3.その赤いものは誰のもの
みゃあが暴れた。
一回家に帰って昼寝したのがまずかったかな。
半分寝起きだし、さっきの公園で起きた現実が非現実なものになっていく感覚がした。今目の前にあるのが現実だ。
「ひずみくん!ひずみくん、ひずみくんは捨てないよね?みあのこと捨てたりしないよね、ね?」
彼女の瞳の奥に俺は映っているのだろうか、映ってないなんていないんだろうな。
とりあえずみゃあを落ち着かせるためにできる限り優しく抱き締める。さっきナイフで切られた腕が痛む。いつもいつもこんなことばかりで、とんだ貧乏くじを引いた気分だ。
「ごめんね、みゃあちゃんに会うための服考えてたら遅くなっちゃって」
「そんなの」
文句を言われる前に口を塞ぐ、優しく、壊れてしまわないように。
温かな肌や唇に触れると途端に細かいことなんてどうでも良くなってしまうような、そんな感覚に陥る。傷の痛みもなくなっていく。それはとても癖になるもので、より一層俺はみゃあちゃんから離れられなくなる。
「……コーヒーの味がする」
少し落ち着いたらしい。グッジョブ無糖のコーヒー。みゃあちゃんはその味を確かめるように何度も何度もキスをしてくる。
「ひずみくん」
みゃあちゃんの紡ぐ言葉ひとつひとつが艶やかで、ついさっきまでの暴れっぷりが嘘のようだ。
顔を離し目を薄らと開けると、頬を赤く染めたみゃあちゃんの顔と、そのうしろの壁にべったりと付着した赤いそれはすごくミスマッチで笑いが出そうだ。
ああ……五分遅刻しただけでコレか。
あれとれるのか?
「ごめんね、苦かった?」
「ううん、苦いけど。これがひずみくんの味だもの。ねぇ、もっとしてよ」
やるせない気持ちと、どうしようもない嫌悪感が同時にやってきて、心が麻痺していくのが分かる。
みゃあちゃんに求められれば、俺はそれに応える他にないのだから、相手はみゃあちゃんだし、とても心地良いことには変わりない、男の性だとか……そんな言い訳ばかりが浮かびは消えていく。
もう一度彼女に軽く口付けをすると、彼女は満足げに笑い、滑らかな手が俺のシャツの中に侵入してくる。
ああ、駄目だ。
シャンプーの香りに、あざと過ぎるような仕草たち、全部狙ってやってることくらい分かってるのに、止まらなくなりそうだ。
自分の腕がどんどんきつくみゃあちゃんを抱き締めていく、こんなのは間違ってる、間違ってる。
「我慢しなくて、いいんだよ?」
すべてお見通し。
もういいかな、と俺も理性を手放しみゃあちゃんに溺れようとした……けど。
ぴたりと、不自然に手が止まった。
『私はヒズミさんが好きだから』
ほら、お前が好きな俺はこんなにも汚れているんだよ。
昼間俺のことを好きだと言ってきた、小学生を嘲笑う。今の俺を見たらどんな顔をするのだろう。あの綺麗な海色の瞳からポロポロと涙が頬を伝っていくのが安易に想像できる。
……みゃあのように泣くんだろ。お前も。女なんて、そんなもんなんだろ。
それを思ったら、なんだか手の動きが止まってしまった……なんでだろう。
「ひずみくん、どうしたの?早く、ね?」
「……」
気持ち悪い。こんなこと考えてる俺も、目の前で色っぽく笑うみゃあも。
「みあ」
名前を呼べば、彼女はピタリと手を止め、不快そうに顔を歪めた。
「やめて」
名前で呼ばないで。
ギリギリ聞き取れるくらいの小声で、みゃあがそう言ったのが聞こえた。
「なあ、いい加減……」
「歪は何が不満なの?気持ちいいでしょ?みあは今日ひずみくんのモノなのに、歪のクセにみあに文句言うなんて生意気」
「……」
「それに、みあ知ってるよ?今ひずみくんはみあじゃなくて別のこと考えてるでしょ?なんでみあを独占できてるのに、他のことなんて考えるの?」
「……それは」
思わずみゃあから目を逸らす。
コイツは人一倍他人の感情や表情に敏感で、何でも言い当ててしまう。
「他の女のことでも考えてた?」
「ちがう」
「でしょうね、歪は私のモノなんだから私のことだけ考えてればいいの。余計なことは考えなくていいんだよ?分かってるよね?」
「うん、分かってる。俺はみゃあちゃんが一番大切で好きだよ」
女、ではないな……あれは。女児とか幼女って感じ。
一番大切で好きだよなんて言葉、何百回言ってきたのだろう。その言葉に嘘偽りなんてないはずだ、昔から相も変わらずみゃあのことが本当に好きだ。好きじゃなきゃいけない。みゃあちゃんのことが好きなのが当たり前で、それ以外の感情なんてないに等しいのだから。その感情が失われれば俺は生きていけない。
好きだなんて言葉は大嫌いなはずなのに、口に出すのも本当は嫌なはずなのに。
みゃあちゃんは俺の答えに満足したようで、嬉しそうに笑う。ひまわりのような、笑顔……昔からその顔が一番好きだった。
今でも持ち歩いてるみゃあの中学卒業写真はこの笑顔だった、だけどなんでだろうな、全然違うものに思える。
「私もひずみくん大好き」
本当に?
