解夢 -ほどけるゆめ- ②
読書にも飽きて体を伸ばそうと庭に出た希沙良は、屋敷の周りをぐるりと歩いてみることにした。
外から見える廊下のそこらに昼寝する鈴鳴の姿がある。一日の大半を寝て過ごす習性のあるらしい彼らが、食事にありつく時やいたずらをして逃げる時以外に機敏に動いているところはあまり見たことがない。
途中、蓮の池を見つけてほとりでしゃがみこんだ。時季になれば素晴らしい眺めとなるだろう。
(魚は……いないのかしら)
水面をしげしげと覗き込み、背後に立つ影に気付く。見覚えのない姿に振り返ると、いつの間に現れたのだろう、墨染めの衣に身を包む少年がいた。
「こんにちは」
「……こんにちは」
親しげともとれる明るい声に、しかし固い声で返す。
墨色の羽織と同じ漆黒の髪の下、冷たく鋭い薄い紫の瞳が光る。人懐っこくも見える容貌に、一切の笑みはない。
「手を貸してもらいたいんだ」
「え?」
「助けてほしい」
「どういうこと?」
眉根を寄せて向き直った希沙良を見て、少年は初めて笑みのようなものを見せた。満足げな猫のようだ。
「僕の仲間が、人間しか入れない場所に落ちてしまったんだ」
(この人、人間じゃないのね……?)
芳雪も紫葵も、希沙良には人間と見分けがつかない。この少年もあやかしなのだ。
「紫葵はいないのかな」
「寝ているわ……知り合いなの?」
「うん。昔馴染みというやつかな。寝てるなら、まぁいいか。一緒に来てもらえる?」
「いいけど――」
誰かに言ってこないと、と言う前に、少年に腕を掴まれていた。辺りが真っ暗になった――いや、蝋燭が並んでいる。
「幽道……」
「うん、そうだよ。近道だから」
事もなげに少年は頷く。蝋燭ということは、桜居の領地から出てしまっているのだ。不安がじわりと絡みついた。
それを見透かしたように、少年は首を傾げて唇の端を上げる。
「大丈夫。すぐに戻れるよ。さぁ、行こうか」
「ええ……」
それなら、と希沙良は少年に近づく。少年ははっきりと微笑んだ。
「僕は墨襲。よろしくね、希沙良」
(名乗ってない……のに)
あやかしは名前を当てる力でもあるのだろうか。
「すみがさね、ね。仲良くなれたら嬉しいわ」
名を繰り返した希沙良を見て、墨襲は目を細める。刃のような薄紫の瞳が酷薄そうに光った。
幽道を歩きながら、微かに視界が動くのを感じて目を上げる。ただの暗闇と思っていた空間がゆらりと大きく揺れる。魚のような巨大な影が浮き上がり、すぐに奥へと消えていった。
(生き物……?)
「希沙良。よそ見して道を踏み外さないようにね」
「落ちると、どうなるの?」
「さぁ、人間は戻って来られないんじゃないかな」
「…………」
明日の天気は晴れじゃないかな、というくらい軽い調子で墨襲が言う。希沙良は墨襲との距離を詰めて、後をついていく。
「紫葵はどう?」
「具合が悪いようなの。あやかしにも、病があるの?」
「…………」
振り返った墨襲の表情は、すっかり抜け落ちていた。冷ややかな瞳にたじろぐ。
「本当に何も知らないんだねぇ、君は」
「墨襲……?」
「――まぁ仕方ないか。紫葵はどうせ君を甘やかしているんだろうし。さ、行くよ」
「え、ええ」
墨襲は唐突に興味を失ったようにふいっと前を向くと、その後は何も言わずに歩いていく。
(わたしに、怒ったのよね……紫葵の体調の悪さは、わたしのせい……?)
墨襲を問いただしたかったけれど、その横顔は少しも希沙良を見ることもなく、答えてくれそうにもなかった。
(紫葵、大丈夫かしら)
離れたことが不意に不安になり、立ち止まりかけた時、墨襲が振り返った。
「着いたよ」
その言葉と同時に辺りが急に明るくなり、思わず目を閉じる。しばらくして光に目が慣れてくると、そこは夕焼けの中だった。
人気のないだだっ広い野原、奥には森が広がっている。赤い夕陽に染められた風景は、美しいはずなのになぜだか不気味に見えた。
「どこに行けばいいの?」
「あの森の中だよ」
あやかしは入れない場所、とのことなので、当然ながら墨襲は一緒に来る様子はない。仕方なく一人で森へと歩き始めた希沙良の内心は、急いていた。
早く戻らなければ。紫葵が気になる。
そうして、気を取られていたせいだろうか。
「――あっ」
短く悲鳴をあげた次の瞬間、腰をしたたか打って今度は声も上げられない。突然足元が消えたように感じたけれど、草に隠れていた段差を見逃しただけだ。錯覚で地続きのように見えていた場所は、案外広く穴のようになっている。底まで落ちてしまった希沙良が、立ち上がって手を伸ばしても地面はなお上だ。
「墨襲……」
呼んだ声は心を映したようにか細い。咳払いをしてみたら、ひょいと上から墨襲が顔を覗かせた。ほっとして助けを乞おうとしたけれど、声を出すことも手を伸ばすことも出来なかった。
墨襲の目が、また冷たく沈んでいた。
「間抜けで助かるけど、心配なくらい馬鹿な子だね」
「……騙した、のね」
「気付かないお前が悪いんだよ。紫葵の知り合いだって言ったから、信用しちゃったの?」
「紫葵の友達ではないの?」
すぅっと目を細めた墨襲は、瞳を刃物のように光らせて侮蔑の表情を浮かべた。先ほどまで表面にあった友好的な顔はかけらも残っていない。
「――お前には関係ない。すぐ死ぬようなか弱い人間が、気まぐれで僕らに係わらないでよ」
「わたしは、」
「しばらくそこにいなよ。自分の行動を悔いることだね」
吐き捨てるように言うと、墨襲は踵を返して消えてしまった。風の音もない野原に、ただ一人ぽつんと残される。
「わたしの行動……?」
初めて会ったあやかしである墨襲にのこのこついてきてしまったことか。
それとも、過去の自分の行動なのか――。
「わたし、何を忘れているの……どうして」
何かが引っかかる。
しかし、その何かは、一向に浮かび上がっては来なかった。
膝を抱えて俯く。思い出そうとしても、頭の奥に靄がかかっているようだった。
「駄目……」
小さく呟いて顔を上げて、驚いて立ち上がった。
どれくらい座り込んでいたのか、随分経ったように感じる。だというのに、見上げた空は変わらず黄金色をしている。
「なぜ……? 時間が経っていないの?」
ここはあやかしの領地だ。これではますます、脱出することは難しい。
「どうしよう……」
一瞬、脳裏に夕闇色の髪の青年が映る。
――何かあったら僕を呼んで
青白い顔。彼を呼ぶことなど、できない。