帰処 -かえるところ- ③
「希沙良――起きて」
女中の少女の声に目を開けたが、部屋には誰もいなかった。
「……?」
起き上がって耳を澄ませると、複数の話し声と足音が近づいて来ることに気付く。身を強張らせているうちに、玄関の方で鍵の外れる重い音がした。警戒して後ずさった時、乱暴に障子が開けられた。
立っていたのは、釣り目の老爺と初老の女、そして髭を整えた壮年の男だった。壮年の男は希沙良を一瞥すると、侮蔑の表情で息を吐いた。
「卑しい娘よ、その身に流れる伯爵家の血を役立てよ」
「…………」
これが、父か。希沙良の心に浮かんだのは、純粋な敵意だった。自分を閉じ込めている男。
希沙良はその場に正座し、男と正面から向き合った。
「晶子に代わって、化け物のもとへ嫁ぐがいい」
男の唇が歪んだ。じっと見つめて、笑っているのだと漸く理解する。あの女中の少女が浮かべる笑顔とはまるで違う、厭な笑いだった。
(あきこ……それが、夫人の娘の名なのね)
何も言わない希沙良を見て、父らしき男が怯むのがわかった。この男もまた、希沙良を化け物だと思っているのだ。とても子に対する態度とは思えない。
くっと、希沙良の喉が鳴った。それも笑みなのだと気づき、内心嫌悪した。男の表情にも嫌悪が混ざる。または、怒り。
「化け物に嫁ぐとは?」
「そのままの意味だ。かつての我が家の当主が、山で出会った化け物に助けられ、娘を与えると誓った。戯言とも思っていたが、昨夜、使いの者が現れた――娘を寄越せと」
(――なるほど、生贄の身代わり)
いつか、老婆が希沙良に言ったことがあった。お前が生かされているのは、生贄の身代わりにするためでもあると。
(化け物の妻となる。言い換えれば、化け物に食われるということ?)
狭い家に、笑い声が響き渡った。さも、楽しげな声。
男も、その後ろに控えた二人もたじろいで、顔を顰めた。笑っているのは、希沙良だ。
(何だっていい。もう、何だって構わない。ここから出られるのなら。この馬鹿げた牢獄から離れられるのなら、どうなろうと)
希沙良の瞳は硝子玉のように澄んで、むしろ穏やかだった。
「いつ、行けばよろしいのです?」
「……五日後の新月の夜、迎えが来る」
「わかりました」
はっきりと答えて、これ以上話すことはないと目を閉じた。しばらくの後、三人の足音が動き、玄関で重い鍵のかかる音がした。
(化け物とは、何かしら――)
物思いに耽る希沙良を遮ったのは、
「出ていくんだね、希沙良」
あの女中の少女の声だった。目を開けると、少し離れたところに少女が立っている。表情のない瞳が希沙良を見下ろしていた。
「……ええ」
いつの間に入って来たのか、などということは、もう考えていなかった。
少女がここを出入りする時に、鍵を使っているのを見たことはない。少女にはそれが必要ない。かと言って、常にここにいるわけでもない。
「貴女は、わたしを食べるのかしら?」
「はじめはそれも良いと思っていたよ」
「それでは、今は?」
「何だろうね、食べようとは思っていない」
「貴女のことを、聞いてもいいのかしら」
少女は相変わらず希沙良を見下ろしたまま、しばらく黙り込んだ。
幾度か、瞳に何らかの感情が浮かんだように見えた。しかし、それは言葉にならずに瞳の奥深くに沈んでいった。
「ずっと見ていた。希沙良の母親の姿も、希沙良のことも。その時、僕は何の形もなかった。ただ、あれに溶け込んでいた。僕はあれであって、あれでない。今はもう、全く別のものだ」
少女が希沙良のそばに数歩寄り、膝が触れるほど近くに座った。自然と顔も近づき、ほのかな梅の香が鼻先をくすぐる。
「貴女は、あの梅の古木から生まれたのね」
「うん。希沙良がいつも見つめていてくれたから、こうして触れることも出来るようになったんだよ」
少女の冷たい指先が、希沙良の頬を撫でる。
細められた少女の瞳に映るのは、何の心情だったろう。人と接することの少ない希沙良にはわからない。それがひどく残念に思えた。
「……名は?」
「まだ、無い。希沙良がつけて」
「わたしでいいの?」
「希沙良がいい」
初めて、少女の唇が弧を描く。優しい笑い顔。
希沙良は両手を伸ばして少女の頬に触れ、微笑みを浮かべた。希沙良の顔はぎこちなく、少女のようには笑えなかったけど、それでもいい。少女の瞳は優しい。希沙良が微笑もうとした事実が大事だというかのように。
「……芳雪よ」
梅の古木から生まれた怪異――芳雪は、顔中に笑みを広げ、希沙良を抱きしめた。希沙良の耳だけに、囁き声が届く。ありがとう、と梅のように淡く香る甘い響き。
「芳雪――」
貴女も、一緒に――その後に続くはずだった言葉は、声にならなかった。
身勝手な願いを簡単に口に出せるほど、希沙良はまだ自分というものを形成できていない。もし口が滑るまま願いを告げていたのなら、芳雪はそれを一身に叶えていただろう。しかし、希沙良はそれを知らない。
「僕もこれで自由になったことだし、どこへでも気ままに行くとしよう」
「もう、行くの?」
「うん。お別れだよ、希沙良」
何の名残もなく、芳雪は立ち上がった。希沙良はその場から動けずに、顔だけを上げた。芳雪の瞳は慈愛に満ちて、また哀しげでもあったけれど、希沙良には見つめることしかできない。
「…………」
いくつかの言葉が浮かんでは、声になる前に消えていった。どんなふうに言葉を尽くしたところで、伝えられると思えなかった。いつか、それを伝えられるだろうか。
「希沙良、君は僕の根幹だよ。どうか、枝葉を広げて、慈雨を受けて成長してほしい」
芳雪の指が希沙良の目元に触れ、希沙良は目を閉じた。
「さよなら」
最後に冷たい唇が瞼に触れ、目を開けると芳雪の姿はなかった。
「でも、芳雪――わたしは、もう……」