鴉
世界はとても美しかった。
空を仰げば突き抜けるような無限の蒼が見える。
何処までも続く蒼から暖かい陽が地上の全てを照らし、時にはその恵みを雨として地に降らせる。
その恵みを取りこぼすことなく受けた地は碧を瑞々しく芽吹かせ、やがてその碧は樹となり花となり、堅い地に深く根を下ろして土に磨かれた美しい水を吸い上げる。すると花は瑞々しく花開き、葉は一枚一枚が生気に満ちあふれ、朝露を弾く。やがて木々の枝には実が実り、生物が樹の基に集まる。
虫や鹿がその草を食み、鹿は狼や熊に食われ、虫や実は鳥に食われる。
鳥は啄んだ実の種を大地のあちこちへと飛び交い運び、碧を培う。
そして新たな大地に芽吹いた碧は土に根を張り、芽吹いて花を咲かせ、実を実らせ水を磨き土を肥やす。
そこに生命は集まり、虫が歯を食い、鳥が実を食い、循環して生まれては朽ち、そしてまた生まれていく。
その骨肉が土に還れば、そこに虫が沸き、土は肥える。そして水を磨く。
全ての生命が余りに美しく、尊い。そして正しく輪廻っていた。
折り重なる木々はやがて森となり、森となった無数の木々が、朝露を吸い、一斉に雲を吐き、山霧として空から受けた恵みをまた空へと返す。
ゆっくりと時間を掛けてうごめきながら、たゆたいながら、昇っていくそれはまるで生命の生まれる瞬間とも思われた。
冷気の様に冷ややかであり、湯気のような暖かさも持ち合わせた、輪のはじまりである霧であった。
その霧が山の葉を撫で朝露を含ませ、やがて空へと昇っていけば雲となり、雨となる。
雨は地に深く染み込み草木を潤し、そして草木は生命を潤す。
私というものは、そのはじまりの山霧によって生まれ落ちた。
大地の持つ熱に長い年月を掛け溶けだした何かが土に磨かれ、染み出した水へと混ざり込んだものを、樹が根から吸い上げ、山霧と言う姿を私に与えた。私は延々と繰り返される生命の循環の中に、私と呼ぶべき形を得た。
何に望まれたかも分からない。必ずしも望まれた誕生では無かったのかもしれない。
何に祝われることもなく、だが何に呪われることもなく、命と生命とを培うはじまりとして生まれた私は、刻々と天へと昇りながらこの世界を空から見た。
そして見た。この世界の美しい循環を。
水が生まれる瞬間を。
樹が生まれる瞬間を。
生き物が死に、新たな生き物が芽吹く瞬間を。
全てが完璧な世界だった。
見えるもの全てが美しい世界だった。
世界に存在する全てのものが、全てのもののために存在している。
世界に生きる全ての者が、他の全てを生かすために存在している。
何一つ欠けたところでこの美しさは完成しないだろう。
儚く、そして強く逞しい、美しい輪だ。この輪は生きている。
まるで全てで一つの生命体のように。
その輪こそが、美しさだと私は知った。
命は他者のために存在しているからこそ、このように儚く美しい光に満ちている。
長い間私はそれを見ていた。世界の輪に乱れの無いよう、監視の役目も担っていたが、このように美しい形を、私は他に見なかった。
私はその美しさを形成する一つ一つ全てを愛した。
生物、生命、水を作るもの、芽吹くもの、食うもの、食われるもの、その全てを例外なく、私は愛した。
その全ての何一つ欠けてしまってはいけない。
だというのに、全ての生命が正しく廻り、循環していた完璧で美しい輪から、抜け出る者が現れた。
人間。
人間は、途方もない時間を刻み続けているこの世界で、他の生命に比べれば未だ未熟で、この大地を踏みしめ歩き始めたばかりの、これもまた美しい生物だった。
私は人の生まれる瞬間も見た。それを私は私の子であるかのように愛した。
生まれて間もなくまだ種のような存在だった人間は長い時間を掛けて輪を学び、生命を学び、そして自分たちを学んだ。そしてよりよく潤滑に世界を廻していく方法を考える。人間とはとても賢く、慈愛に満ちた生き物であった。
今でこそ小さな種でしかない人間は、いずれこの美しい輪に太くたくましい根を下ろし、より一層強固な輪として支えるに足る大樹となる可能性を秘めた生命だと私は信じた。
故に私は人間を愛した。深く、何よりも深く愛して、慈しみ、輪に生きる生命全てで祝福した。
だが、その成長過程で、人間等は道を違えてしまう。
誰かが声を上げた。「この輪から出よう。」と。
人間はその声の主に従い、簡単にその輪を捨て、他者ではなく自分の為に命を使う道を選んだ。
人間だけで営み、生み、育んだ。
人間だけの輪が、出来上がった。
その人間だけの輪が膨らむに連れて、人間は、かつて自分たちが生きていた輪のことを考えることすら忘れてしまっていた。
何かの悲鳴を、私は聞いた。
「輪が乱れた。ひとつ欠けてもいけない。」
「輪が輪ではなくなった。」
輪は叫び続けた。声を枯らし愛しい人間を呼び続けた。
輪に戻れ。我々を忘れるな。と。
だが、声を上げたときにはもう遅かった。
人間たちは戻ることを拒み、繁栄を望んだ。自分たちだけの繁栄を。
人間は、自分たちが何から生まれたかなど忘れてしまっていた。
誰も輪の叫びに耳を傾けることはなく、人間たちは自らが自らのために作り上げた輪を幸せと呼んだ。
そしてそれを高々と歌い、美しいと謳歌した。
その歌声が、この世界の必死の叫びを無慈悲にかき消す。
我々の輪は乱れ、人間のみの輪は際限なく膨張し続けた。
互いの輪が、互いを圧迫しあい、特に人間達の造り上げた鋭利な輪は世界を徐々に進行する癌のようにむしばんだ。
人間を失った輪は歪み、人間の造り上げる文明によって圧迫され、ひしゃげ、もはや輪ですらなくなるのも時間の問題と思われた。
私の愛した美しさが、私の最も愛したものによって破滅への一途を辿ろうとしている。
森に居た虫は逃げだし、餌を求め獣は森を去る。
獣の去った森は徐々に腐っていく。
私は見た。まざまざと見た。輪の崩落による崩壊を。
私は聞いた。いきものの死に絶えていく声を。森の悲鳴を。
このままでは駄目になる。輪に戻れ。
声を上げた。私は愛しい人間に、戻ってくれと叫び続けた。
だが人間達は耳を貸さない。彼らは輪に居ずとも生きていけることを知ったのだ。
自分たちだけで栄えられる能力の持ち主だと過信したのだ。
その慢心に人間は溺れ、過信した能力の発展に取り付かれた。
そして次第に、人間達は自分たちしか信じなくなった。
輪の悲鳴も、他の生命の絶える声も、私の叫びも届かない。
愚かで、未熟で、愛しい人間。私は、それでも人間達を愛した。
美しい輪に生きた生命達。どうして手放すことなどできようか。
どうして、突き放すことなど出来ようか。
我々は何一つとして欠けてはならないのだ。
全てで一つ。そのように生まれ、そしてそのように美しい輪を造り上げたではないか。
伝えなければならない。人間達に、この美しさを、今まさに崩れ去ろうとしている儚く尊い美しさを、私は人間達に伝えなければならない。
叫びは警告へ。
警告は、やがて警鐘へと変わる。
警鐘を鳴らそう。彼らのために。
未だ未熟な歴史しか持たぬ彼らの為に、私達が導かなくてはならない。
輪の乱れは、生きるもの全てに破滅をもたらすのだと。
私達は声を上げる。
警鐘を。
警鐘を。
人類へ対する警鐘を。
森と海から産まれし子供達よ、輪に戻ろう。
愛しい愛しい人類よ、共に歩もう。
私達はお前達が居なくては生きてゆかれない。
輪を育もう。
共に。
共に。
私達の声はきっと聞こえるだろう。
そして気付くはずだ。
私達が人類をどれほど深く愛し、必要としているかを。
今はまだ小さな声だとしても、やがてその声は反響し大きな声となり、人間達に届くはずだ。
警鐘を鳴らせ。
警告を聞け。
我々はお前達と共に歩むもの。
かつて共に歩んだ美しいもの。
我々は崩壊の危機に瀕している。
我々は死の危機に瀕している。
きけ、お前達。
私達の悲鳴と、泣き暮れる声を。
きけ、お前達。
私達の死に絶える音を。
そして、戻れ。
愛しい、人間達よ。
警鐘を。警鐘を。
人間達に我々の警告を。
今はまだ微弱な声だが、山の峰峰に反響、屈折を繰り返し、膨張し、膨張し、重なり、
いずれ、いずれ我々の想いが愛するお前達に届くことを願っている。
そしたらまた私の名を呼んでほしい。
私はお前達の名を呼び続けるから。
愛しい、美しい人間たち。私のかわいい子供達。
忘れないで。私を。
この歪な輪に私を取り残さないでくれ。
あんなに美しい恵みに満ちていた輪は、今こんなに淋しく、死にかけている。
私の名を、呼んでくれ。
いとしい、にんげん。
某所
某日
某企業ビル内オフィス
時刻は早朝。
外は十分晴れ渡り朝日がビルの大きなガラス窓から十分差し込んでいるというのにビル内の照明は煌々と点っているのに苛立たしげな一瞥を送る福沢は、次に社内の至る所に貼られた「弊社は省エネを実施しています。」のPRポスターに視線を移し、「口ばかりだな」と心の中で悪態吐いた。
福沢は苛ついていた。
