ベラ(つるぎ)10
冷たく爽やかな、朝の香りがした。
「ベラ、アリス、大丈夫ですか」
穏やかな声が問うた。広がる白んだ空と、朝日を背負ったフェレが、優しく笑いかける。
「フェレ聖導師……?」
ベラは修道院の裏手で蹲っていた。煤けた石灰の壁を背にし、雑草の茂る大地に手をつきながら、師を見上げる。彼は白い手袋で包んだ手を、握り合わせた。
「魔法であなたたちが戻ってくる手助けをしたのです。危ないところでしたね。間に合ってよかった」
彼の言葉に、ベラは血相を変えた。負傷したアリスの姿を探す。
少し離れた所に、彼女はいた。力なく横臥し、赤く波打つ長髪が広がっている。全身に大小の擦り傷をいくつも作り、額の傷口からはまだ温かな血が流れ続けていた。ベラはアリスに駆け寄り、肩を揺する。
「アリス、アリス、ねえ返事をして」
「あまり動かさない方がいいです」
「どうしよう、目を覚まさない。血、血が……」
声を震わせ、息を荒げる。視界に広がる赤い色に、気が遠くなる。このままアリスが一生目覚めなかったら。想像に胸が締め付けられる。そんなベラの肩に手を置き、フェレが諌める。
「あなたが取り乱してどうするんです。ベラがアリスを救うのですよ」
「あたし?」
真剣な瞳で、フェレが射抜く。
「治癒の魔法を教えましょう。戦いの中で必要となるでしょうし、傷ついた者を癒すのは魔導師の本分です」
促されるまま、ベラは頷いた。
「……あたしは、どうすればいいんですか」
「まず、傷口に手をかざしてください」
わななく右手を伸ばす。止まらない震えを左手で押さえつける。触れそうな距離にある、赤い血液。少女の顔が、苦痛にゆがんでいる。
「内側から、手の平が温かくなるイメージをするのです。湧いてきた力が、アリスに伝わるように」
血の気の失せた手は、温度が下がるばかりだ。焦りと恐怖が心を満たす。
「そして、祈りを捧げてください。強く、強く。アリスの苦痛が失せるように。彼女の元に、再び平穏が訪れるように」
ベラは瞼を閉じた。必死で祈る。どうか、早く塞がって。痛みを早く取り去って。アリスを返して。アリスを救って。
強く願うにつれ、心拍が上がり、首や額に汗が浮かぶ。頬が火照り、食いしばった奥歯が軋む。すると、段々手の平が熱を帯びてきた。薄く瞼を開け、様子を見る。
右手が、淡い光を放っていた。清廉な白にも似た、金色の光。その光が霧雨のようにアリスの肌に染み入って、零れた血を消し去り、傷口を修復していく。まるで、時間を巻き戻したように、綺麗な褐色の肌が蘇る。
「ん……」
少女の唇から、声が漏れた。赤い睫が、小さく震える。ゆっくりと瞼が持ち上がり、真紅の瞳が姿を現す。ベラは表情を緩め、安堵の声を上げた。
「アリス! よかった、無事で。他に痛むところはない?」
目を覚ました少女は手をついて起き上がり、辺りを見渡す。乱れた髪が、顔を大きく隠した。アリスは静かに睫毛を伏せ、立ち上がる。
「ねえ、アリス。大丈夫なの……」
ベラの問い掛けには答えず、彼女は真っ直ぐにフェレと対峙する。腰を勢いよく直角に曲げ、頭を下げる。
「失敗しました。申し訳ありません」
フェレが困ったように眉を下げる。
「いいんですよ、アリス。元から難しいということは分かっていたのですから。粘り強くやっていきましょう。とにかく、今日はゆっくり休んでください」
「すみません、失礼します」
アリスは顔を上げ、片手で髪を額から掻き上げた。そのまま踵を返し、修道院に向かって歩き出す。ベラは地面に膝をついたまま、その後ろ姿に向かって声を張り上げた。
「アリス! さっきは、何もできなくてごめん! 次は頑張るから!」
何も聞こえなかったかのように、彼女は修道院の扉をくぐり、姿を消した。日が高くなり始め、世界が明るく照らされる。それにつれ、相対的に影もより濃くなる。修道院の影に呑まれたように、ベラは呆然と閉められた扉を見つめていた。
「ベラ」
優しい声に呼ばれ、顔を上げる。
「初めてだったのですから、上手くいかなくて当然です。緊張は恐怖は身体を縛ります。経験を積んで、慣れるしかないでしょう」
師は穏やかに微笑んだ。手袋をはめた手を、ベラの目前に差し出す。ベラがその手を取ると、力強く惹かれ、立ち上がる。数歩よろめきながらも、ベラはフェレと向かい合う。フェレはそっと手を離し、ベラを安心させるようにゆっくりと言葉を紡いだ。
「あなたに、魔法を使いこなすコツを伝授しましょう。それは、強く思い描くことです。あなたの心に宿った信念は、いつでも背中を押してくれるでしょう。先程アリスを助けたときのことを思い出してください。強く願えば、必ず魔法は応えてくれます」
ベラも今日は疲れたでしょう。しっかり休息をとってくださいね。
そう言い残し、フェレも修道院へと去って行った。一人残ったベラは、自分の手の平をじっと見つめた。
「強い思い……」
あの時、アリスに鼓舞され確かに自分は剣を取った。本当の事を知りたい、その思いはベラを突き動かしている。けれどそのために、自分は誰かを傷付けることができるのだろうか。
手に残る地の感触を思い出す。そして、倒れ込んだアリスから流れる、目の醒めるような赤い色。
そう言えば。はたとベラは顔を上げ、急いでフェレを追い掛けた。修道院の石の階段を駆け上がり、フェレに追いつく。
「フェレ聖導師」
ベラは彼に呼びかけた。どうしたんですか、と師はゆっくりと振り返る。
「あたし、剣を落としたまま戻ってきてしまったみたいで。取りに行かなきゃ」
「大丈夫ですよ」
フェレは笑みを深くした。高い位置から声が落ち、壁に反響し階下に抜ける。
「あの剣はベラの魔力を具現化したものです。ベラから離れては、剣も形を失います。心配することはありません。魔力はいつでもあなたの中にあるのですから、剣もいつでもベラと共にありますよ」
胸のあたりの服を掴み、ベラは唇を噛み締めた。
剣はいつでも己と共にあるというのに。ベラはちっともそれを扱える気がしなかった。




