帰処 -かえるところ- ⑤
誰かが、髪を撫でていた。
やさしく、やさしく、何度も。
いたわるように、慈しむように。
白い、腕。
「腕が……?」
はっと覚醒して身を起こすと、見知らぬ褥の中だった。微かに向こうが透ける白い帳が垂れた帳台は、柱には細かな彫刻が施され、見目も美しいものだ。
傍らに誰かがいたような気がしたけれど、室内には希沙良しかいない。何度も髪を撫でる白い腕の夢を見ていた。そう、肘から先だけの。
「…………」
怪談話にならないのは、その手がひどく優しかったからだ。
「変な夢……」
帳を押しのけて帳台を出て朝日が透ける障子を開けると、庭に面した廊下だった。当然のことながら、木の格子など嵌っていない。
(……わたし、どうなるのかしら……)
逃げようと思えば、このまま外へ飛び出していける――また屋敷内に転がされるかもしれないが。何らかの縁を結ぶ儀式らしきもの、嫁取りの迎えだというのならば婚姻の儀式を経たけれど、肝心の伴侶の姿はない。
さらには式の最中に飲んだ酒で、翌朝まで寝入ってしまう嫁というのもいかがなものか。
(どうすればいいのか、わからない……)
美しく整えられた庭の砂の海に目を落としたまま、希沙良は低く唸った。
(結局、何かに化かされているのかしら……?)
そのまま地蔵の如く固まってしまいそうだった希沙良の腕を、見えない何かが引いた。
「え?」
一瞬、また転がされるのかと身構えたが、ただ呼ぶように何度か袖を引くだけだ。おそらく、席まで導いてくれた、優しい何かの方だ。
「おはよう。ごめんなさいね、わたし、いつの間にか寝てしまって」
自分でも思いがけないほど穏やかな声で答えていた。見えない何かは少し間を置いてから、室内の方へと引っ張っていく。
「今度は何?」
戸惑う希沙良の背を、別の何かが押す。こちらも転がす意思を感じない、労わるような押し方だ。歩いていく希沙良の前で襖が開いて、続きの間に用意された朝食の膳が目に入った。希沙良が席につくと、少しして襖が閉まって、周囲は静まり返った。
昨夜は勢いのまま酒の盃を乾してしまったが、落ち着いて対峙すると、また食べていいものか悩んでしまう。
(本当はここがあばら家で、泥でも食べさせられているとか……?)
幻覚ではないだろうかと、不作法ながら顔を近づけて匂いを嗅ぐ。出汁の好い匂い。唐突に空腹を感じた。
(もう、今さらよね)
思い切って里芋の煮物を口に含む。
「美味しい」
それにしても、これでは歓待されているだけではないか。たらふく食べさせて太らせてから食べるとでもいうのか。確かに希沙良は痩せっぽちで食いでがないだろうけれど。そもそも、彼らの目的がまだ分からない。
しばらく料理を堪能し、ふと箸を止める。そういえば、他の誰かが作ったものを食べるのは久しぶりのことだ。それから、顔を上げて広い室内を見回した。
「……こんなに広いのだもの、誰かがいたって、いいのに……」
ここのところ、食事と言えば大体芳雪が一緒だった。
「そうね、ひとりって、こんなだった――」
ぽつりとこぼれた声は、誰にも届かずに消えた。
どれだけ時間が経っても、屋敷にいる何かは姿を現さない。このまま放置されるのは、なんとも居心地が悪い。
退屈になった希沙良は掃除道具を見つけてきて、そこら中を掃除することにした。真田の屋敷での退屈しのぎといえば、読書か掃除だった。何度か袖を引かれて妨害を受けたけれど、やることがないのだから仕方ない。
(わたしに掃除をさせたくないみたいね。まぁ、自分達の居場所で勝手をされるのは嫌なのはわかるけど……)
そのうち観念したのか、希沙良を止めるものはいなくなった。
「これでよし――と……?」
