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マリ(あわい)01

それは、光る雪だった。

金色に輝く光の粒が、暗雲を溶かすように、幾千も降り注いだ。

温かな光はゆっくりと舞い降り、瓦礫の海に触れる前に、そっと消える。

血の臭いと呻き声に溢れた地獄において、あまりに場違いで、嘘のように美しい光景だった。


 家庭教師には、もう誰にも会いたくないと伝えてあった。彼女はお節介なのだ。優秀な跡継ぎにしか興味のない父も、父の寵愛を受けることに必死になっている母も、息子のことなどもうとっくの昔に見限っているというのに。


 心配されているというのは、マリにも分かっていた。常に病床に臥せっており、見繕いもろくにされていない第五王子の心が荒んでいくのを、心優しい彼女は黙って見ていることなどできなかったのだ。

 でももう、どこかの学術博士や神官に、説教や同情をされるのにはうんざりだった。世界に失望したマリは、ただ静かに己の命が朽ちていくのを待っているだけで良かったのだ。理解し合えない他者と心を通わせようと足掻くことは、彼には徒労にしか思えなかった。


 だから、ノックの音が聞こえても、無視をした。

 白い昼だった。窓の外では芝生が陽光を透かして輝いている。レースのカーテンは揺れず、柔らかな光だけを抱いて、閑散とした部屋の中を照らしていた。

 柔らかな布団は背中に痛く、動かない足を引き摺って寝返りを打つ。粘り気を持った長い髪が、頬に張り付いた。臭い。汗を最後に拭ってもらったのは、いつだっただろう。


 もう一度、控えめな音が扉越しに響いた。

 首元の毛布を引き寄せ、マリは瞼を下した。血管の色が見える。眩しい。眠れない。どうでも良かった。ここではない、どこかに逃げ出したかった。


 誰かの特別になりたいと、いつでも願っていた。

 足が日に日に固まっても、垢の浮いた汚い身体でも、誰よりも、世界一愛していると言われてみたかった。けれど、マリ自身が最も、そんなことが起こるはずがないと知っていた。誰よりも自分が、自分にそんな価値がないと知っていたから。


 今日も、ノックの音が聞こえた。

 期待するのには疲れた。布団から、湿った匂いがする。尿意に促され、ベッド脇の容器に手を伸ばした。酸っぱい匂いと、不快な温かさが部屋に蔓延する。放尿の音が聞こえたのか、二度目のノックはなかった。


 一か月ぶりに、世話係が部屋を訪れた。ぬるま湯を絞った布で、全身を拭われる。肩から始まり、腕、背中、腹と進むごとに、真っ白だった布が黒ずんでいく。桶に汲まれた水も、冷たく濁っていった。

 最後は顔だった。布はかび臭く、ごわごわとしていて、頬を強くこすっていく。綺麗になった気がしなかった。新しい寝巻を羽織ると、繊維が水分を吸い取っていくのを感じる。

 挨拶もなく、侍女は出て行った。悲しみはない。ただただ、惨めだった。


 ノックの音がした。

「入れ」

 枕に頬をうずめながら、呟くように言った。扉には背を向けていたので、届かないかと思ったが、金具が軋む音がしてドアが開いた。


 足音は軽い。マリと同じで、まだ年端もいなかい子どもなのかもしれない。机の下にしまわれている木椅子を引き摺って、ベッド脇に腰掛ける気配がした。

 マリは振り返るつもりはなかった。毛布を口元に引き寄せながら相手の出方を伺っていると、羽のように軽い声が響いた。


「王子様って案外、礼儀がなってないのね」


 からかうように、笑いを含んだ言葉だった。投げやりに、マリも返す。


「無礼者。礼儀を弁えていないのは、そちらだろう」


 少女は、くすくすと喉を震わせた。


「わたしはあなたの家臣になりにきたのではなくて、あなたの友達になりにきたのよ」


 マリは眉根を寄せ、足を引き摺って寝返りを打った。来客に視線を向けると、そこに座っていたのはマリよりも少し高い背丈の少女だった。

 波打つ赤毛は長く、瞳も揃いの紅。褐色がかった肌に、白い修道服が映えている。

 目が合うと、彼女はにこりと笑った。純度の高い笑みだった。マリは息継ぎをする魚のように、何度か口の開閉を繰り返し、諦めたように囁いた。


「友達って、何をするんだよ」


 少年は、瞼を閉じる。


「一体、何をしてくれるんだよ」


 返答は、明快だった。


「幸せを、願ってあげる。それだけよ」


 カーテンからの透けた陽光に、空気の塵が反射して、硝子の破片のように眩く光る。息を吸い込むと、肺に刺さったような痛みが走った。

 少女が目を細める。


「わたしは全ての人の幸福を願っているわ。だから、あなたにも幸せになってほしい」


 どす黒い感情が胸を満たした。怒りと悲しみが混ざりあって、判別がつかなかった。マリは歯を食いしばり、その隙間から声を漏らした。


「君は何を以て、僕の幸福だと言うんだ。幸せになんて、どうすればなれるんだ」

「それは、あなたの心が決めるのよ」


 泣きたくて、たまらなかった。


「君が決めてよ。君が僕を、幸せにしてよ」

「孤独なのね」


 優しい響きだった。


「わたしはあなたを幸せにできない。わたしの心と体は神のもの。そして、全ての民のもの。あなただけに捧げることはできないわ」


 少女の薄い唇が弧を描いた。無数の小さな煌めきが、彼女をこの世から連れ去ってしまうようだった。


「わたしの名前はアリス。この国の平和の巫女よ」


 静かな昼下がり。少年の手に届かないものが、また一つ増えた。


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