3_異変_Wrongness
本来、泡を観測する者は、泡の中に居るのが常だ。
泡が限界を迎えるまで共にいるのである。
泡が崩壊するということは、観測者は死を迎えるのだ。
泡と観測者の終わりは、表裏一体の関係である。しかし、例外は存在する。
もしも、観測者自ら泡を割ったなら。それは、観測者の死は訪れていないが、泡という周囲の情報が再編されることを意味する。
条件は満たされた。彼は自覚し、自らの泡を割った。本来あり得ることのない、彼の思念が混ざった泡が構築されるのだ。
世界は再編する―――――
―明るい。思考は定まらない。
重い目蓋を精一杯こじ開けた。
塩の匂いが鼻を衝いた。正確に言えば、脳がようやくそれを知覚したのだ。
その匂いは、強烈に僕の思考を叩き起こした。同時に、何が起こったのかも思い出させた。
どうやら、ここは病院のようだ。体は思ったよりずっと自由に動いてくれたから、誰かに会おうとドアに手をかける。瞬間、ドアは開いた。
「おう、やっと起きたか寝坊助。そろそろ出発の時間になるぞ。」
「冷たいことを言ってくれるじゃないか。」
正直、死にかけていた人間にかける言葉にしては冷たいような気がした。それも、あの岡田から発せられたことが僕に違和感を与えた。
だから、違和感を取り除こうと、
「僕は死にかけたんだろ。だったら、もう少し安静にしていた方がいいんじゃないか?」
「そんな大袈裟だぞ。リアクトで一発のレベルだったんだからな。お前帰りたいのか?いくら早く帰りたいからってそれはないぜ。」
取り除くはずだった違和感は、あろうことか増幅した。
「おい、リアクトってなんだよ。からかうのはよくないぞ。」
すると驚いた顔で、でも本心から心配している素振りは無く、
「お前、頭やられちゃったのか。リアクトなんて初歩中の初歩だろ。記憶が混乱しているだけだ。しばらくすれば思い出すさ。」
なんてことを言いながら歩き始めた。さてはからかい続ける魂胆だな。乗ってやろう。
――その呪文は基礎中の基礎である。
多少の違和感はあるが、僕はどうやら記憶が混乱しているのかもしれない。
そういうことにして、この問題を無意識のうちに後回しにしていた。
外へ出ると、海はてらてらと橙色に染まっていた。
僕は、本来の目的であった部活動を僅かであるが実施した。
みんな疲れ果てており、中には砂浜で大の字で寝ている奴もいた。
手にしたカメラで一瞬を収める。数にして5枚程度だが、収穫であった。
そろそろ移動の時間だ。
僕はとっくに着替え終わっていたので、名残惜しく浜辺で時間をつぶしていた。ふと、部員の中に見知らぬ顔が一人。
あの黒髪の乙女は誰だろうと考えたが、思い当たらない。ただ、綺麗だった。僕はいつの間にか6枚目を収めていた。
この時間、浜辺にいるのは僕たちだけではない。だから他人である筈なのだ。なのに、他人だと自然に思わなかった。
――そうだ、僕は彼女を知っている。知らないが知っている。
増幅する違和感は許容量を超え、既に僕の正常な思考を妨げていた。
漠然と気になったので、パラソルを片付けていた田中に聞くと、
「えぇ。大丈夫かい君。九条さんでしょう。君にリアクトを掛けてくれたんだよ。君は、感謝はすれども、その反応はいただけないぞ。」
と、ちょっと叱られてしまった。しかし、部員は二十名だった筈だ。辻褄が合わない。
――だがそれは正常だ。
そんなことをじっくり考える暇は無く、
「皆さん、次の目的地にいきますよー。」
という花松先生の掛け声と合図に、部員は集合した。
皆、呟く。
「---ð̚ ʃkɑɪ͜θ g̥ɑɪ」
言霊の主の足元には小さな風の渦が起き、体を上へと突き抜けた。
――そうだ。それは、大地との別れを意味する呪文である。
肥大化した違和感は、既に誤魔化せなくなっていた。
――それは違和感ではない。セいジょウだ。オマエノモツセイジョウコソガイジョウダ。
「あら、早くしないと置いて行かれるわよ。はやくなさい。」
しかし、耳はもはや飾りと化していた。
眼球は上から糸で吊るされているようにして、空から離れなかった。
自分の中に狂いが生じているのを感じながら。
「ð̚ ʃkɑɪ͜θ g̥ɑɪ」については、後の話で意味が分かるようにします。
出来なかったら補足話として、どこかのタイミングで必ず解説を入れます。
次回『Bubble_Magic_4』
乞うご期待。
感想等ご自由にどうぞ。お待ちしております。