コントラクト
まるで光の届かない水底に沈まず浮かず漂っているような気分だった。
具体的な感覚が何一つない、嘘みたいに真っ暗で、どこにも手がつかず、息もできない、する必要のない安息と安住の暗闇が優しく俺を包んでいた。
さて、さてさて、俺は死んだのだろうか?
いや、というかそもそもここはどこだろうか?死後の世界というやつか、それとも運悪く。というか確率的には運良くダンジョンの生まれた原因となる次元の狭間にでも落ちたのか…ま、どれにしてもあの天使には悪いことをしてしまったし、一応バックアップとはいえ失敗は失敗だ。多少の罪悪感はある。
そこで俺は暗闇が自らの瞼であるというのに気がついた。
何故か、それは単純だ。
『起きよ凡愚、愚かしくもその力で我が力の一部を打倒せし勇なる愚か者よ、目覚めよ』
あの微睡むような、溶けるような感覚はなく。俺の体を衝撃と痛みと熱が襲っていたからであった。
目を開けたくないが、恐らく開けても開けなくても地獄は地獄だろう。俺は奥歯に仕込んだ精神の水薬その丸薬を噛み砕く。
瞬間的に俺の思考は通常の速度を取り戻し、そして正気に戻った感覚。自分の中で砕けていた何かが修復される様な、そんな感覚が俺の中で巻き起こり、治る。
恐らく。というか確実にあの龍の気配を感じたあたり、あの存在感との出会いをした時点で精神状態チェックを失敗していたのだろう。ジンジンと痛む左半身を辛うじて加護の残る右半身でかばいながら、しかしそれでも足りないので外套を変形させて起き上がり、目を開ける。
『ようやく起きたか、我が力を打ち倒せし龍殺しよ』
その姿は異様だった。
俺は精神の水薬を一つ飲み干し腹に溜まった水の音を聞きながら冷静を保つ。
それは間違いなくこの世の罪、その様な概念の体現でありそのものであった。黒い、それよりも深い暗闇の様な靄を纏い膨大な赤黒い文字列がそれを縁取りあたかも龍である様な形に固定していた。
その中でも目は異様で、まるで燃える炎の様にゆらめいているのにそれが蜥蜴特有の縦長の瞳孔を持ち、今度こそ人睨みで生物を塩どころか塵にでも変えそうな確かな存在感を発していた。
そして言ってしまうのならば、断言してもいいのなら、俺はこれが死んでいるというのをはっきりと感じられる。漂う死臭は彼自身のものであり、黒い揺らめきや赤黒い文字列に混じり見える爛れた肉や骨は彼のものである。
『ふむ…薬頼りか、いや、我が前に立つよりも先に一度死んでいるのか、面白い、どれ、少し直してやろう。』
そう言って彼が何かを高速で呟くと右目の奥が焼けるように熱くなり、同時に今まであった多量の倦怠感や永続的にあった精神的な疲れ、注意力の散漫さというのが消え失せ、俺の体から何かが流れ出し彼の身体の一部へと還って行った。
『もとより貴様が歩いていたのは我の領域、漏れ出し、暴走し、自我を持って貴様を害そうとしても我が命には逆らえんからな』
礼の一つでも言おうと思ったがそれより先に俺の体が膝から崩れる。見れば彼の赤黒い文字列が俺を縛り付けていた。
『さて、では済ませてしまうか…我が契約を授けてやろう。これがこの趣味の悪い空間から我が一部を解放した礼だ。』
そう言って彼が近づいたと思うと、俺の意識は今度こそ暗転した。
『せいぜい生きろ、足搔け、全ては時と巡り合わせの偶然よ…』
目がさめる。
不思議と体の調子は良かった。体の傷は治り、手の甲には3184という字が踊っていた。通常の法則に従えば100階層(暫定)のボスなのでその十倍で1000、つまり入る量は999のはずなのだが、あいにく特殊階層、そもそも本当に百階層なのかどうかも不明なので正確な算出はできない、が、破格であるのは確かだろう。これで帰れれば第六階梯、良くも悪くも見てくれだけは上級探索者に片足突っ込むことになる。
まぁ、それはそれだ。仕方がない、それに悪いことでもないしな…だが、問題なのは手の甲の数字、正確には手首の辺りに三本の筋がある。
皺ではない、というか地味に発光している。なんなのだろうと思い『凝視』すると赤い筋が一つ消えたかと思えば脳に直接情報が流れ込んできた。
「いてぇ…」
ズキズキと痛む頭を抑えつつメシを食う。どうやらあの邪龍の付与して来た異能らしい、ざっくりと整理すると1日に三回、右目を通して三種類の異能のうちに一つを発動させられる複合型の異能らしい、一つは今の様な情報取得、正確にはあの龍の持つ知識の一部を直接使用した知識の借り入れ、もう一つは擬似的な回避、正確には凝視した攻撃を強制的に消し去るか停止させるという物、そして最後の一つが攻撃系、凝視した物や場所を『燃やす』と言うものだ。
使用制限はあれどまったくもって使い勝手のいい異能、加護だ。ありがたくいただくとしよう。
「さぁて…じゃ、攻略再開か…」
食べクズを払い、立ち上がる。本当に不思議なことに肉体的な損傷や疲労はまったくもってない、もしかしなくても丸二日とか寝た可能性があるが、それならばもっと腹が減っているはずで食事量はいつもと変わらなかった。
立ち上がり、龍の死骸、正確には頭が最後まであった場所まで移動する。そして気がつく。俺の鞘に俺の持ち物ではない全く知らない短剣が収まっていることに