廊下の雑巾がけを終えて何となく振り返って、きょとんとする。ぴかぴかに磨き上げたはずの床が、点々と汚れている。近づいてみれば、小さな動物の足跡のようだった。
「何で……猫でもいるの?」
それにしても、何の気配もしなかった。
「仕方ないわね」
溜め息交じりに呟いて、汚れた廊下をもう一度拭く。
どうにかして希沙良の掃除をやめさせようと奮起する見えざる住人達は、あの手この手を使ってきたが、むしろ希沙良の手間を増やすだけに終わった。
最終的には希沙良の勤勉ぶりが勝った。
「今度こそ終わり!」
高らかに宣言すると掃除道具を片付けて、掃除しながら散策した屋敷内の、とある場所へ向かう。住人の聖域でもある台所である。調理器具がきちんと揃えて置かれていて、管理者の几帳面さが窺えた。それだけに勝手に借りるのは気が引けるが。
「ちょっと、貸してね」
夜の宴席であれだけ感じた何かの気配も、昼間は希薄であり、今ここにいるのかいないのかよくわからなかったが、一応声はかける。
一人でいる時はあまり嗜好品を食さなかった希沙良だけれど、芳雪と過ごすようになってからおやつの時間が加わった。短い期間だったはずなのに、その習慣が定着してしまっていた。芳雪が好んだのは蒸し菓子に黒蜜ときな粉を添えたものだった。
(そんなに手間じゃないし、一度に数を作れるし――)
よくわからない住人達にも分けられるはずだ。けれどそれも、少し後に裏切られることとなった。
そろそろ冷めたかと台所に戻って、ぽかんと立ち尽くす。あるはずのものはなく、台の上で黒蜜ときな粉が散らばっていた。
「…………」
からっぽになった蒸し器を持ち上げて見つめて、希沙良は唇を引き結んだ。心中に浮かんだ感情は、言葉に出来ない。
その翌日以降も、何を作ろうと希沙良が目を離した隙に全てが消えてしまった。ふつふつと、言葉が形成されていく。
それがついに爆発するのも、そう時間のかかることではなかった。
「――よし、出来た。部屋を片付けてこようかしら」
やけにはっきりと宣言して、希沙良は台所を出る。
それから、部屋に行ったはずの希沙良が、そうっと壁の陰から顔を覗かせる。台の上にいた幼い子供ほどの大きさの何かが、希沙良を見てぎょっとして物陰に散っていく。希沙良に背を向けて、まだ気づいていない一匹だけが、夢中で皿の上のあられを拾って食べている。
「捕まえたわよ」
背後から抱きかかえて、にぃにぃと子猫のような声で鳴く生き物を見下ろす。見た目は猫のようだが、二足歩行が可能のようで大きな栗鼠といった風体だ。
「貴方達が、犯人ね。出て来なさい! さもないと、この子を酷い目にあわせるわよ!」
希沙良が声を張り上げると、先ほど逃げていった他の生き物も戻って来て、にぃにぃ鳴きながら希沙良の足に取り付いた。
「他にもいるでしょう!」
室内を見回しながら怒鳴れば、ゆらりと空間が揺れて、全く同じ見た目をした三人の女が現れ、畏まって頭を垂れる。長い黒髪を異国風に結って、透ける緩やかな領巾が揺れている。目尻に鮮やかな紅が引かれ、額には花のような紋様が描かれていた。
一番端に立つ女の袖を掴んで、半ば隠れるように赤い着物の幼い子供が顔を覗かせていて、もう片方の手には様々な色彩が模様を描く鞠を抱えている。
「嫌がらせばっかり、何のつもりなの? いい加減、わたしをどうするのかはっきりさせてちょうだい」
現れた一同を順に見ても、誰もが困ったように俯くばかり。
「全員出て来なさい。今すぐ、ここに!」
びしっと斜め下に向けて指を差した後、床の上が水面のように揺れた。希沙良の目がそれを捉えると、水中に墨汁を垂らしたように黒い線がじわじわと淡く――濃く滲み出て、形作っていく。
ぞわりと、した。これまでに姿を現した者達とは、何かが違う。腕から猫のような生き物が逃げるのにも意識が向かず、体を強張らせたまま見つめる。
