マリ(あわい)02
次にアリスがやってきたとき、彼女は窓を開けた。
「こんなじめじめとした部屋じゃ、気分が落ち込んでしまうわ」
窓はベッドに面した壁にあったから、彼女は躊躇なくマリのベッドに上がり込み、容赦なく彼の足を踏みつけて鍵に手を伸ばした。
「痛いって」
嘘だった。痛覚なんてもう残っていなかった。
「我慢してちょうだい」
彼女も彼女で、他人事だった。
アリスの手が鍵を下ろし、窓を外側に押し開けた。すると、部屋の暖かい空気が窓から押し出され、冷たい清浄な空気が外から一気に流れ込んできた。
レースのカーテンがたなびき、少女の長い髪も風に吹かれた。揺れた白いスカートの裾を、マリは見ることができなかった。
アリスは満足げに目を細め、風にその額を晒した。酷く無防備な表情だった。
「重いよ」
また嘘をついた。
「ああ、ごめんなさい」
本当に悪く思っているのか分からない様子で、アリスは謝りベッドから下りた。椅子に腰掛け、マリに笑みを向ける。
マリは、ため息をついた。
「これは、君にとって慈善活動か何かなのかい?」
アリスが首をかしげた。
「わたしは、友人とは立場の等しい者同士がなるものだと思っていたわ」
「君は、傲慢だね」
「ではあなたは、施しを求めているの?」
マリの頬がかっと紅潮した。
「そうだよ」苛立たしげに言葉を続ける。「だって僕は、人から与えられないと、生きていくこともできないんだ」
「私だってそうよ。自分一人では、生きていくことさえままならない」
「僕は! 誰からも必要とされていないんだ!」
「そうかしら? 少なくとも、私にとっては大切な友人だわ」
マリは歯を食いしばった。
「慰みの対象としての間違いだろ」
「あなたは、可哀想ではないわ」
心臓の辺りがむかむかした。頭皮が酷く痒い気がして掻き毟ると、灰のようにふけが舞った。
「この前は、可哀想だと言ったじゃないか!」
「自分の価値を、人に委ねてはいけないわ」
アリスは寂しげに目を閉じた。
「あなたが自分を認めないと、誰もあなたを認められないの」
「認めて欲しくなんかない!」
叫ぶと、彼女の赤い瞳がこちらを見つめていた。その視線には、温度がなかった。
「嘘つきね」
その声にも、感情がなかった。
ある朝、もう何年か振りに、マリは自分で窓を開けた。空は曇天。湿った大気と、緑の淡い香りが流れ込んだ。寂しくて、優しい気持ちになった。こんなことなら、もっと早く、自分の手で窓を開くべきだったのだろうなと、マリは思う。
ノックの音が聞こえた。
「いいよ」
静かに言う。
「久しぶりね」
アリスが言った。
「忙しかったのかい?」
「ええ、まあ、そうね」彼女は椅子に座り、数回瞬きをし、赤い睫毛を伏せた。「巫女として、神殿に入ることが決まったの」
カーテンは揺れない。羽虫の音が、小さく響いた。
「よかったね。名誉なことなんだろう?」
「ええ」少女ははにかむ。「ずっと、夢だったの」
「お別れだね」
僕は言った。そう遠くないうちに、こんな日が来るのではないかと思っていた。
アリスは無言で頷き、唇をそっと小さな舌で舐めた。
「わたしね、捨て子だったの。お前なんて要らないと、路地裏に捨てられた。そこを、修道院に拾われたの」
淡い視線に、眩暈がした。
「だからね、誰かの評価でわたしの価値が決まるなら、わたしはきっと要らない子。でもね、わたしは今、全ての人の幸福を願う立場にいる。そんなわたしが、自分の価値を信じられなくて、一体誰を救えると思う?」
「誰も救わなくていいよ」
「わたしが、救いたいの。かつてわたしが救われたように。どんな命にも平等に、祈りを捧げたい」
「君は、酷い人だね」
マリは、小さく笑った。
「僕の心をこじ開けて、踏み荒らしておいて、一人で僕の手の届かない場所に行くんだ」
神殿入りした巫女は、一生外界に出られない。この国の誰もが知っていることだった。
「さよなら、マリ。わたしの大切な友達」
アリスは手を差し出した。マリはそれを払い、彼女から目を逸らした。
「見たくないよ」
少女は何も言わなかった。静かに彼の言葉を待った。
「……最後に、復讐をさせて。誰もを思い、誰にも心を砕かない君に」
意地でも、少年は振り向かなかった。
「君が、好きだよ。君にとって僕は大勢の救うべき人の一人でも、僕にとって君は、誰にもかけがえのない、愛すべき人だ」
少年は声を上げずに涙を流した。そして、黙って閉じられるドアの音に、恋の終わりを知った。