ベラ(ゆらぎ)02
その時、ベラの心臓がどくんと鳴った。頭に血が上り、瞳孔が開いていく。警鐘のように、鼓動が身体の内で響く。
「フェレ聖導師……!」
ベラが彼を見上げると、師は不思議そうに首を傾げた。けれど、焦るベラに鋭い声が投げかけられた。
「ベラ!」
「アリス」
廊下の先、見慣れた褐色の少女が立っていた。長い赤髪を乱しながら、大きな歩幅で床を鳴らしながら近づいてくる。そこでようやく、フェレが表情を固くした。
「ヴィクイーンが暴れているんですね」
「ええ。師匠、今から向かいます」
行けるでしょう? アリスに問い掛けられ、ベラは慌てて部屋に駆け込んだ。扉を閉じて、寝間着を替える。準備を整え廊下に出ると、アリスが半眼でベラを迎えた。
すっとアリスが両手をベラに向けた。ベラは歩み寄り、彼女の指を絡めた。小さくて、乾燥した手。足元からぼんやりと白い光が湧き、二人の全身を包んだ。その明かりは次第に強くなり、白い闇に視界を奪われたと思った一瞬後、目前に広がっていたのは宵闇だった。
黒い影となった広葉樹が不穏な風にざわめいている。石灰で出来た家屋の壁は所々崩れているが、ヴィクイーンが現れたにしてはあまりにも静かだった。
欠けた石畳の路面に座り込む、一人の女性の姿があった。大柄で、恰幅が良く、色褪せた衣服を纏っている。くすんで白髪の混じったブロンドの髪は無造作に束ねられ、後れ毛が風に乱れている。わずかに煤けた肌は小麦色で、あちこちに小皺や染みが窺えた。
彼女を見下ろすように屈み込んでいるのは、ぼろ布のような衣を巻き付けたヴィクイーンだった。その横顔の表情は、流れた銀髪に隠れて窺えない。半開きの口許の、乾燥して荒れた唇だけが鮮烈だった。
「――った?」
呆然と呟く、女性の声が風音の合間に聞こえた。見開かれた、充血した瞳。たるんだ皮膚が、わなないた。
「いっぱい殺して、楽しかったかい?」
アリスが駆け出した。足の回転を上げながら、胸元に手を突っ込み、勢いよく剣を振り翳す。
「ヴィクイーン!」
その声に振り向いた悪魔は奇妙な色の双眸を丸め、黒ずんだ唇を歪めた。アリスが剣を振り下ろすその瞬間、ヴィクイーンは頭を庇ったその手の平に空気の渦を生み、白刃を防いだ。そのまま、アリスとヴィクイーンは砂塵を巻き上げ勢いに乗って民家の壁まで滑って行く。
烈風から身を守るように地に伏せた女性に、ベラは驚愕を隠して歩み寄った。心許ない声で、呟く。
「ノキノさん……」
「ベラ?」
彼女は恐る恐る顔を上げ、硬直した。
「どうしたの。どうしてベラがこんなところにいるんだい。早くお逃げ」
「あの、あたし……」
言いかけたベラを遮るように、轟音が耳をつんざいた。土煙を巻きあげながら、車輪のようにアリスが転がってきた。丸まった小さな体躯は、勢いよく木にぶつかると動きを止めた。
ノキノが両手で口許を覆った。悲鳴のような息を呑み込む。
けれど蜃気楼のように、少女の影が煙を掻き分け進み来るのが見えた。アリスは低い声で言った。
「ベラ、剣を取るんだ」
怒気と強い意志を孕んだ響きだった。月明かりに、白刃の輝きが浮かび上がる。
「剣を抜け」
顔を強張らせたベラの隣で、ノキノが呆然と言葉を零した。
「あの女の子が、魔導師なのかい? じゃあ、彼女が……エグタニカの巫女?」
勢い良く、ノキノが振り向いた。
「ねえ、もしかして、ベラが……」
ベラは唇を噛みしめ、意を決して胸の中心に両手を押し入れた。固まり切らない寒天のように、生ぬるく粘度を持った流体が皮膚に絡まりつく。見えなくても分かる、熱く光っている方。鼓動が力強く響いてくる方。
指先を伸ばし触れたのは、熱く脈打つ心臓だった。握り潰すように掴み、引き摺り出す。すると、ぐにゃりと芯を持たなかったそれは次第に固く冷たくなり、外気に晒された時には立派な鉄の塊に姿を変えていた。
身体の前で蒼い剣を構えたベラに、ノキノはなんで、と問い掛けた。
「なんで、あんたがディクソールなんだよ……」
ベラは強く瞼を閉じた。瞼の裏がちかちか光る。彼女はノキノを背中で隠すように向きを変え、身体の前で剣を構えた。手の平が汗ばむ。引き結んだ唇が、震えた。揺れる息を吐く。
「ノキノさんは、あたしが守ります」
「へえ」
耳元で、ざらついた声がした。甘い吐息が耳朶に吹き込まれる。
「教えてくれよ。誰から誰を守るって?」
 




