ベラ(つるぎ)09
ベッドの中で、心臓が大きく脈打った。違和感に、目が覚める。ベラは薄暗い部屋で、窓に目をやった。白んだ青。まだ、明け方のようだった。
「なに?」
どくん。鼓動が跳ねる。全身の血管が叫んでいるようだった。
――奴が来た。
「なんなの、これ」
その時、ドアが勢い良く開いた。ただならぬ様子で飛び込んできたのは、白い寝間着に身を包んだアリスだった。
「ベラ! ヴィクイーンが暴れているわ。行きましょう」
「アリスも何が感じたの?」
「ええ、魔力を操れるようになると、強力な魔力を感じられるようになるのよ」
そんなことより、急いで支度をして。少女の声に促され、ベラはベッドから起き上がった。
着替えて飛び出すと、修道院の前にフェレが立っていた。灰色の装束に身を包み、神妙な面持ちでベラとアリスを交互に見る。血色の悪い唇がゆっくりと開かれる。
「アレイゼン共和国の南西部に、悪魔が出現したようです。ベラ、初陣は緊張するでしょうが、鍛錬の成果を見せてください。アリス、ベラをフォローし、リードしてください」
「わかりました」
「任せてください、師匠」
フェレがゆっくりと頷いた。
「では、二人向かい合ってください」
ベラが身体の向きをずらすと、アリスと目が合った。
「両手を繋いで。ヴィクイーンの魔力の根源に、意識を集中させてください」
アリスの小さな手の平と指を絡ませる。どちらともなく寄り添い、額を合わせる。温かな熱が流れ込んだ。
心臓が脈打つ。閉じた瞼の裏、銀髪の男の姿が見えた。
「武運を!」
フェレの激励を最後に、感覚がふわりと浮いた。
重力を取り戻すと、二人は瓦礫の中にいた。元は市街地だったであろうそこは煙に包まれ、悲鳴や絶叫が響いていた。ベラは息を呑み、絡めた指に力を込める。ふと、アリスの表情が強ばった。
「ヴィクイーン……」
視線の先を追うと、瓦礫に背を預け、腰を抜かした一人の少年がいた。紺にも似た濃い色の髪を持ち、はしばみ色の瞳を恐怖に見開いている。彼に語りかけるのは、銀の長髪を垂らし、黒のローブに身を包んだ男。
「ねえ、全部壊したよ。言ったでしょう、何もかもばらばらにしたいって」
紫と緑が混じったような奇妙な瞳を細め、男は妖艶な笑みを作る。アリスが叫んだ。
「ヴィクイーン……‼」
赤髪が舞った。少女が駆け出す。ヴィクイーンに向かって走り抜けながら、アリスが胸の中に右手を突っ込んだ。白刃と緑に輝く柄を施された剣が天高く掲げられる。ヴィクイーンが唇を歪め、笑った。アリスが飛び掛る。
瞬間、強風が舞う。アリスが少年を庇うよう、身を翻した。上体を低くかがめ、剣をしています地面に突き立て、盾となる。
ベラは叩き付ける暴風に膝を折った。なおも風に身体を捲られそうになり、四つん這いになる。息ができない。喉が血の味がする。強く目を閉じていないと、瞼さえも破られてしまいそうだった。
腕が挫けそうになり、半身を横たえる。胎児のように身体を丸め、己を抱く。ばらばらに千切れた自分をかき集めるような、痛切な抱擁だった。
風圧の中に、激しい剣戟が聞える。アリスが叫んだ。
「ベラ! 何をしている! 立て!」
涙が滲んだ。身体の芯が冷える。死の恐怖が震えを引き起こす。
「何のためにここに来たんだ! 思い出せ!」
少女の凛とした声が、ベラの頬を張った。
脳裏を駆け巡るのは、霜の落ちた、寒い朝。凍った吐息、わななく青い唇。冷えたナイフを痛いほどに握り締めた、血の気のない手。それを包み込んだ、温かい両手。
――ベラ。
甘く優しい声が、蘇る。
――あなたは何も、知らなくていいの。
温かな腕が背中に回る。柔らかな胸に抱き寄せられる。
風の中、ベラが目を開けた。眼球が乾く。傷ついたって、構わなかった。
地に手をつき、腕に力を込める。滞っていた血が通い始める。膝を踏ん張り、上体を浮かせる。膝を伸ばす。風に押され、たたらを踏んだ。靴の中、足指で大地を噛み締める。
ベラは背筋を伸ばし、天を仰いだ。指先まで神経を巡らせ、両腕で弧を描き、そのまま胸に浸す。温かい温度が、ベラを導く。指の腹に脈打つものが当たった。熱く、湿って、力強い。生き物のようにうねるそれを、ベラは両手で握り締めた。押さえ込んだそれを、一気に引き抜く。
必死に掴んでいたものは、外界に触れた瞬間、強く固い形を持つ。頑丈な柄。埋め込まれた、目が眩むほどに蒼い石。淡い陽光を集め、白銀に輝く真っ直ぐの刃。
ベラは荒れ狂う風の中、正面に剣を構えた。疾風を切り裂き、道を作る。力んだ足を、一歩踏み出す。そのまま勢いをつけ、駆け出した。
風の中心から聞える、アリスの息遣い、剣を振る音、ヴィクイーンの甲高い笑い声。歯を食いしばり、押し寄せる抵抗の中、足を速める。
「ああっ」
突如、悲痛な声が響いた。
ベラの真横に、少女の華奢な体躯が投げ出される。肉が地面を擦る音。赤髪が乱れる。蹲ったその褐色の額からは、紅い血が零れていた。
その光景に、ベラは息を止めた。あれほど吹き荒れていた風が、嘘のように収まる。
血が滴り、大地に染み込む。柄を握る手が震えた。
刃先が肉を切り裂く感触。指先を伝う、生ぬるい液体。鼻腔を抜けた、鉄の匂い。こびりついた感覚が蘇る。
喉を鳴らして、空気を吸う。けれど、いくら吸っても肺は酸素を取り込まない。胸が、肩が、激しく喘ぐ。
ベラは剣を取り落とした。乾いた音が響く。喉を抑え、膝をつく。遠くなる意識の中、足音が聞こえた。
巻き上がる塵煙を掻き分け、ローブを揺らしながら男が近付いてくる。昇りかけた日に照らされ、銀髪が煌めく。その表情は、霞んで見えない。
「ヴィクイーン……」
アリスが苦しげに呻いた。か細くわななく手が、伸ばされる。
その時、世界が歪んだ。景色が引き伸ばされ、切り裂かれる。聞き慣れた、穏やかな声がした。視界が黒く沈んでいく。