それは別に今朝福沢が家を出る際に、かねてから海外旅行に行きたいとねだる妻が中々纏まった休みを取らない福沢に対して発したチクリとした嫌味が引き金となり朝から口論になり普段出勤ラッシュを避けるために乗っていた一本早い電車に乗り損ね、ラッシュ直撃の電車で出勤する羽目になったから、と言うわけではない。
福沢は勤続20年でやっと部長への人事を果たしたばかりで、もっと上への出世の野心も十分残していた福沢は、本日無断欠勤をしている勤続三年目の社員に対して、苛ついていた。
何度電話を掛けても出ない。それどころか連絡すら寄越さずに出勤時間を超過した十時を過ぎても、一向に何の音沙汰もない。
だが、福沢には一つ心当たりがないでもなかった。
この現在でも無断に遅刻し一向に出勤の兆しのない三年目の社員は名を佐田と言うのだが、勤務態度は別段問題もなく真面目な社員なのだが、福沢が問題視したのは佐田の同期である山崎という男だった。
佐田とは対照的に勤務態度にやや難のあるのを福沢は他の社員からちょこちょこ聞き及んでいたし、勤務歴は佐田と同等であるのに仕事スピードも佐田には遠く及ばず、常に佐田と比較されるのは確かに福沢も少し不憫に思うところもないではなかったが、それを抜きにしても山崎という男はちょこちょこ遅刻、欠勤も多く、トイレと証して喫煙に赴くなど、佐田との比較を憐れんでばかりも居られない所謂問題のある部下であるこの山崎と、佐田はなぜだか仲が良かった。
昨日も退勤の折、馴れ馴れしく佐田の肩に絡みつく山崎がへらへらとした笑みを浮かべながら佐田を飲みに誘うのを目撃していた福沢は、山崎の奴が何かしらの原因であると半ば決めつけて、山崎のデスクへと赴いていた。
「おい、山崎。あいつ何で来ないんだよ。」
少し棘がある声が、自分のデスクに伏せ、書類を黙々と読み進めている山崎に降る。
山崎は初めはぎくり、と肩を跳ねさせ、小動物が穴蔵から外の様子を伺い見るような怯えた上目遣いで声の主を視界に納めるや良く見知った相手に、同時に身体を緊張させて姿勢を正す。
福沢から仕事に対してのミスや勤務態度への叱責を受け慣れている山崎からしたら当然の反応ではあるのだが、上司が己のデスクの背後へ立ち、己を見下ろしているにも関わらず、山崎は手に持った書類を離そうともしなかったし、上司の方へ身体を向けるような事もしなかった。ただ声掛けされる前の姿勢のまま、福沢に応じるのである。
そうした細やかな無礼を自覚せぬ山崎の態度に、目敏い者ならばそれだけでも山崎の気質に気付いたかもしれない。
山崎は少し時間をかけて福沢の言葉の意味を噛み砕くように眼球をきょろきょろと動かしていたが、次第に怪訝な表情へと顔色を移ろわせた。
「来なかったって、誰が、すか?」
山崎は心底心当たりが無いのか、とぼけている様子もなく、真に心当たりがない顔で、拙い敬語をもごもごやりながら福沢の顔色を伺うのである。
福沢は山崎の察しの悪さに呆れたように嘆息を大袈裟に漏らして佐田の欠勤を告げる。
「佐田だよ。連絡もなしに無断欠勤しやがってよ。お前ら昨日一緒に飲みに行ったんじゃねぇの?お前、佐田が潰れる程飲ませたのか?」
「えっ?」
山崎は困惑の色を浮かべた。確かに福沢の言うとおり、山崎は昨夜佐田を誘い、近くの安価な居酒屋に赴いて食事をしたが、山崎自身、そんな会社に出勤出来なくなるほどは飲んでいないし、寧ろ山崎よりも真面目な佐田は翌日の仕事を気に留めていたから、酒なんてチューハイ一杯ほどしか飲んでいないのでは無かっただろうか。
山崎は福沢の態度に、自分が咎められているような息苦しさを感じながら、それから逃れるように、半ば命乞いのような必死さでそれを伝えた。
山崎の顔に浮かんでいた困惑の色は次第に福沢に移っていくようだった。
「取り敢えず、お前からも連絡取ってみてくれないか。俺からももう一回掛けてみるから。」
自身の思いこみから山崎が関与していない筈はないと踏んでいた福沢は、つい咎めるような口調で接してしまったばつの悪さに、多少なり口調と声を和らげてそれだけを告げ、多忙を装いさっさと山崎のデスクから足早に去っていった。
未だ困惑の色を強く顔全体に広げたままの山崎だけがぽつんとその場に残されてしまった。
山崎はしばらくして、はっと我に返ったようにスラックスのポケットに押し込んでいた自分のスマホを取り出し、誰かに急かされるようにして佐田とのトーク画面を開く。
【お前何で今日ぶっちしてんだよ。】
【福沢の奴めっちゃ怒ってんだけど】
【つか俺のせいって疑われてんだけど】
手慣れたフリック操作で手早くそれだけの文を投稿し、投稿した自分の文の左横に既読の文字が浮かび上がるのを今か今かとじっと見つめていた。
すると一分も待たない内に、すんなりと既読の文字が現れたのだ。
それに山崎はほっとすると共に、「んだよずる休みかよ。」と佐田の勤勉さを棚に上げた適当な想像をし、悪態付くように一人呟いた。
佐田の奴なんて返してくるつもりなんだろう。と自分は勤務中と言うことも忘れて、あるいは気にも留めずにずっとトーク画面の既読を睨みつけていた。
するとまた一分と待たずに、着信音と共に佐田からの返信が浮かび上がった。
【あu@51い】
【からsu】
連投された佐田からのメッセージに、山崎はぞくっと背中全体が寒いもので撫でられたような不気味さを感じた。
「……なんだこれ。」
思わずつぶやいた。
「何だ、あいつ寝ぼけてんのか。」と思いはしたが、それだけでは片付けられない言いようのない気色の悪さと、違和感を、山崎は払拭しきれずに、ただ鳥のような眼で佐田が返してきた返信を、穴があくほど見つめていた。
それ以来、佐田は音信不通となり、出勤は愚か、自宅のマンションにも帰ることはなかった。
テレビでは今月になって三人目となる失踪者のニュースを神経質そうな声でキャスターが真面目に読み上げている。
同月で失踪者が三人ともなれば、ワイドショーなどが関連を謳って特集を組んでもよさそうなものであったが、それぞれ年齢も性別も、ましてや住む場所もバラバラ。
全国で毎日絶えず東西南北の殺人事件をニュースで流していても、誰も連続殺人だとは思わないだろう。
その失踪者のニュースもまた、その一つのような扱いだった。
黒澤はそのニュースを耳に留め、「またか。」と誰にともなくつぶやく。
失踪者、というワードが遅めの昼食であるカツ丼の味を途端に不味くした。
がっついていたカツの衣も油油して胸やけを起こす。
絡みつく半熟の卵のまだ透明な白身が生臭く口当たりが気色悪い。
その中に紛れ込む飴色のタマネギは甘ったるく鼻に残る。
吐き出してしまおうかとも思うほどだったが、何とか口の中身は飲み込んで、残りのカツ丼に手を付けることはなく、箸を置いてしまった。
脳裏に思い浮かぶのは、別人のように変わり果ててしまった友人のあの姿。
山奥で腐葉土のように腐り、朽ちていた変わり果てた姿。
正確に言うならば、黒澤は友人の変わり果てた姿を「実際に見た」訳では無かったのだが、ある出来事から、黒澤自身としては実際に「見た」と言っても過言ではないと思っていた。
白い雲をめいっぱいに湛えた森の中、山霧をかき分け、森の奥へと入っていった崖の下に、大樹の幹にもたれるようにしてうなだれる格好のまま腐乱して蛆の沸いた死体。とても元が人だったとは思われない朽ち果てた姿。
あの姿を鮮烈に脳内に思い出してしまった黒澤は、結局腹に収めたカツ丼すら、トイレに吐いてしまった。目尻に浮かんだ涙を指の背で乱暴に拭いながら、便器にしがみつき荒い息を肩で繰り返す。
「荒川…」と黒澤は苦虫を噛み潰したような皺を顔中に刻んで、犬のようにぜえぜえと喘いだ。
黒澤の記憶の中で、森の中腐乱してぶんぶんと蠅を集らせ朽ち果てている悲惨な姿と、酒を食らい快活に笑う姿とを交互に点滅を繰り返す荒川という男は、黒澤と高校での同級生で、そこからお互い別々の道に進んで32になる今まで付き合いの続く唯一の友人だった。
高校当時から頭の良かった荒川は医科大学へ進学し、詳しい経緯など黒澤にはよくわからなかったが、荒川は医者なったらしかった。
黒澤は専門校へ進学してしがない車の整備士となったが、お互い多忙な日々の合間を縫うようにして親交はあったし、定期的に飲みに行くような仲だったというのに、その荒川は突如として黒澤の前から消えてしまう。まるで前触れもなく、何の言伝もなく。そしてこの世のものとは思えぬおぞましい遺体へと姿を変え、発見された。
その荒川の身を襲った絶対的な死の形、姿は、黒澤の脳味噌に鮮烈に刻まれている。そしてその荒川が失踪する僅かばかり前に黒澤の身に起こった出来事と、荒川の死から今までずっと続いているある出来事は、まるで胸の中に一本の樹が生えたように、深々と黒い根を黒澤の胸へと下ろし、その根本に大きな影を落とす大樹へと何時しか成長していた。その胸に巣くった大樹は、失踪者のニュースを耳にする度に、黒澤に何かを訴えかけるかのようにざわざわと漆黒の影を揺らすのである。
