ベラ(つるぎ)06
修道院の裏は、草原になっている。かつてはここに、エグタニカ公国の宮があった、とアリスは語っていた。けれど、今やその名残を残すのは、時折り落ちているやや大きい瓦礫や、おそらく以前は手入れされていたのであろう庭樹だけだった。
穏やかな陽光の中、風が流れる。向こう脛ほどの丈のある草が、さあっと揺れ、大海のように波打つ。ベラは深く息を吸い込んだ。青い香りが胸を満たす。
「ベラ、聖文は覚えましたか?」
少し離れて立つフェレが問うた。ベラは恭しく頷く。
「おそらく」そして眉を下げて笑った。「ええ、きっと大丈夫です」
二人の間に立つアリスが、片膝をついた。
「では、始めましょう」
彼女のスカートが、草とともに風を食んで膨らんだ。フェレが顎を引く。そして、落ち着いた声で詠唱を始めた。
昨晩フェレに受けた説明が、ベラの脳裏に蘇る。
――魔導師には、守らなければならない誓約が三つあるのです。一つ目。
「汝、その力の及ぶ限り、魔法の加護を受けぬ者を、守り抜くと誓うか」
――私達、魔法を得た者は、それを得なかった者を苦しみから救わなければなりません。魔法は、強力な力です。容易く人を傷つけることができます。だからこそ、私達はそれを、人のために使うのです。
ベラは臍の上あたりに力を込め、心持ち強い声で応えた。
「是」
――二つ目。
風がうなる。アリスの長い赤毛がなびく。
「汝、その心の生きる限り、理から外れし者に、救いの手を差し伸べると誓うか」
――私達は、魔法が発現したばかりの者、復讐に手を染めそうになってしまった者を導きます。師として前を征き、同胞として共に立ち、魔導師として善くあらんとします。魔法を得た者は等しく、神からの祝福を受けているのです。
「是」
――最後。
「汝、その身体の続く限り、孤独を貫き、己の脆弱さに克ち続けると誓うか」
――魔導師であり続けるためには、孤独であらねばなりません。師弟契約以外の、人との絆を結ぶことは禁止されています。己の力で立ち、己の意思で生き、己を信じて歩き続けなければならないのです。
フェレのローブが重たげに揺れた。
「是」
聖導師は真っすぐに腕を伸ばした。白い手の平が大地を見つめる。ベラはその光景を強く目に焼きながら、高らかに宣言する。
「我、険しき道を行き、至上の教えを深く刻み、おのが使命を果たさんことを、ここに誓う」
そう言い切ると、ベラは手の平で天を仰ぐように前に腕を差し出した。二人の手が、向き合う。空気が熱を帯びる。風が吹き荒れる。アリスが叫んだ。
「我、師弟の契を見届けたこと、ここに宣言す!」
ぱっと、風が止んだ。ベラは深く息を吐いた。安堵が胸を満たす。フェレが微笑んだ。
「お疲れ様です、ベラ」
乱れた髪を整えながら、ベラも頬を緩める。
「これからよろしくお願いします、師匠」
「早速ですが、魔法の訓練を始めましょうか。まず、魔法とは何ぞやを簡単に説明しますね。
魔法を燃え盛る焚き木に例えましょう。私達の身体の中にある魔力。これは薪です。多ければ多いほど、炎を大きくできます。
そして、火種は孤独です。その者の孤独が深いほど、勢いよく燃え上がります。魔導師はその火を絶やさないために、孤独であり続けなければなりません」
フェレの穏やかな瞳が、ベラを見据える。
「魔法を自在に扱うためには、自分の中の魔力を御さなければなりません。アリスとベラの魔力の量は、破格です。単なるイメージとしてのそれを操るには限界がありますし、非効率です。そこで、今からベラの魔力を実体化させます」
「魔力を、実体化……」
「あなたも見たはずよ。剣よ」
鋭く、アリスが言った。思わず、ベラは息を止めた。
「剣……」
囁く声が震えた。ベラは胸元の衣服を強く握りしめた。訝しげにアリスが眉根を寄せる。そんなベラに気付く様子もなく、フェレは明るく手を叩く。
「では、アリスにお手本を見せてもらいましょう。ベラ、次に自分が同じことをするのだという自覚をもって、しっかり観察するのですよ」
アリスが一歩前に出た。ベラはわななく唇を引き結び、小さく頷く。
赤髪の少女はゆったりと深呼吸をし、流れるように両の瞼を下ろす。静かな息遣いのもとに、森閑とした時が過ぎ、ややあって光をたたえた双眸が姿を現した。
息を呑んで見つめるベラの前、アリスはおもむろに半円を描くように片腕を伸ばし、肘を高く曲げて前腕を回し、そのまま滑らかな指先を胸元へと突き立てた。
「っ!」
ベラの喉が乾いた音を立てた。アリスの手は、水面に潜るようにじわじわと胸の奥に沈んでゆき、ついに手首の辺りまで体の中に埋まってしまった。そして、涼しい表情のまま一瞬腕を強張らせると、泉から湧き出る噴水のごとく腕を引き抜いた。
開花を思わせる優雅な動作の後、右腕は威風堂々と天へと伸ばされた。
白日を反射させ輝くのは、鋭利な切先。少女の細指は、見事な長剣を握り締めていた。鮮やかな翡翠色の柄は、厳然たる存在感を放つ。歪みない刃で空を裂きながら、アリスは真っすぐに腕を下した。