そんな言葉、絶対に信じない。また明日違う男に同じ言葉を言うんだろ、分かってるよ。
俺が愛川みあを見ないのと同じ様に、みあも俺を見ようとしない。
俺はみゃあとみゃあちゃんしか見ないし、みあはひずみくんと歪しか見ていないのだ。
今更この関係にどう終止符を打てばいいのか、分からない。
嬉しいよと心にもない言葉を言う、みゃあはその言葉の裏に気付かないフリをする。
このままこうしていても仕方ない。
上っ面だけの穏やかな時間が流れてるし、さてそれではお楽しみと行こうか、と思った時、それはすぐに携帯から流れる軽快な音楽で壊された。
「あっ!」
みゃあちゃんはこれでもかと言うほど顔を輝かせて携帯を見る。彼女の予想は当たったらしくウキウキを隠しきれない表情で電話に出た。
スピーカーになっているようで俺に丸聞こえ。
「葉月!」
『そんな大きな声出さなくても聞こえてるよー』
「どうしたの?バイト終わったっ?」
『うん、終わった。これからみあの家行くね。私が来るまでちゃんと良い子にしててね』
「うん!」
葉月、俺とみゃあちゃんが所属している暇つぶし同好会の副部長。みゃあちゃん以外の唯一の女の子そして。
みあの唯一の友達。
俺たち同好会の男部員は誰ひとり葉月には敵わない、みゃあちゃんの優先順位の頂点には葉月がいる。葉月から連絡が来ようものなら用無しと言わんばかりに男を邪険に扱ってくる。そういうところがまたイイ、という奴も少なからずいるんだが。
キラキラな笑顔、決して俺には向けることのない顔、 悔しい。苦しい、見ていられなくて目を逸らす。
『あ、確か今日かげのくんいるんだよね?ケーキでも買っていこうか?』
「大丈夫、ひずみくんはちょうど帰るとこだったから、ね?」
「……そうだな」
ひっでえ仕打ち。
抵抗しても無駄だから何も言わないけど。
みゃあが葉月と話している間に、乱れている服を整え、立ち上がり思わず背けたくなるような壁に付着しているそれのそばにいく。
みゃあが暴れている間に用意しておいた濡れぞうきんで丁寧に拭き取っていく……くそ、とれねー。血の跡ってどうしてこうも取れないのか。
「ひずみくん、今日はありがとう」
通話が終わったのか、みゃあちゃんは俺に向けてお礼を言ってきた。
それを言うってことは暗に帰れと言われている。
今日は厄日だな、何一ついい事がない。
小学生に告白され、みゃあが暴れ、傷つけられ、終いには暴れたあとの後始末。
「片付けはもうそのくらいでいいよ、後はみあがやるから」
「そう?じゃあ帰るね」
「うん!また明日、大学でねーおつかれ」
楽しみを葉月に邪魔された、とイラつく自分もいるが、それとは反対にこんなところにいなくていい、という安堵感も生まれる。
本当、人間の感情って複雑……嫌になるな。
時計を見るともう0時をまわろうとしていた。帰ってすぐ寝るか。酒飲みてーな、寝酒するか。
そんなことを考えながら俺はみゃあちゃんの家をあとにした。
今日はみゃあと何もしてないし、清らか、全然清らかではないけど、この体ならあの小学生に会っても大丈夫だろうか。
心のどこかで、あの小学生にもう一度くらいなら会ってもいいという許しをほしがっていた。なんだかんだ言って嬉しかったのかもしれない……ちゃんと、俺を見て話してくれる人間は久しぶりだったから。
とりあえず今は、ガーゼと包帯で応急処置した腕が痛い。