説明しろと言われれば、全てを事細かく描写して語れる自信は黒澤にあったのだが、黒澤はその事を荒川の親族には愚か、警察に一言も話していない。
それは何故か、と、もし誰かが黒澤の置かれた状況をすっかり知ったのなら黒澤にそう問いかけるのだろうが、そのもしも、の問いかけに対する黒澤の答えは以下のように胸の内で決まっていた。
「ふん。どうして信じて貰えると思う?俺が荒川の遺体を見たのは夢の中でだけだってのに。」
それはまるで何かの暗示かのように毎夜繰り返された夢である。
黒澤は、何かの警告とも思えてならないような夢であった。
ちょうど半年前の話になる。
黒澤はいつものように荒川を飲みに誘おうと携帯で連絡を取った。
だが、携帯のスピーカー越しに何度かコールを聞いた挙げ句に留守番電話に切り替わったアナウンスが流れ出し、結局荒川がでることはなかった。
普段なら荒川と繋がりやすい時間に連絡をしたにも関わらずの不通であったが、荒川も医者という多忙な職業をしている以上、幾ら手薄の時間を見計らい電話を掛けたところで出ないことはしばしばあったので、黒澤はそれを別段気にも留めなかった。
「まあ、着信見たら掛け直してくるかな。」
いつも荒川は着信を見たら暇なときに必ず連絡をよこしてくる生真面目な質だった為、黒澤は深くものも考えず、留守電にメッセージも残さなかった。
のだが、今回に限って待てど暮らせど荒川から連絡は無かった。メールも数件送ってはみたものの、勿論返信すら来ない始末。
連絡をして無反応なまま一週間、二週間と時が経ち、黒澤は違和感を感じ始めた。
幾ら多忙とは言え、半月も連絡が来ないなんて普段は几帳面に連絡を寄越す荒川にしては、二週間も何の音沙汰もないなんてやっぱり可笑しい。それに虫の知らせとでも言うのか妙な胸騒ぎも近頃黒澤の胸の内を賑やかせていた。
「何かあったのだろうか。」日常のふとした瞬間に荒川の事が頭に浮かび、そして頭から離れなくなる。
その度に黒澤は自身の携帯の発着信履歴を眺めながら「医者なんだから忙しいんだ。しつこく連絡をしても迷惑になる。」などと、そんな気を使う仲でもあるまいにそう自分を言い聞かせ、胸騒ぎを無理矢理体の奥底へと押し込んで追って連絡をすることを控えてしまっていた。
だが、それもそう長くは続くはずもなく、はやり不安と胸騒ぎとに居ても立っても居られなくなったある日、携帯に残っている荒川への発信履歴が、表示されている日時から一ヶ月経とうとしているのを今一度確認した後、やはりどうしてももう自分の胸騒ぎを誤魔化すことが難しいと悟った黒澤は、もう一度電話を掛けてみることにした。
兎に角もう荒川の声を聞いて安心したい一心であった。
聞き慣れた呼び出しコール音。一回、二回、三回。
「あぁ、やっぱり出ない。」
喉の奥へと押し込んでいた不安の息遣いが鼻息として戻ってきて、通話を終了して次こそ荒川の両親なりに連絡して荒川の所在を確かめようと決心し掛けたその時、突如コールが途切れ、ブツ、と回線が繋がる音がした。スピーカーの奥では荒川の息遣いがやけに近くで聞こえた。
黒澤は驚いてはっと息を飲み、弾かれるようにスピーカーから耳を離して画面を確認すると、画面には荒川の相手名と、通話中、の文字が踊っていた。そうなることを望んでいたというのに、黒澤は何だか信じられない気持ちでその画面を暫し見開いた目で見つめてしまう。唯不通が続いていたときよりも胸騒ぎは弾んでばくばくと黒澤の心臓を叩き、例の胸の中に根ざした樹もざわざわと黒い影を一層強く揺らした。
だが、やがてそれらは、「繋がった。」という喜びの光に当てられ些か形を潜める。
黒澤は繋がったことに一人ほくそ笑み、「なんだ、ほらみろ、やっぱり何でもなかった。」と一ヶ月間も己を煩わせた胸騒ぎ達を心中で一斉に蹴散らした。
「もしもし?荒川か?なんだよお前。生きてんのか?メール返せよ」
繋がったことに対して安堵を隠しきれない声で矢継ぎ早に言葉を繋いだ。我ながら嬉しそうな声がでるものだと自覚しないではなかったが、それを押し殺せないほどに、黒澤は通話が繋がったことに興奮していたのかも知れなかった。
この一ヶ月間どれだけ心配したかを恩着せがましく語って聞かせ、今度の酒は荒川に奢らせてやろうという喜びの裏返しさえもこの時は計画していた。
だけど、当人の荒川は一向に一言も発しない。先程から一定のリズムで聞こえている呼吸音と、スピーカーの向こう側がザアザア、と喧しいばかりである。何かにスピーカーが擦れる音なのか、そもそも回線のノイズなのか、黒澤には判断しかねたが、その音が黒澤には鳥の羽音のように聞こえてならなかった。
「おい、荒川?」
すっかり居なくなったはずの胸騒ぎの足音が戻ってくる気がして、妙な寒気がする。同時に蹴散らしたはずの胸騒ぎが胸の内側から外に出て行くつもりなのかと言うほどに激しく胸の中で暴れ回った。
黒澤は祈るような気持ちで、荒川に呼び掛け、尚も続く沈黙を恐れ、口を動かした。
「おい?おーい、荒川?電波悪いのか?聞こえねーぞー。」
努めて明るい、何も気に留めていないかのような声を出した。
「荒川の野郎、外にでもいるか、さては電車の中に居やがるな。」と勝手な想像を瞬時に付け加え、山積していく不安と胸騒ぎと沈黙とに圧し潰れそうな自分を心の中で必死に勇気づけた。だが、暴れる胸騒ぎは黙らない。それどころか段々と大きくなって、耳の横で喚かれているような気分だった。
ザアザアザアザザ、ノイズのような、スピーカーを何かで擦るような音が一際大きくなり、耳にきん、と響いた。
そのあまりの大きさに怯んだ黒澤は反射的に肩を竦め、スピーカーから耳を遠ざける。その拍子に携帯を手から滑らせ、床に取り落としてしまった。
軽い落下音と共にクルクルと携帯は床の上で回って居るのを、黒澤が慌てて拾い上げようと指を伸ばしたその瞬間、通話をスピーカーモードにした覚えもないのに一際大きくノイズが聞こえ、それに紛れて声が聞こえた。
『からす。』
ブツ、と通話が途切れた。
スピーカーから耳が離れていたし、ノイズに紛れてしまうほど小さく、普段聞いたことがないような低い声だったが、確かに荒川の声だった。
黒澤は慌てて携帯を拾い上げてスピーカーに耳を押しつけ、「荒川?荒川!」と怒鳴るように呼びかけてみたが、もうスピーカーからは通信の途切れたツーツーと言う音が通話の終了を伝えるのみだった。
それを聞いた黒澤はやけに室内がしんと静まりかえっているのに背筋に冷や汗が湧き出た。
あれほど黒澤の中で暴れていた胸騒ぎは、途端にすーっと黒澤の体中から体温を奪い、成長してどす黒い何かに変わろうかというところであった。ずっしりと、胸の辺りが重いような感じがした。
ちょうど蛹の背中から姿を現した成虫が、その柔らかい体をうぞりとのぞかせて微動だにせず、羽を渇かしているかのように、黒澤の引いていく血の気と吹き出す冷や汗を知ったことかとあざ笑いながら、胸騒ぎの成虫はゆっくりゆっくりとその姿を黒澤に色濃く焼き付けていった。
通話が途切れてからの数分間は、正しく数分間であった筈だというのに、黒澤はとんでもない時刻錯誤を起こしいていて、まるで数年間そうして立ちっぱなしだったのではないかと思われるほどに長く感じた。そうしている間に今のは全て夢だったのではないかと言う気さえしてきた。それは黒澤が今にも胸から弾け出てきそうな音をがなる心臓を落ち着かせるために吐いた他愛のない幻想であった。
黒澤がその防護服のような幻想からはっと我に返るや否や、手に携帯をぶら下げたままだったことに今気付いたかのような反応で、素早く画面を操作し、荒川と同じく学生時代から顔付き合いのあった荒川の両親へ何とか連絡を取った。高校時代に何度もお互いの家を行き来していたので、荒川の実家の連絡先は心得ていた。
こちらの呼び出し音は程なくして途切れ、いやに弱々しい声をした荒川の母が電話に応答した。
黒澤は久しぶりの挨拶もそこそこにして、出来るだけ手短に荒川との連絡が付かないことを説明し、荒川の所在を訪ねる。するとそれまで物静かに押し黙って黒澤の説明を聞いていた荒川の母は、震える声で、荒川の失踪を黒澤に伝えた。
二週間に一度は連絡を寄越していたこまめな息子が、一ヶ月以上連絡も付かず、病院に訪ねても無断欠勤が続いているとのことで、警察に捜索願をだしたと。
黒澤は今し方の荒川との電話内容を思い出し、背筋が凍るような寒気がした。携帯を持つ手は震え、歯の根さえ噛みしめていなければがたがたと鳴り出しそうだった。
だが、黒澤は今にも泣き崩れそうな荒川の母の声を聞いてしまうと、今し方の電話の内容を軽はずみに口にしても良いものかと、等々言えなかった。伝えると言ってもどう伝える?とてもじゃないが「荒川は無事だ」と言い切れるような電話内容ではなかったし、荒川の声も付き合いの長い俺でさえ聞いたことのない様な声色をしていた。明らかに異常だった。