「体の中から……剣を出したの……」
震えを押さえながら、呟く。ベラはアリスと初めて会った時のことを思い出した。あの時、戦いに用いていた剣を、帰りには彼女は手にしていなかった。あれは、体内に戻していたのか。
「ベラ、できそうですか?」
フェレが優しく問い掛ける。アリスが真っすぐにベラを見た。切先で、宙を裂く。ベラの身体がびくりと跳ねた。フェレの表情が曇る。アリスが低く問うた。
「……ベラ。あなた、剣が怖いのね」
力なく、ベラはその場にしゃがみこんだ。俯いた頭が、左右に振られる。
「いいえ、大丈夫。やる」
しばらくうずくまったまま、じっとしていたベラは、ついにゆっくりと顔を上げた。
「教えてください」ふらつきながらも、立ち上がる。「あたしは、どうしたらよいのですか?」
「難しいことではありませんよ。まず、全身から力を抜いてください」
優しい師の声が誘導する。ベラは両腕を解き、肩から力なく吊り下げた。
「邪念を払ってください。精神を統一して。そうですね、湖を想像してみてください」
ベラは瞼を閉じ、睫毛を震わせた。低い声はなおも促す。
「鏡のように、一糸の乱れもない、静かな湖面です。底は深く、青い。それでいて、冷たく澄んでいます」
彼女の心は、森の深部へと潜っていた。日光を吸った木々は大地に影を落とし、湿った土をベラは踏み締める。幾重にも茂る濃緑の枝葉を掻き分け、ようやく立ち入った開けた場所は、幽寂と霧に覆われている。
煙る下方に目を落とせば、揺らめく月が目に入った。左肩を齧られた満月は、頼りなく湖に浮かぶ。不意に、暗雲がその輝きを覆い隠したとき、糸を張ったように空気の振動が止まった。凍り付いた時の中、その水面は仄かな妖しい光を放ち、鏡面のごとくに静止した。
「そうです」フェレが言った。「そのまま、胸の奥に手を入れてください。初めのうちは、両手の方がよいでしょう」
ベラは両肘を高く掲げ、指先を胸元に触れさせた。確かな肉体が、指を押し返す。
生唾を飲み込んだ彼女に、アリスが強く声を掛けた。
「もっと想像して、ベラ。水に飛び込んだ時のように。隅々まで、透明になりきるの」
深く息を吸い、全身を新鮮な空気で満たすと、ベラは指先を宙に浮かせた。ゆっくりと熱のこもった吐息を逃し、空想の海に沈む。
ぴんと張り詰めた湖は、深い深い青をたたえていた。覗き込むと水は澄み、底に堆積した白砂の一粒まで視認できる気さえした。湖面に移った自分に、そして不思議な青に誘われるように、ベラは思わず手を伸ばす。
指先が、境界を越えて沈んだ。凍るように冷たい湖水を予期していた皮膚には、しかしじんわりと温かくほどけるような、心安らぐ感覚が広がった。まるで、柔らかな光に包まれているようだった。その温度に誘われ、ベラは更に奥へと手をくぐらせる。
「ベラ、心臓を掴むのです」
フェレの声が遠くに聞こえた。膜を通して、反響しているようだった。
心臓は、分かりやすかった。いちばん熱く、一際力強く鼓動していた。意を決してそれを掴むと、生々しい感触が弾け、固く冷たい柄となった。重厚なそれを両手で握り締め、ベラはゆっくりと身の内から引き抜いた。
ほとばしる光の粒を掻き分けて、外界へと現れたその柄は、痺れるように深い紺碧の色をしていた。そして、体内を這いずり回る感覚と共に、白銀の刃が姿を現す。左手をそっと離し、残った右手で剣身を一気に抜き取り、そのまま高く日にかざした。
鋭利に研がれた諸刃の剣。精緻で荘厳な彫刻を施された柄。その全てが調和し、痛々しいほどの凶暴な美しさを放っていた。
輝く切先を見据えた途端、眩暈がしてベラは長剣を取り落とした。
「ベラ!」
アリスの硬い声が飛ぶ。
二、三歩とよろめきつつも、ベラはその場に踏みとどまった。両手を伸ばし、草原に抱かれた剣を手に取る。柄を握り締めるその手は、少し震えているものの、しっかりとしていた。
「やりましたね、ベラ」
フェレがベラに歩み寄った。
「それが、あなたの魔力の塊です。目が眩むほどに美しいですが、羽化したての蝶のようにまだ儚く脆い。これから鍛えねばなりません」
そう言うと、彼はすっとしゃがみ込み、草を掻き分け手の平を地面に添えた。そのまま静かに膝を伸ばすと、手の平に吸いつくように、大地から巨大な岩が現れた。フェレは肩口の高さで手を止めると、地響きと共に岩の成長が止まった。ベラが両腕を伸ばした長さをゆうに超えそうなその岩は、ごつごつとした岩肌に陽光を浴び、泰然とそこに鎮座している。
フェレが口を開く。
「この岩を使って、鍛錬をしてもらいます。打ち付けることで、刃の強度を上げ、剣の使い方を体で覚えられるでしょう。そのうち恐怖心も、和らぐはずです。
この長剣は、ベラ、あなたの魔力そのものです。あなたの心の持ちようで、強くも弱くもなるでしょう。全身全霊で鍛えてください」
 