やがてそこに姿を現したのは、紫紺の髪の青年だった。濃い紫の瞳は、申し訳なさげに細められている。いつか前庭に立っていた青年だ。近くで見ても恐ろしいまでの美貌だったが、怒りに燃える希沙良の前には効果もない。青年は姿勢よく正座して希沙良を見上げた。
「ごめん、希沙良……怒らせるつもりはなかったんだ」
涼やかに響く声が、悲しげにこぼれた。
「こんなところで放っておかれて、わたしはどうしたらいいのよ……」
感情のままに放った声は、自分で困惑するくらい弱々しく、情けなかった。とたん、怒りが萎んでいく。
真田の屋敷で一人だったこと、ここでも一人になったこと。本当は、泣きわめいて全てを吐き出してしまいたかった。けれど、希沙良は自分にそれを許せない。他の誰かに曝け出すことは、許されない。
「わたしがどこに行っても歓迎されていないということは……わかっているわ」
「それは違う! 僕らは――」
「いいのよ、別に」
希沙良は溜め息交じりに言って、青年の悲鳴のような声を遮った。視線を逸らして身を翻すと、台所を出ていく。青年が動くのを感じて、希沙良は振り返った。
「ついてこないで」
一瞬目があった青年は、ひどく悲しげな瞳をして何かを言おうとしていた。けれど、今の希沙良に何を聞くつもりもない。背中を向けてはっきりと拒む。
廊下を進み、玄関に降りると、一瞬躊躇ったけれど外に出た。門まで辿り着いても、止められることはなかった。
(何だ、もっと早くこうしていればよかったのね)
希沙良はどこか落胆して、歩調はゆっくりと、見知らぬ土地を歩く。屋敷の周りは森が広がり、他の誰かの気配はない。
屋敷から離れれば、いくつもの住宅が連なって街が広がっていた。人間の家、だろうか。ここは彼らあやかしの暮らす世界ではないらしい。
(たくさんの人が、暮らしている……)
希沙良は日が暮れるまで、あてもなく歩いた。そうして辿り着いたのは、町が見下ろせる高台にある広場だった。街にはぽつぽつと明かりが灯っていた。そこに、他の誰かがいるのだ。希沙良にはない、家族というものが、光の中にある。
「わたし……歓迎されたかった、のね」
ぽつりと、こぼれたのはあまりにも虚ろな声だった。
牢獄から出ても、何も変わらないと思う一方で、何かが変わってほしい、変わるに違いないと願っていた。
ここから出られるのなら何でもいいと言いながら、別の居場所を願っていた。
表面上を諦めて、心の底では捨てきれていなかったのだ。
あれはいつだったろう、まだ、諦めたふりをする前のこと。
希沙良の家を訪れた女中が鍵をかけそこねたことに気づき、希沙良は初めて外に出た。
竹林を抜けて歩いていくうちに、山に入り、どこから来たのかわからなくなった。歩き疲れて大きな木に寄りかかって座り込んだ。激しい雨になり、夜になった。山の中になど、人が入って来ることはない。どれくらいそこにいただろうか。真田の屋敷の者が希沙良を連れ帰った時、朦朧とする意識の中で男の声を聞いた。
――見つけたか、放っておいてもそう簡単に死ぬものでもないと言っただろう
――家に入れておけ
――姿を見られるような醜態を晒していなければ、どうでもよい
希沙良は、生きていても死んでいてもどちらでもよかったのだ。誰かの目につかず、牢獄の中で知らぬ間に死んでいてくれることが、あの男の、父の願い。
あやかしなどという異界の存在が身柄を求めたことは、父にとって都合の良いことでもあったはずだ。
父が見せた異常な態度――希沙良やあやかしを化け物と呼び忌み嫌う彼は、過去に何かあったのではないか。ふと思ってもみたが、二度と会うこともないだろう今になっては、詮無きことか。
そのうち希沙良は願いも奥底へ隠し、何でもない顔をして生きるようになった。ただ、からっぽになったふりをした。