そんなことを伝えたところで、たちまち心労に倒れてしまうのではないかと思われるような憔悴しきった声だったのだ。ただ何でも良いから息子について何か知らないかと泣きすがる母の声に、唯何も知らぬと言うのは心苦しくもあり、せめてもの慰めになればと「俺からも連絡を取り続けてみます。」とだけ約束し、遂に黒澤はたった今本人と通話したという事を言えずに通話を終わらせた。
通話を終えた事を確認することもなく、携帯を握り締める手をだらりと下げ、うなだれる黒澤を包むのは血のように赤い夕日が遂に沈んだのを待ちかねていたように部屋へ広がる闇と、静寂だけだった。
その地獄とも言える静寂の中で、羽を乾かし終えた胸騒ぎの成虫が、静かに羽ばたき始める音を、黒澤は聞き逃さなかった。
電話から二週間後、今度は荒川の父から携帯に連絡があった。息子が遺体で見つかったと。
「ほら、ここんとこ暑かったもんだから、ちょっと損傷が酷いらしくてね、遺体は見せてもらえなかったんだけど、息子のDNAが一致してね。」
驚き声すら失った黒澤に、荒川の父は気丈に振る舞って話していたが、実際声は所々震え、掠れていた。きっと夜通し泣いていたのだろうと黒澤は思った。
最悪の現実が、二週間の間黒澤の脳裏に一切過ぎらないでも無かったが、その度に黒澤は強く己の頬やら股やらを力任せに殴り、そう考えてしまう己を無理矢理沈黙させてきただけに、父から伝えられたその残酷な現実は、黒澤を奈落の底に突き落とすようであった。
黒澤は詳しく話を聞くために直ぐに荒川の実家を訪ねた。荒川の両親の顔を見るのは高校の卒業式以来で随分久しぶりだったのだが、最後に見た面影を一切残さないほどに憔悴しきった荒川の両親の姿に黒澤は心を痛めた。こんなことならばあの日、荒川との会話のことを伝えておけば良かった、と心から後悔した。
荒川の遺体が近所の山中で発見されたらしい。
腐乱が酷く、遺体の損傷も激しいため死因と死亡推定日が分からないということだった。自殺なのか事故死なのか判断するために死因等はこれから警察が検死やら何やらしてその死因を探るらしい。
「あの荒川が自殺なんて。」と思わず黒澤はこぼした。長い付き合いで荒川は自殺という言葉とは一番縁遠い人物だと思っていたし、かといって誰かから恨みを買うような人物でもなかった。
そもすれば自然と残るのは「事故死」の線であるが、荒川の両親はもちろんの事、黒澤の脳内にも同じ疑問が浮かんでくる。
「何故荒川は山の中で死んでいたのか?」
黒澤は警察から受けた事務的な説明を痛々しく語る荒川の両親を見つめながら押し黙って考えていた。
少なくとも黒澤が知る範囲で荒川には登山の趣味など無かったはずだった。
「それにね、」と啜り泣いていた荒川の母が続ける。
「あの子の、体の傷は、特に酷くて、まだわからないけど、熊とか、そういう獣に死んだ後でかじられたんじゃないかって。」
言葉の最後は、殆ど荒川の母の泣き声と嗚咽にかき消されてしまった。
通夜、葬儀とは、気持ちの整理がつかないまま行われた。まるで遺族の気持ちすらも何処か余所へ置いておくように通夜も葬儀も何の実感を得ることも出来ないまま全ての儀式が終焉を迎えようとしているようだった。
棺の中を覗いても、荒川の顔を拝むことは叶わなかった。
棺の窓には、荒川の白衣姿で笑った写真が貼り付けてあるだけで、中の様子をうかがうことも出来なかったからである。
それほど、荒川の遺体の損傷は激しいものだったのだろうか。それとも、この棺に荒川の遺体はなく、遺体は警察が検屍をしている真っ最中なのだろうか。
棺に縋り泣き崩れる荒川の両親に、それを訪ねることは、電話の一件の罪悪感もある黒澤には到底出来るはずがなかった。
葬儀の帰り、せめてもう一度荒川の両親に声を掛けておきたかったが、荒川は医者だっただけあり、葬儀に訪れる人の数もちょっとした著名人並だった。それだけでも荒川の人柄と、荒川がどれだけ自分の職務に従事していたかが伺えるようであったし、次々に挨拶へやってくる者達への対応に負われているようで、親族でもない黒澤がそれ以上あの両親を煩わせることははばかられた。
とにかくゆっくり休んでほしいという思いだけを葬儀場に残し、帰路につく。
その道すがら、黒澤はずっと考えていた。あの最後の荒川との電話。
「からす…」
荒川の遺した最後の言葉を一度口にしてみた。
荒川はどのような状況で、何故消息を絶ち、何で己にカラス、とだけ遺したのだろう。幾ら考えても答えのでない藪の中のような気持ちだった。
カラスとはあの鳥のことだろう。いや、もしかしたら「枯らす。」だったのかもしれないが、黒澤は鳥のカラスだろうと半ば確信していた。あの時の電話のノイズの中に、鳥が羽ばたくような音を聞いた気がしたのを思い出したからである。黒澤は尚も考えと、仮定を脳内で発展させていった。きっと荒川と最後に電話をやりとりした人間は自分だろうと信じていたし、これはまだ警察にも話していない、自分だけが知っている事実であるから。
荒川は山中で発見されたという事だから、電話に出たとき既に荒川は山中にいたのではなかろうか、と黒澤は自分の推理に結論づけた。
だけど、その意図が依然分からない。なぜ荒川は、仕事で悩んでいる素振りも全くなく、登山とかそう言う趣味も無かったように思えるのに、山奥なんかで遺体で見つかった?しかも死因も分からないほど腐乱した状態で。ましてや人とは一ヶ月やそこらでそんなに腐乱するものなのか?
そしてなぜ黒澤の電話に応答して、カラスとだけ伝えたのか。
黒澤は鈴虫一匹すら鳴かない静かな夜道を時々街灯の心許ない明かりに照らされながら、悶々として荒川と、電話と、カラスのことをぐるぐると頭の中で巡回させて考えていた。
その夜、床についても中々眠れずにいた黒澤がやっと意識を手放したのは、外が明るく白み始めたころだった。
黒澤は夢を見た。
彼は山奥を歩いている。獣道だ、太い木の根や、雑草が生い茂り、大きな石もごろごろと転がっているのに土はぬかるんでいて一歩足を進めるごとに足が泥を纏って重くなる。顔の高さにまで成長したシダか何をかき分けながら進んでいるが、どこを目指しているのか彼には分からない。
朝露か、土の泥濘からすると昨夜雨が降ったのか、草木はどれもじっとりと湿っていて、その山をかき分け進む彼の衣類を撫でる度に湿らせていく。手にまとわりつく草が気色悪く、払えば次には顔に蜘蛛の巣が引っかかる。
ぜえぜえと喘ぎ喘ぎ先へと急ぐ脚は何かから逃げているようでもあるし、何かを目指しているようでもあった。
だけどそもそも何故こんな山中をこんな思いをして歩いているのか彼には分からなかった。
彼はふと空を仰ぐ。辺りは山霧に満ち、延々と空に雲を足しているかのように、山霧は昇っていく。空は今にも落ちてきそうな程低い位置に分厚い雨雲を抱え白々としていた。
その雲を仰ぎながらまた一歩を踏み出した彼は、泥に脚を滑らせた拍子にちょうど斜面になっていた地面を転がり落ちる。
その音に驚いたと見えたカラス達が、何処に居たのか何十羽と群をなして胡麻を蒔いたように男の背後の白い空へと羽ばたいた。
暫く転げ落ちた彼は、やっと平らな地面に叩きつけられ落下をやめる。
全身を土や、石や、太い木の根に打ち付けあちこち痛めた彼は呻きながら泥にまみれた体を引きずるようにして起こしつつ、なぜこんなことに、と悪態の一つや二つも吐きながら痛む箇所をさすっていた彼は、次第に辺りを見渡し、自分が転がり落ちてきた場所と位置を確認しようとした。
カラスがさっきの落下から騒ぎ出したようで喧しいったらない。山霧がここは特に濃くて、辺りを念入りに眺め回すが、白い靄のような霧の奥には落下の前にも散々歩いてきた山の風景が覗くだけで、男は左右上下の別を見失っていた。それでも彼は慌てふためくこともなく、根気よくじっと景色を眺め回した。すると、見渡す景色の中にあるものを見出す。数歩その景色ににじり寄ってまたじっと見つめる。やがてそれが「それ」だと分かると、彼は小さく息を飲み何かの見間違いだろうと目を擦り今一度じっくりとそれを見つめる。やがて、それが本物で、己の見間違いではないと悟ると、彼は「アッ!」とか何とか悲鳴ともつかん音を上げ大きく息をのみ、身体を強ばらせ、呼吸の仕方すら忘れたかのようにぜえぜえ喘ぎ、冷や汗をびっしりと掻きぶるぶると震え出す。
彼の落ちた先の目の前には、この森できっと一等太いだろう大きな樹があった。大人が両手一杯を広げて六人で輪を作ってもその幹を一回りできるかできないか、それほどの太くずっしりとしてどこか神聖な空気の漂う樹だった。
その樹は人の胴体ほどもあろうかという根を荒ぶる蟒蛇のごとくあちこちに張り巡らせしっかりとその土に、この森に根付いている樹であった。
だか彼が心の底から怯えているのはこの大樹ではない。その大樹の幹にもたれ掛かるようにして座り、深くうなだれている男を発見して彼は怯えているのだ。
こんな山奥に入るつもりではなかったのだろう。所々破れ、薄汚れているものの男はそれでもスーツを着ているというのが分かった。
だがなぜ彼はこのスーツの男に対しそれほど怯えるのか?
