ベラ(ゆらぎ)03
ベラは瞳孔を開き、眼球を声の方へと動かした。不思議な色の双眸と視線が絡む。凍りついたベラを、アリスの叫び声が打った。
「死ね、ヴィクイーン!」
悪魔は一瞬泣き出す直前の幼子のような表情をして、俯いた。剣を低く構えたアリスが厳しい剣幕で走り寄る。ヴィクイーンは不意に顔を上げ、哄笑した。地を割るような不気味な笑い声が響き渡る。
ベラは思わず息を止めた。アリスは構わず足を止めない。
ヴィクイーンは笑いを全て吐き出すと、大きく息を吸いアリスを睨み付けた。口の端を引き裂かんばかりに顎を開き、絶叫した。
「いつもそうだ! ルノアールはいつだってそう! いつも僕を殺そうとするんだ! 嫌い! 嫌いだ! 大嫌い!」
歯を食いしばったアリスが、ヴィクイーンの腹を目掛けてその研ぎ澄まされた切っ先を突き立てんと、体当たりをするように激しく身を寄せた。すると、拒絶するように悪魔は胸の前で腕を交差させ、空気を薙ぎ払った。烈風が沸き起こり、アリスの足を掬い吹き飛ばした。
空ろな瞳で、男は荒い息をする。猫背になった背中が、前に丸められた肩が上下する。首を捻り、ヴィクイーンはベラを見た。半開きの唇、変に座った瞳、あざ黒い染みが広がった顔面。
「ねえ、ディクソールは違うよね?」
問い掛ける声に抑揚はない。
「ディクソールは僕を殺さないよね? だって君は、ルノアールとは違うだろう?」
ねえ。
「一体、誰から誰を、守るんだい?答えてよ、ディクソール」
ヴィクイーンが目を細めた。愉快げに微笑む。
ねえ。
「ディクソール、地図から消して欲しい国はない? ご要望があれば応えるよ」
ねえ。
サヴァンクロス王国なんて、どうかな?
全身の肌が粟立った。血液が沸騰する。周囲の音が遠のき、金色の瞳孔が散大する。ベラは奥歯を強く噛み締め、威嚇をするように歯茎をむき出した。産毛が逆立つ。眉間と目の周囲に深い皺を刻み、ベラは獣のごとく唸って言った。
「その国に、手を出すな」
ディクソールは静かに笑った。
「随分と大切なんだね」
怒りに震える手で、剣の切っ先を持ち上げる。
「大切にしてたものが壊れていくのって、辛いよね。分かるよ。心が引き裂かれて、壊死していくような心地だよね。でもさ、人が大切にしているものを壊すときって、そこまで苦しくないよね。想像すれば可哀想だなって思うし、自分のせいで誰かが悲しんでいることに、罪悪感だって抱く。だけど所詮、他人事だよね。
同情したり反省したりするのは、詰まるところ道徳心からだ。自分の心の奥底から湧き上がった感情ではないから、どこかぼんやりして現実味がない。しかも、漠然とした世界への怒りを抱いている時、自分以外の全ては敵になる。悪い奴を傷付けたって、悲しみは湧かないよね。分かるだろう、ディクソール」
白刃がガタガタと揺れる。憤怒に恐怖を忘れたベラは、剣先をヴィクイーンの喉元目掛けて狙いを定めた。食いしばった歯の隙間から熱い息を漏らすベラはさながら、獲物を前にした狼のようだった。大きく前足を踏み出し剣を突き立てようと、後ろ足を浮かせたその瞬間、ベラの剣に異変が起こった。
突如心臓が強く脈打つと、激しい頭痛と耳鳴りが彼女を襲い、両腕に重石が載せられたような倦怠感が加わった。
「な、何?」
ふらつき、膝を曲げて転倒を踏み止まったベラは、あまりの重さに腕が下がっていくのを感じた。手首と上腕の筋肉が軋み、血管が引き攣る。吐き気を堪えながら視線を下ろしたベラが見たものは、理解し難い光景だった。
剣の鼓動が、聞こえた気がした。鉄の塊に、白銀に輝く脈のようなものが張り巡らされた。それを通って何か大きなエネルギーが剣に満ちてゆき、刃が一回り大きくなった。
「嘘」
茫然とするベラの前で、剣は成長を続ける。眩暈に背を丸め俯いたベラは、全身から力が抜けていくのを感じた。剣尖が、石畳に白い線を引く。光る脈は、まるで植物の根のようだった。ベラから養分を吸い取り、花開こうともがく蕾が膨らんでいるかのごとく錯覚する。ついにベラの剣身は元の大きさの五倍は超える大剣となった。
「はっ。何だい、これ」
ヴィクイーンが鼻で笑い、体を屈め、剣の方へと手を伸ばした。
ベラは焦って剣を持ち上げようと奮闘するが、悪魔の紫に鬱血した爪が剣脊に触れんとした時、ベラとヴィクイーンは目を見開き、息を止めた。ベラの手が剣を取り落し、重たい音が周囲を打った。
「ベラ!」
ノキノが甲高い悲鳴を上げた。
ヴィクイーンの唇が弧を描いた。口の端から、赤い一筋の血が流れ、顎を伝って地面に落ちる。ベラが体を戦慄かせた。震える声が、驚愕の色を紡いだ。
「どうして、アリス……!」
一陣の風が吹き、宵闇に枯葉が舞った。ヴィクイーンの背後から、長い赤毛が風に靡いた。腹部を剣に貫かれたヴィクイーンが振り向く。引き攣った言葉が言う。
「これぐらいで、勝ったなんて思わないでくれる? ルノアール」