そんな日々に飛び込んで来た芳雪は、希沙良の願いを引き出してしまった。一緒にいてくれる誰かの存在を、願ってしまった。
「傍に、いてほしかったの。必要と、してほしかったんだわ……存在を消されて、本当に消えてしまうのを待つばかりではなく……わたしを――」
「君が、必要だよ」
突然、背後で青年の声がした。
「ついてこないでって言ったじゃない」
振り返りもせずに涙声で怒る希沙良に、青年は繰り返す。
「君が必要なんだ。僕と……僕達と、一緒にいてほしい」
「姿も見せなかったくせに」
「それは、受け入れてもらえるか……怖かったから」
「…………」
希沙良が振り返ると、青年は途方に暮れたような顔で佇んでいた。
希沙良と目が合って、青年は慌てたように首を振った。
「その、いきなり連れて来たことは、本当にごめん。まさか彼らが勝手にこんなことをするなんて思っていなかったんだ」
「貴方が、主なの?」
「あの屋敷を預かる身ではあるよ」
「……姿を隠していたら、こっちが怖いわよ」
「そうだね、ごめん」
青年は困ったように笑って、頬を指先で掻いた。
外で見るとますます異質な美貌を持っているというのに、仕草がやけに可愛らしい。話して動いている姿は親しみが湧くから不思議だ。
それから、真摯な瞳を希沙良へと向ける。
「僕らは君を歓迎する」
「……貴方、名前は?」
少し拗ねたような顔で聞く希沙良をきょとんとして見つめ、青年は目を細めて笑った。何かを懐かしむように。
「……紫葵だよ」
「綺麗な名前ね」
紫葵は手を差し出し、希沙良を見つめた。
「一緒に、帰ってくれるかい? 希沙良」
「いいわ」
紫葵の手を取り、希沙良は顔を俯けた。
予想以上に、嬉しかった。けれど、甘く優しい毒をもらったような怖さもある。
嬉しげに笑っていた紫葵が、ふと顔を顰めた。
「僕は君を大事にするけれど、僕らのような存在を簡単に信じたらいけないよ」
「…………」
大事にするという言葉に胸がぎゅっとなった。それを味わってもいられず、希沙良は紫葵の横顔を見上げる。
「あやかし、を?」
「そう、僕らはひどく気まぐれだ。君を陥れる存在も現れるだろう。僕は絶対にしないから、安心していいよ」
現時点で、紫葵達のことも、はいそうですかと信用できるわけではないのだけれども。
希沙良の抱える疑問は多々あったが、一番知りたいのはいつか訪れるかもしれない恐怖よりも、ここにいる存在だ。
「なぜ、紫葵は優しくしてくれるの?」
「何ででも、だよ」
「それじゃわからないわ」
「いいんだ、それで。僕は君を絶対に裏切ったりしない。一人にして、ごめんね」
「…………」
優しい紫葵に戸惑うばかりで、希沙良は言葉も出ない。
(そういえば、主って……紫葵がわたしの結婚相手ということ……?)
はっと気づいて、食い入るように紫葵を見つめれば、視線で何だと問われる。
「あ、あの、わたし、あの家に嫁入りした……のよね? というか、その、貴方に……」
「え、あ、あれは」
二人そろって慌てて、繋いだままだった手をぶんぶんと振る。
「あの儀式は、僕らが組に新しい仲間を迎える時にやるものを模していて、別に希沙良を無理に仲間に入れようってわけではないんだ。あくまでも歓迎していると、示したくて――その、形だけだから!」
紫葵は早口でまくし立てた後、視線を彷徨わせて小さな声で言う。
「……もし、希沙良が婚姻を望んでくれるなら、僕は、その……嬉しいけど」
「…………」
はにかんだように甘く笑む紫葵を見て、希沙良は急いで下を向いた。顔が熱い。
紫葵にしても希沙良を見つめていられずに目を逸らしていたら、突然腕を引かれて驚いて視線を戻し――
「希沙良!?」
目を回して座り込んでいる希沙良を見つけて慌てた。