答えは火を見るより明らかだった。
山霧が立ちこめるこの深い森で不釣り合いな装いのスーツの男には、腹がなかった。
何者かが男の腹を鋭いもので引き裂いたか、あるいは鋭い牙や爪を臍に引っかけ、包みでも開くように皮膚を引きちぎったかのように、腹の皮膚はべろりと開き、そこにみっちり詰まっているはずの内臓がごっそりと無い。腹にはただ何処までも続いていそうな底の伺えぬ闇を満たす空洞があり、まるでその闇を護る門とでも言うつもりか、血肉がこびり付いたまま長らく放置されていたのであろう赤黒く染まった不気味な肋が何本も剥き出しにしなり、その肋や穴の縁には大量の蛆が乳白色の白い身体を血に濡れさせうぞうぞと這い回っていた。
骨格標本とかで見る骨の色とは全く違う、無惨で残酷な死を物語る色であった。
腹に開いた穴は人の頭がすっぽりと入るくらいの大きさで開いているのに、有るはずの内臓が一つもないと伺える他には何も伺い知れない底の知れない暗闇であった。
男の身体に開いている穴には違いないのだが、まるでそこだけが男の身体とは到底思われないほど、不自然に闇を持った穴だった。
他にこの男の特筆するべき特徴と言えば、よほど時間が経過しているのだろうか男の皮膚に乾いた血液以外の水分の気配は見て取れず、頬肉も自然に腐り落ちたのかそげ落とされたのか定かではないが、ごっそりと消え失せていて、男の半開きの奥歯が剥き出しになっている。
その隙間からもうぞうぞと蛆が蠢いているのが確認できた。
よく見ればその遺体の水分が抜け出て乾き切った変色した皮膚には、所々に夥しく穴が開いているが確認できた。まるで針の太い剣山で全身を滅多刺しにしたかのような穴だった。
だが、その穴はそういった穴ではなかった、穴の開いていない皮膚の内側から、蛆が皮膚を食い破って出てくるのが見えたからである。あの体中に開いた夥しい穴は全て、蛆が男の体内を食い荒らし、這い回った挙げ句外へ出て行った穴なのだ。
その穴から外へ出たまるまると肥えた蛆は、やがてその男を取り巻きぶんぶんと飛び回る蝿になる。
体の肉の殆どが食い荒らされてしまっている中で、唇らしき皮膚は少し残っているらしかったが男は死の間際、相当もがき苦しんだと見え、卵の黄身のような色をした泡だか、油だかがこびり付いていて、そこに白い綿毛のような黴も確認できる。
彼は生命の存在すら否定するかのような腐乱臭をその時には荒い呼吸で肺一杯に感じていた。
油と、水と、鉄、それらが一緒くたに腐ったような生臭さに、黴の喉に張り付くような臭いと、森の土の香りとが、男の肺で混ざり合い吸っても吐いても出て行かぬような気がした。
それだけ大きく遺体が損傷しているというのに、周囲には男の死因が特定できるような異常や変化はなく、まるでその遺体がどこかから独りでに歩いてきてそこに座ったように、自然とそこに在るのだ。
人の形を辛うじて保ってはいたものの、その遺体は眺めている者からそれを人と認識し、人と扱う気さえ奪っていく。
悪意ともしれない、無惨ともしれない、あるいは世界の悪の全てを一身に受けたかのような、あらがいようのない災害的な死をその姿全てで物語っていた。
絶対的な死であった。
必然的な死であった。
頭に銃を突きつけられ、引き金を引く音を聞かされるよりも明確で不変動な死の形であった。
それに眼を焼かれた彼は正気を失ったかのように見え、何とも聞き取れぬ意味のない奇声を発して叫び声を上げる。
その叫び声に脅かされた山烏達がまた一斉にガアガアと騒ぎ出す。
だが彼にもう烏の声は聞こえなかった。
彼の目の前の腐乱した男は逃れようのない死、そのものの形をしてそこに座っている。そんな絶対的な死を前にして、がたがたと震え立つことさえままならない彼は必死に自分が転がり落ちてきた崖に取り縋り、崖を掻くが土は湿っていて柔らかく、掴めども掴めども土が掴めるだけで一向に上には登れない。
気違いのように叫びながら崖を虫のようにもがく彼は、生を色濃く象徴するかのように朝露で全身濡れていた。
目を覚ました黒澤の身体は、夢で発狂した男と同じように全身寝汗でびっしょりと濡れていた。
まるで自分も今さっきまでその場に居合わせたように、黒澤の脳裏には遺体の腐乱する臭い、森の青臭い土の香りとが色濃く刻まれていて、呼吸する度に喉の奥で酸っぱいものが上がってくる感覚がした。
厚い雲に覆われて白けた空では今何時頃なのか想像も付かない。
自身の部屋の、使い慣れた万年床であるというのに、黒澤は見知らぬ部屋の見知らぬ万年床に突如として寝かされていて目が覚めたとでも言うように眼を見開き、布団を隅から隅までなで回し、部屋をきょろきょろと見渡し、ここが現実であるかどうかを確かめる。
外のゴミ捨て場ではガアガアとカラスが食事を終えたのか数匹鳴いていた。
跳ねるように飛び起きたので混乱した脳は揺れ、今度こそ喉の奥から上がってくる酸味を諫めきれず、黒澤はそのまま身を捩ってベッド脇のフローリングへと消化しきれずに残っていた昨夜の晩飯の残りと胃液を吐き出した。
胃液に混じり己の喉から弾き出されたのは黄色と橙の混じった、歪な固まりであった。
それは何のことはなく、昨夜食べたインスタントラーメンの残りであることに違いなかったのだが、黒澤にはそれが、例の遺体の口元にこびり付いていた泡や、腹に何匹も這いだしていたぶよぶよとした蛆にしか見られず、今度はよたつくようにして口元を抑えベッドから這い出てトイレへと走り込んでいった。
倒れ込むように便器に縋りつき、喉奥からごぼごぼと音を立て自分の身体から中身が出て行く音を聞きながら、黒澤は「荒川…」と喘いだ。
夢の中の発狂した男は黒澤が見知らぬ男だった。
だが、あの、幹に背を預けて腐っていた男。発狂した男がそこに留意したかどうか、ましてやそんな余裕があったかどうか定かではないが、夢の主である黒澤は、誰の視点とも分からぬ視点の中で見ていた。
あのスーツ姿の遺体、腹に開いた風穴の少し上のところに、病院の関係者が良く下げているような顔写真付きのネームカードが薄汚れてぶら下がっていたのに、黒澤は気付いていた。
名前も、写真も、荒川のものだった。
あの死そのものを身体に宿した腐乱死体は、黒澤の友人でもあり、一ヶ月の消息不明の後、山奥で遺体となり発見され、前日葬儀を終えたばかりの、荒川だったのだ。
黒澤は、それから半年間、その夢を見続けている。
初めは、荒川の両親から聞き及んだ山奥で腐乱死体で発見された、というあまりにもショッキングな友人の死を聞かされたために、あのような悪夢を見たのだと信じていたが、同じ悪夢は半年間、何かを物語るように、そして訴えかけるようにしてほとんど毎晩欠かさず繰り返された。
それを重ねる内に、黒澤はある種の確信が頭に過ぎっていた。
ホラーやサスペンスといったジャンルの本や映像はほとんど見ない自分の頭が造ったにしては、死体がリアルすぎるし、何しろ荒川を発見する男なんてのは、顔も見たことがない男であった。
「あれは、本物の現場の映像なのではなかろうか」
そんな確信にも似た考えが、次第に黒澤の頭には浮かび始めていた。
ばからしい、と考えないでもなかったが、「馬鹿らしい」の一言だけでは片付けられない偶然の一致がその後判明し、まるで夢と現実は古い地図と最新の地図を重ね合わせるように、殆どと言って良いほどに大まかな輪郭が一致していた。
夢を見始めてから半年間、黒澤は何も調べないでは無かったのだ。
一番初めに夢を見たときにはただただ精神的に自分が弱っているのでそんな夢を見たのだと思いこんでいたが、その夢が二度、三度、と重なる内に、これは唯の夢ではないなと思うようになり、荒川の両親に発見場所の山を聞き出し、赴いたりもしてみた。
これが第一に夢と現実が重なる点であった。
その山は黒澤の安アパートの窓からも頭ぐらいは望めるほどの距離にある名も知らぬ山だったが、踏み入ってみると見た目よりも森は深く、獣道すら殆ど見られない森であり、同じような風景ばかりが続いていて、気を配って進んでいかないとたちまち方角を見失う、といったような森だった。
両親から聞いた話では森の奥深くという情報だけだったが、ずんずんと森に分け入っていく内に、段々と既視感が強まっていった。
あの夢で発狂しいていた男が、必死に駆けていた森にそっくりだった。
森ならばどこだって同じような風景だろうが、黒澤がこのときに感じた既視感はそんなぼんやりとしたものなどではなく、確信に近いようなもので、実際に、夢の男の足取りを真似て森へ進んでいったところ、目の前に軽い崖のようなものが現れてきて、黒澤ははっとした。その崖と出会ったのはその時初めてだったけど、黒澤はその崖を良く知っていた。落ちないようにしてそっと崖の下をのぞき込んだらば、森の緑や茶の優しい色合いの中に、一色だけ眼を刺すようなきつい色があった。
「立ち入り禁止」という黒い警告文の印刷された黄色い規制線だ。
あるだろう、とは予期していたが、実際に本当にそれがある光景をみるや、黒澤はゾーッとした冷気の如き寒気を感じずには居られなかった。
「やっぱりあの夢は…」震えだした指の背を噛み、身体の芯から震えそうになるのを堪えながら脳内でそう呟かずには居られなかったのだが、一つ大きな点が、現実のこの森と夢とで違っていた。
規制線の張られた空間のほぼ真ん中に花束の手向けられた場所があり、そこがきっと荒川が遺体として発見された場所だと分かったのだが、辺りを見渡してみても、あの夢の中で遺体の次に象徴的であったあの大樹だ。
この森の何処を見渡してみても、人の胴ほど太い根を持った、大人がめいっぱい両手を広げて六人繋がっても、一周出来ないくらいに太い幹を持った大樹は何処にも見当たらなかった。
第二に、夢と現実との一致点は発見者だった。
荒川の両親に尋ねてみても、第一の通報者は男であるらしいが、荒川の両親も自分の有望な息子を失って気が動転するやら、絶望するやらで、とんと発見者については失念していて、詳しくは聞き及んでいないと言うことだった。
荒川の両親の代理と言うことで警察にそれとなく訪ねに言っても良かったのだが、当時荒川は両親の証言で自殺の可能性はゼロに等しく、となれば「事故死」と位置づけられたらしく、それとなくのらくらと捜査は続いていたので身内でもない黒澤が警察に赴いたところで不審がられて根ほり葉ほり質問責めにあうのでは無かろうかと黒澤は危惧した。
荒川との電話のことは結局言えず終いであったし、警察にそれを伝えることは困難であると黒澤は思っていた。
現象、として伝えることは出来るものの、あのときに感じた漠然とした薄ら寒さを、警察が真面目に取り合ってくれるとは到底思われなかったのである。
だが、通報者の正体は、意外な形で知ることになった。
ある日の昼下がりに、ニュース番組を見るでもなく、ただ音がなければ心寂しいからという理由だけで流し、かといって画面を見るでもなかった黒澤が、何の虫の知らせか気まぐれに画面に視線をやった瞬間、黒澤は「アッ!」と叫んだ。
夢で発狂していた男としか思われぬ顔をした男の写真が、テレビの画面に大きく張り出され、その下には「犯人逮捕」という文字がでかでかと踊っていた。
黒澤はテレビに釘付けになり、慌ててリモコンをひっつかむとボリュームを幾つか上げた。
やや化粧の濃いキャスターが鉄面皮のような顔で告げた内容は次のようだった。
【半年ほど前、窃盗容疑を掛けられ、自宅に任意で話を聞きに来た捜査官を突き飛ばして逃走をし、公務執行妨害等で指名手配になっていた男が、今朝捜査官によって逮捕された。】
【捜査官から逃走後、容疑者は山中での携帯のGPS信号を最後にぱったりと行方知れずになっており、それが今朝都心部の欄干の下に住所不定無職の状態で発見され確保。】
【半年前、近隣の山中では死因不明の腐乱死体が見つかっており、その現場近くに容疑者のものとされる遺留品が残っており、殺人容疑でも取り調べを進めているが、容疑者は容疑を「覚えていない」などと否認している。】
キャスターがニュースを読み終え次の話題に移る頃、黒澤はわなわなと震えていた。
「ちがう。」そんな事を譫言のように呟いていた。
「ちがう、こいつは犯人じゃない…」
黒澤は夢の中で遺体を見付、半狂乱に逃げまどう男の姿を思い出していた。
ここからは黒澤の憶測に過ぎないが、きっとあの日この窃盗犯の男は捜査官から無事に逃げおおせると、潜伏する目的だったのか、他に目的があったのかどうかは分からないが、あの森へと分け入り、そしてあの死体を見付けた。
遺留品など残せば自分が真っ先に疑われるのは目に見えていただろうに、彼が本当に夢の中でのような半狂乱ぶりを見せていたのならば、あの最中に森に何かを取り落としていても無理からぬことだろう。こんなところだろうか、と黒澤は推理した。
それが今になり捕らえられ、矢張り通報したことにより小さな窃盗の余罪と共に、殺人の容疑さえ掛けられてしまったのであろう。
運が悪かったとしか言いようもないが、同時に違和感も感じた。
遺留品、の話は荒川の両親からも聞いていないし、当時の荒川の発見を取り上げたニュースでもそんな遺留品の話はしていなかったように思う。なのに何故今更になって、遺留品が出てくる?
