいよ、そんなの。わたしはそんなに浮かれた性格じゃないからね。歌なんて、聞く必要ないさ」
おいで、シヨン。と、手を差し出して呼ぶと、シヨンは顔を伏せたままノキノの隣まで歩み寄り、その手を取ることなく家へと歩き出した。シヨンは母に甘えることのない子どもだった。ノキノは、シヨンが自分に母親として特別な愛着を持っているのかどうかも自信がなかった。
ノキノと一緒にいる時は、シヨンはいつも一人遊びをしていた。木の枝を組み合わせて玩具を作ったり、平たい石に針を使って図形を描いたりを、飽きることなく何時間も繰り返していた。そんな最中にノキノが声を掛けたり無理やり中断させようものなら、シヨンは無言で自分の寝床まで走り去り、毛布に包まって頑として出ようとしなかった。
しかし、その日は少し様子が違った。シヨンはノキノが夕食を作るまで、ぼんやりと彼方を見て左右に身体を揺らしていたと思ったら、食事を終えた後おもむろに口を開き、音律を口ずさんだのだった。
『潮騒の音 海鳥の羽ばたき 掻き消しておくれ 砂に膝つく少女の嗚咽』
ノキノは肉を蒸した葉の後始末をする手を思わず止めた。静寂を切り裂くように解き放たれた、古く伝わる詩歌。聴く者の心を鷲掴む、複雑で物悲しい旋律。幼さの中に凛と生え立つ気高さを持った歌声は、耳に深く残り鮮やかな情景を描き出した。
『夜の海原 揺らぐ月影 飲み込んでおくれ 波に膝濡らす 少女の泪』
無意識に止めていた息を吸って、ノキノは首を振った。シヨンの歌は、彼の父親と同じように、切なさ多分にを含んだ美しいものだった。ノキノは言った。
「もういいよ、シヨン。あんたは上手だよ。でも、お母さんは歌が嫌いなんだ。もう歌ってくれなくていいからね」
シヨンは無表情に、真っ直ぐノキノを見つめていた。その視線から逃れるように、ノキノは顔を逸らせた。シヨンの前で、ノキノは歌を歌ってみせたことなどなかった。エリーゼが教えたのだ。その思いは墨のように広がって、ノキノの心に滲んでいった。