黒澤のそんな違和感も余所に、テレビでは半年後の電撃逮捕、しかも殺人の容疑も浮上とあって特集まで組まれている始末であった。
テレビに出演しているコメンテイターも、ゲストで呼ばれた元警察官という初老の男性も、誰もこの「違和感」について口にするものはなく、ただ半年後に犯人を確保した捜査官の熱意をほめたたえたり、窃盗容疑で逃げていた男が殺人まで、ともうその窃盗犯が荒川を殺したかのような口振りで論議を繰り広げていた。
「一体誰が、荒川を殺したのか。」
黒澤だけが、違和感を感じていた。あの窃盗犯は殺してない。
世間は、この小さな違和感を気に留めていない。
元々窃盗犯、「逃走資金を得るために被害者を殺害後に逃走」などと、一見すれば筋が通っているような筋書きが伺えるが、黒澤にはその筋書きが「何者かによる操作」としか思われなかった。
夢の事を抜きにしても、どうしても件の窃盗犯が荒川を殺したとは思えないのだ。これは具体的に何が、ということでもないのだが、説明できない直感のようなものだった。
黒澤はますますこの荒川を中心とした事件の変動に、違和感を感じ、またそれはごく僅かなものだったのだが、どうにも忘れられない小さな違和感だった。喉に刺さった小骨と言うところだった。
「何かが可笑しい。何かが。」
黒澤はまるで呪文のようにこの言葉を頭の中で繰り返していた。
同時に、まだ調べる必要があるな、と事件への介入を決意したのもごく自然な流れであった。
「明日、もう一度山へ登ろう。」
黒澤はそう決意して、考え得る限りの登山の用意を始めた。
必要ならば今度こそ警察に赴き、聞ける範囲内だけでも話を聞きに行こう、そう考えながらの用意は深夜にまで渡った。
あの夢を見なくていいのなら、少しくらいの夜更かしなんて黒澤にはどうということも無かった。
津田は途方に暮れていた。
警察署の屋上にて手すりに前傾的に肘をかけもたれ掛かりながら苦い煙草を指の間でくゆらせていた。
津田は今年で捜査官に配属されて五年立とうかという、捜査官から見れば未だ青さの抜けない34歳の警察官だ。
何が津田をここまで途方に暮れさせたかと言えば、今回自分が抱えることになった案件である。
テレビでも今大々的に取り上げられている窃盗犯。
半年という捜査期間は別段珍しいものではない。ましてやこの事件は「容疑者が分かっている」捜査だった。
容疑者不明の難解事件が半年後に突如容疑者検挙、というのならばドラマのような展開だし、ワイドショーも賑わすことだろうが、今回は逃亡した窃盗容疑をかけられた男、が確保されただけだ。
なのにニュースでそれを大々的に報じたのは「半年前の殺人の容疑者」という肩書きがあるからだろう。
そこまで考えて津田は細く吸った煙草の煙を空に吐き出した。
その煙の向こう側には、遠くに件の殺人現場、として扱われる山の青青とした頭が見えていた。
不思議なのは、今回逮捕された容疑者を取り調べる捜査官の中に「容疑者を知る者が誰もいない」という点だった。
上司から津田が受けた説明では、「ある捜査官が容疑者に職務質問をした際に、当時の事件との関与を示唆したのでその場で逮捕した」との事だったが、その逮捕した捜査官は愚か、当時の事件を担当していた捜査官すら、誰一人として今回の取り調べに参加していないのである。
不参加の理由は様々だった。
「他の案件で手一杯」
「既に定年退職している」
ありがちな理由ではあるが、全員不参加というのは異例に思えた。
それを差し置いても取り調べは困難の最中にあった。
当人の容疑者が「何も思い出せない」の一点張りなのだ。
容疑者の名前はハヤシミノル。年齢は47歳。
報告書によれば発見当時住所不定無職とのことだったが、ハヤシはとても五十前とは思えないほど老け込んでしまっていて、歯すらあったりなかったりの状態である。
職務質問をした捜査官は市内のある欄干の下で寝泊まりをしている男に声をかけた。
その男は「自分はハヤシミノルだ」と自ら名乗ったという。
だのにその男は取調室で「自分の名前すらわからない」というのである。
ハヤシが事件の関与を否認する目的でそのような嘘の供述をしている、と考えるのが普通だろうが、そうと決めつけられもしない理由として、「職務質問した捜査官」の存在である。
その捜査官を、津田は知らない。報告書には名前が記されていなかった。
それを上に掛け合ったが、上司は「報告書に漏れがないことは確認してある。名前のありなしは重要じゃない」として捜査官の名前すら教えてくれなかった。
半年前にハヤシを窃盗容疑で調べていた捜査官も、「現在は退職している。」の一点張りだ。
「なぜこんなに違和感があるのに、誰も気に留めないのだ。」
疑問に思っているのは津田一人だけのようであった。
取り調べとは形式上でだけで、津田以外の捜査官は殆どあの浮浪者をハヤシミノルとして疑わなかったし、報告書の違和感も訴えない。窃盗容疑どころか、殺人容疑すらも、まるで確定したかのように書類の準備を進めているのだ。
「状況証拠が十分揃っているから、供述を待たずともいい。」
津田には回りの人間がそう言っているようにしか見えなかった。
ここまで自分の頭の中で状況を整理して、津田は深い溜息を、音も無く肩を落としてこぼした。
そして今朝署内を慌ただしくさせたある事件のことについて考える。
ハヤシミノルが拘留施設で死亡したのである。
昨夜深夜四時頃、突然ハヤシミノルが与えられた室内でもがき苦しみ、意味不明な事を喚き散らしたかと思ったら、その後ぱったりと意識を失い、そのまま蘇生処置の余地もなく息絶えたらしい。
何も知らず出勤した津田には正に寝耳に水であった。
上層部は対応に追われているのかばたばたと慌ただしかった。
朝一でハヤシの検屍が行われたが、待てど暮らせど検屍結果は津田の元に廻ってこない。
何度も係りの者に内線で結果を急かしたが、「今立て込んでいる」と一方的に通話を切られてしまう。
ハヤシミノルが死亡してから三日後。検屍結果はやっと津田の手元に届いたが、つらつらの検屍の報告が書かれているものの、結果的には「ただの心臓発作」としてあった。
結局ハヤシミノルは容疑者死亡のまま書類送検となった。
津田はどうにも腑に落ちなかったのだが、もはや津田一人ではどうすることも出来なかった。
上司に違和感を訴えてみても「他にも仕事が山積みだろ、早くそっちに取りかかれ」と背中を叩かれてしまえば、五年目の津田はもう何も言えなかった。
「もしもし。」
どうにも煮え切らない思いを抱えながらもハヤシについての報告書を纏めているところに、一本の電話が入る。
表示名は津田と殆ど同期の検屍官の野口であった。
「お前。凄い声してんな。寝てないんだろ。」
「うるさい。用件は何だよ。」
野口は検屍官という役職に似つかわしくないほど明るい奴だった。今だって携帯のスピーカー越しの声は地の底のような津田に対照的に夏場の海のように晴れやかで気持ちのいい爽快感があった。
だがその声に津田は蠅でも払うような思いで用件を急かす。すると晴れていた野口の声が忽ち曇り、人に聞かれるのを恐れるように潜められる。
「ハヤシミノル。お前の担当だったって聞いたもんだから。」
「ああ、報告書見たよ。心臓発作だろ?」
「…ちょっと話があるんだ。あとで喫煙室、これるか?」
その後喫煙室に現れた野口の表情にはいつもの笑みは無かった。
「話ってなんだよ。」
先ほど野口が言い当てたとおり、津田はここ三日間まともに寝れていない。眠りに就くと決まって見るようになった妙な夢のせいだった。
そのせいか声は常に不機嫌のような低さだし、目の下の隈もたった三日間不眠というだけでは説明の付かないほど深い色をしていた。
「ハヤシの件だけどさ。死因と関係ないから報告書に上げなくて良いって言われたんだが、ちょっと妙な点が一つあって。」
「妙な点?」
火をつけた煙草を啣えることも忘れて指に挟んだまま、意外な野口の発言に津田は心を奪われたようだった。
「うん。ハヤシの遺体を調べるときにさ、腹と胸に掛けて、掻き毟ったような爪痕が大量にあってさ。それが血が出るくらい掻き毟ってあんのよ。それで、腹の中覗いてみたら、胃の中から大量に鳥の羽が出てきたんだよ。」
津田は薄ら寒いものを感じずには居られなかった。
「真っ黒のさ。たぶんカラスかなんかの。直接死因には関係ないって言われたんだけど、変だろ?ハヤシがいくら浮浪者だったとしても、鳥を丸ごと生で食ってた訳でもあるまいしさぁ。」
何か言いにくそうに口ごもる野口を余所に、津田は真っ青になり、煙草を挟んだ指も震え出して、殆ど野口の言葉を取りこぼしているかのように思われた。
野口は手の内に煙草を弄んでいるのを眺めながら話していたのに対し、津田が何とも言わないのでちらと津田を見てみると、真っ青になりぶるぶると震え、今にも卒倒するのではないかと心配になるほどだった。
「おい、津田。大丈夫か?真っ青だぞ。」
「…誰が言った?」
「え?」
「死因に直接関係ないって、誰が言った?」
心配して肩をさする野口になど目もくれず、震える唇で、高熱にうなされるような問いかけを呟く津田に、野口は益々表情に困惑の色を滲ませて今一度津田の姿を頭から爪先までを観察した。
これは野口の検屍官たる一種の癖のようなものだった。
無論、野口が目にするのは生きた被害者よりも死んだ被害者の方が圧倒的に多いわけだが。
「誰って。笹岡さんだよ。当たり前だろ?」
「大体前ハヤシの事件取り扱ってたのも笹岡さんだし、今回職質でハヤシ引っ張ってきたのも、今回ハヤシの死に際に駆けつけたのだって笹岡さんだって話じゃんかよ。」
野口は「こいつ、自分の上司もわかんなくなっちまうくらい寝てないのかしら」と半ば哀れみにも似た感情で彼を見つめていた。
上司の名を耳にした途端、隈の深く、寝不足で充血の目立つ津田の目玉がこれ以上ないくらいに見開かれた。
「え?笹岡さんが?」
「は?だからお前と笹岡さんで組んで取り調べしてたんだろ?お前、少し休んだ方がいいぞ。」
津田は益々顔色が紙のように白くなっていった。
笹岡とは津田が何度も違和感を訴えても笑って取り合わなかったあの上司である。
津田が過去関与した捜査官の名を聞いても退職したとか関係ないと一蹴したあの上司である。
もう指に挟んだ煙草は灰皿の上に取りこぼしていた。
「あ、お、おい。ちょっと。何処行くんだよお前!」
背後で狼狽する野口の制止にも構わず津田は喫煙室を飛び出していた。
がちがちと歯の根があわず噛みしめた筈の奥歯がずっと鳴っていた。
津田はここ三日間毎晩見たある夢を思い出していた。
思い出すと言うより、脳味噌にべったりこびりついて離れない夢だ。
どこか分からない森。そこで津田は誰の目線かも分からない目線から、森の中で立ち尽くすある人物を眺めていた。
そのある人物はあと二年で定年退職を迎えようかという白髪交じりで厳格な表情をしたスーツ姿の男だった。
津田はそれをすぐに自分の上司である笹岡だと気づいた。
笹岡は暫く何かを考えるようにして、森の中一人で突っ立っていたが、やがて口を開いて誰かと大声で会話をしているようだったが、会話は聞こえなかった。
笹岡は辺りをぐるぐると見渡して問いかけた人物からの返答を待っているようだったが、不意に喉や腹をかきむしって苦しみ始める。
長い事苦しんで、腐葉土の中へと仰向けに倒れ込み、やがて事切れたようだった。
腹や胸は無我夢中で掻き毟ったのか、しっかりと着込まれていたシャツのボタンはいくつも弾け飛んでシャツが左右に開き、胸元もネクタイの結び目が引き解され開く胸元。シャツが乱れて開いたその中に、真っ赤な彼岸花の花弁のような爪痕が所々血が滲んで夥しく刻まれているのが見える。
だが、それで終わりではない。目を見開いたまま横を向きぴくりとも動かなかった笹岡が、ぴくりと動いたのだ。
まだ生きているのかと目を凝らしてみていると、違う。
笹岡の腹が、独りでに動いている。
笹岡の腹の中で、何かがうごうごと腹の中で蠢いているように、腹に刻まれた無数のひっかき傷が蠕動しているのが分かった。
まるで妊婦の腹を蹴る胎児のようだが、笹岡の腹は少しも膨らんでいない。
ただ笹岡の腹の中で、小さな何かがうぞうぞと上へ行ったり下へ行ったりしているのが分かるのみだったのだが、やがてその物体は、何か鋭い針のようなものを内側から、外へ向けて突き刺してきた。
笹岡の腹が内側から鋭利なものを突きつけられて異様な形に変形する。
人間の皮膚とは意外と伸び縮みするようで、内側からいくら鋭いものをつきだしていても、唯その形に伸びるだけで一向に中身は姿を現さない。
異様な変形に突き出た皮膚には内出血でもしたのだろうか忽ち先端部分が赤黒く染まってきた。
するとその鋭利なものはあきらめたのか、徐々にその尖った部分を腹の内に納めていって、腹の皮膚の変色を除けば笹岡の腹は元通りの形に戻った。
森に本当の静寂が戻る。その瞬間、笹岡の腹を内側から黒光りする鋭利なものが突き破ってきた。
津田にはそれがすぐには何か分からなかったが、直ぐに分かる。
嘴だ。
黒い爪のような嘴が、笹岡の腹を内側から突き破り、今もまだ腹の肉を啄みながら穴を広げようとしている。
「出てくる気だ。」と津田は思った。
嘴は津田の推察通り腹の肉を内側から引き裂き、鳩尾のところにまで穴を広げると、笹岡の腹の中でうぞりとその黒光りする身体を蠢かせる。
大きなカラスだった。
どす黒い血で全体をぬらぬらと光らせるカラスが、笹岡の腹にあった内臓をすべて食べ尽くし、内側から腹を食い破って出てきたのだ。
まるで卵から生まれるように。
そんな夢を、津田はここ三日間立て続けに見ていた。
野口からカラスの羽の話を聞いたときにあの夢に説明が付いた。
笹岡は何か知っているに違いなかった。
なぜだか夢の通りになるのではないだろうかという馬鹿げた予感が頭から拭えなかった。
なぜ笹岡はハヤシを見つけた?
そしてなぜそれを俺に隠匿していたのか?
それに、なぜ野口にカラスの羽の件を報告書に書かせなかった?
笹岡は決して怠惰な人間ではない。真面目に勤続して、出世の話もあったのに自分は現場が好きだから、と死ぬまで現役で居ようとしていた熱意のある優秀な捜査官だ。
己が知る限り笹岡が自分のためにそんなつまらない情報操作をやってのけるはずがないと津田は信じていた。
笹岡捜査官は何を知っていたのか。
それを知るためにはあの森へ赴くしかないと思った。
腕時計で時刻を確認したら、まだ昼下がりの16時前だった。
夢で見たあの森とは半年前に腐乱死体が見つかった森で間違いはないと思っていたし、笹岡もそこにいるだろうと思っていた。
「あの山なら、往復しても三時間かからない筈だ。」
とにかく笹岡を見つけられたなら、それで良いと思っていた。
車で飛ばして山までの道のりを二十分ほど走った。
向かう森ではがあがあとカラスが渦を巻くようにして空を飛び回り、津田の到着を待ち望んでいるようだった。
警鐘を。
警告を。
そう願い続けた私は、やがて人の輪に加わる術を得た。
愛しい人間に声を届ける機会を得た。
私は必死に人間へ声を掛けて廻った。
何処へでも直ぐに移動が出来るように、私は翼を得た。
何人かの人間は、私の呼び掛けに応えた。
だが、その人間たちに、私の声に従うものは一人としていなかった。
「輪には戻らない。」
「此処にいたい。」
「知ったことか。」
「ここから離れたくない。」
どれもこれも私を拒絶するものばかりだった。
人よ。
なぜ私を嫌う。
私はこれほど人というものを愛しているのに。
腐り掛けの輪を救わんと駆けずり回っているというのに。
人よ。
お前達が戻らなければ私の愛した輪が腐り落ちてしまう。
見ろ、今にも朽ちてしまいそうな哀れな自然達を。
人の造る毒に冒されて腐る命を。
見ろ。
見ろ。
人の繁栄と共に腐り朽ちていく他の命達を。
他の命を押しつぶすほど命は繁栄してはいけないのだ。
なぜ増えてしまう。人よ。
なぜ、他の命を食い荒らす。人よ。
なぜ、私に愛しい人間を殺すことなど出来ようか。
なぜ、私に他の腐りゆく命を見捨てることなど出来ようか。
なぜ。
なぜ、
森へ還ろう。
妙な声が聞こえ始めたのは森に踏み入ってからだった。
それからずっと脳味噌の縁でその声は膨張を繰り返している。
「はあッ、はあッ…やめろ、くるな!」
もつれる足をぬかるんだ腐葉土から必死に引っこ抜き、半ば這いずるようにして走り、逃げる。口の中で呟く言葉は念仏のようにぜえぜえと切れ切れの呼吸の中でも絶えず繰り返されて、祈るように途切れることはなかった。
その声は慈愛に満ちていた。
その声は失望に満ちていた。
その声は世界への愛に満ちていた。
彼らは、自分たちを過信しすぎていたのだと、その声を聞いて気づいた。
彼らは今まで「そいつに対する対策」を何もしてこなかった。
だからこそ、今、「そいつ」は「彼ら」に牙を剥く。
警鐘を。警鐘を。
警告を。
この世界を破滅に導く人間たちへ。
他の命を腐らせ、やがてはこの世界の自然までも腐らせる人間へ。
警告は決して人間には向いていなかった。
警告とは即ち、「世界」から「世界」への警告。
この世界が世界を保ち、平穏に回り続けるための警告。
世界は常に輪を如何に乱さず廻るか考える。
そして、その輪を乱すものを考える。
何千年も前から「輪を乱すもの」を駆除することでこの世界は続いてきた。
だが何千年も時を重ねる内に、「世界は自分が世界であることを忘れてしまっていた。」
自分が世界そのものであることを忘れ、世界を愛し、そこに生まれた人間を愛した。
だからこそ、対処が遅れた。
無尽蔵に数を増やし、他の命を蝕み、水を汚し空気を腐らせ、だがその過酷な環境の中でも生きていける術を見つけて数を増やし続ける為だけに生きている人間。
世界は、人間を愛してしまったが故に、人間の本質を見ようとしなかった。
他の生命と同じように、人間を愛してしまった。
そして、腐りゆく命を見た。
枯れ果てる大地を見た。
世界が愛してしまった世界が、腐っていくのを見た。
だが、それでも世界は人間を愛した。
世界は翼を持つ命へと姿を変え、人間の側に生きて人間を知ろうとした。
人間の醜さも、美しさも全てを知った。全てを見た。
だが、幾ら世界が人間を愛したとて、世界としての責務は捨てられぬ。
「世界を滞りなく廻す。」
どの生命も捨てず、腐らせず、世界を健康に循環させる。
何千年と続けてきたことだ。
世界は考えた。「世界を循環させる上で不要となってしまった人間を愛する方法」を。
「人間の循環」である。
まず、世界は人間によって大半を失ってしまった木々を取り戻そうと考えた。
木々によって汚れた空気と水を浄化し、豊かな土を肥やす。
それには、実を食んで様々な場所へと種を運ぶ鳥が必要だった。
遠くまで羽ばたいて種を運び、遠くまで種を蒔く鳥。
沢山必要だ。
世界はそう考えたのだ。
「沢山いる人間が、鳥だったのならば。」と。
世界の循環に不必要になってしまった哀れな人間たちよ、輪に戻れ。
人よ、今一度その醜い姿を捨て、美しい本来の姿に。
「命を尊び、命のために命を絶やす存在に。」
かつて世界は「命の為に命が存在していた。」
人間たちよ、私の声が聞こえるか。
聞こえるならば、何処までも羽ばたいてゆき、この世界に必要なものを取り戻そう。
間違えてしまった愛しい人間たちよ、新たな卵から、また始めよう。世界の健康な循環を。
まずは、生命のはじまりたる樹から、繁栄の始まりたる森から、全てをやり直そう。
某所、某日未明。
森にて三体の腐乱した死体が発見される。
三人の格好も職業も、年齢もバラバラで、二体は遺体の所持品から捜査官と判明され、そして一体は身分証の類を身につけておらず、身元が判明するまでに時間を要すると判断された。
二体の捜査官と、身元不明の遺体に接点は今のところ発見されていない。
だが、三体の遺体を関連づける特徴はいくつかあった。
三体とも死亡時期すら推定できないほど酷く腐乱が進んでおり、外見の特徴だけでは個人を特定できないと言うこと。
三体とも、死因は不明であるものの、腹に大きな穴が開いており、中の臓物がごっそりとえぐり取られていること。
肋が剥き出すほど腹を大きく切り裂かれていて、腹に収まっていたはずの全ての臓器が持ち去られていた。
それに現場はカラスによって酷く荒らされており、三体の遺体の周りには沢山のカラスの羽が散乱していた。
一人の捜査官はその状況を鑑み、熊やその他の動物の可能性を示唆した。
だが、三人で山に入り、熊やら獣に襲われたのか、誰かが三人を殺し、山に転がしておいたのを獣が食い荒らしたのか、依然として謎のままであった。
「こんだけ獣に食い荒らされてちゃあなあ。」
検屍官は頭を抱えながら苦笑いで現場に横たわる三つの死体をそれぞれ眺め回した。
その三体の死体は不思議な形をしていた。
腹に開いた風穴もそうであったが、三人が三人とも、バラバラなところで息絶えていたのであるが、その全ての遺体の顔は、あるものを見ていた。
大雑把に扇形に並ぶ三体の遺体、その中心部には大きな大木があったのだ。
大人六人が両手を広げて輪になっても一周できるか、と思われるほどに太い幹を持ち、人の胴体ほどの根っこを深々と土に根付かせ、大きく大きく何処までも枝を広く伸ばした、正しく大樹、と言うべき樹だった。
まだ午後17時にもなっていないと言うのに、その樹が空に伸ばした広い枝のせいで、その樹の幹周辺には湿気臭い陰湿な闇を常に落とし込んでいた。
三人の遺体を解剖施設に運ぶ手はずが出来るまで、現場で三体の遺体をあれこれと調べているある検屍官なんぞは、「まるでミステリー小説の一場面みたいだ。」とマスクの奥で顔をしかめるくらいには、その光景は異様であり、不気味だった。
三体とも、それぞれの格好で腐葉土の上に転がっていたが、全員が大樹へと顔を向け、そして見ようによっては全員が大樹に手を伸ばしているように見える。
まるで何かから逃げていたか、大樹に助けでも求めて居るみたいだ。
それぞれの遺体に附いて、遺体を調べている三人か五人の捜査官と検屍官達は沈黙を恐れているかのようにそんな話を絶えず続けた。
その背後の空では、カラス達ががあがあと鳴きながら、空へと羽ばたいているところだった。
やけにカラスの多い森だな、と捜査官が額の汗を拭いながらこぼす。
それに、ここらはやけにじめっとしていて蒸し暑い。
森とは普通涼しいところではないのか。とまた誰かがわざわざ口に出して文句を言っていた。
やがて捜査官達は一度電波の届く麓まで降り、本庁に報告を済ませるために揃って山を下っていった。
取り残されたのは検屍官達だけだったが、もう間もなく遺体を運び出す担架を持った捜査員達が交代にここへ向かっているはずだった。
それまでに出来るだけのサンプルをクーラーボックスに詰めていた。
後は三体の遺体に大量に沸いた蛆を出来るだけ取り除いてこれ以上遺体が損壊しないようにしたりした。
「そろそろ、雨がふりそうだな」いつしか自分の足下に這っていた蛆を手袋のはまった手袋で払いのけながら、検屍官は空を見上げて独り呟く。
他の検屍官は黙々と遺体の様子を調べたり、蛆を取り除いたりしていて、誰もその検屍官の声に応えるものは居なかった。
だがその検屍官もそれを特に気に留めもしなかった。
赤らんでいた空が徐々に闇を落とし始めた空に、少し肌寒さを感じて視線を下ろす。
するとその検屍官からさほど離れていない樹の枝に、一匹のカラスが羽を休めていた。
獣の爪のような嘴を持ち、普段検屍官がゴミ置き場などで見かけるカラスよりも一回り大きいように感じられた。
羽に覆われた体を不思議なほどぬらぬらと黒光りさせていた。まるで何かどす黒い水にでも全身濡れている様だな、とその検屍官は思い、じっとそのカラスを見つめている。
不思議なことに、そのカラスもじっとその検屍官を見つめているようだった。
楕円形の黒い瞳を二度、三度瞬きさせつつ、時折首を傾げるような動きをしつつ、飛び去ることも鳴くこともなくただ検屍官をじっと見つめていた。
何か品定めでもしているかのような目つきで、黒い瞳にマスクをつけた検屍官の顔を映し込んでいた。
「体が濡れているから飛べないのか?」
あまりにカラスが微動だにしないものだから、検屍官はそんなことを思った。
でも、こんな池もないような山奥だというのに、一体何に濡れるというのか。
此処最近雨も降っていない。
だが、カラスは確かに何かに濡れているかのようにてかてかと不自然な艶がある。
検屍官は眉を潜め、屈み込んでいた遺体の側から立ち上がり、足音を立てぬように注意しながら、そのカラスに近付いてもっと良く見てみようとした。
もう手が届きそうなほど接近したというのに、カラスは検屍官をじっと見つめたまま翼を広げる気配さえない。
近付いて羽を良く見れば、確かにカラスの体は全身何かに濡れているらしかった。
「怪我してるのか?」
応えぬ相手だとは分かっていてもそう声を掛けずにはいられなかった。それにここまで近付いてもカラスは可愛らしく検屍官を見つめたまま首を傾げるようにしてじっとしている。
検屍官は少しこのカラスが可愛らしくなってきて、マスクから覗く目元に柔らかい笑みを思わせる皺を刻みながら、カラスに手袋をはめた指先をそっと伸ばしてみる。
先ほどまで蛆を潰していた掌である。
もう少しでカラスの羽に触れようかと思ったときに、検屍官はカラスの尾羽から何か粘っこい液体が絶えずぽたぽたと落ちていることに気付いた。それは一定の間でカラスの全身から尾羽に集まり、大きな水滴として腐葉土の上に落ちて行っているらしかった。
どす黒く、だが水ではなく多少の粘度もある。
検屍官はその液体を良く知っていた。
マスクのせいで気付かなかったのである。
あるいは、背後に遺体があるのでそれのものかと思っていたのかも知れないが、検屍官はその液体の正体に気付いて初めてカラスの異常なほどの血生臭さにも気付く。
はっとして再びカラスを見ようとした時に、また新たな発見をした。
カラスが止まっている樹の枝の向こう側に、倒れている人の足が見えた。
あれは、先ほど山を下っていった捜査官の靴ではないか?
樹の幹の向こうを、覗き込むようにして見ると、矢張りそれは山を下っていった捜査官の一人で、腹には背後の腐乱死体達と同じ様な穴が、まだ剥き出しのあばら骨すら乾かずに開いていた。
まるで卵の殻のように腹から割れた人間。そしてそれを物語るようにしている目の前の、血塗れのカラス。
「あの腹から、まるで生まれたようじゃないか。」
得体の知れない考えが突拍子もなく浮かんでくる恐怖と、心臓も凍るような肌寒さを感じて検屍官はぶるぶると震えていた。
背後ではまだ黙々と他の検屍官が蛆を潰している。
担架を持った捜査官達の気配はまだ現れない。
震える唇で、何とか背後の仲間にこの自体を伝えなければと背後に振り返る検屍官に、誰かが
「からす。」
何処かの誰かが、そう呟いた。




