帰処 -かえるところ- ①
牢獄での生活に、飽き飽きしていた。
どこかへ行けるのなら、どこだっていい。
ただ、ここにはもういたくなかった。
ただ、それだけ。
物心ついた頃から、そこにいた。
がらんとした部屋が一つ。
北と西には小さな窓があるだけ。部屋の南には縁側、東には土間。
縁側にはガラス戸がついていたけれど、その外側には木の格子が嵌められていて、庭には出られない。その他の小さな窓にも格子があって、土間にある玄関も同じ。何度か壊そうとしたこともあったけれど、格子は頑丈でびくともしなかった。そのどれもが、外から鍵をかけられていた。
庭もがらんとしている。
ただひとつ、古い梅の木があって、それだけが唯一の慰みだった。春が近づけば白い花をつけて、良い香りを部屋まで届けた。枝に小鳥が遊ぶこともある。
その向こうは竹林になっていて、何も見えない。立派な目隠しだった。
閉じ込められているということはわかった。
何かから守られているわけではない。ただ、隠されているのだ。
世間に知られれば恥で、また目に入れば毒であったから。
外に出られはしなかったけれど、ここを訪れる人達が愚痴をこぼすのを聞いて、そうなのだとわかった。
大体の人はこちらを見ようともしなかったけれど、わざわざ言葉をぶつけてくる酔狂な者もあった。
ここはかつて伯爵位を持っていた真田のお屋敷の敷地内にあって、本妻ではなく、どこぞの犬の胎から生まれたみっともない化け物を入れておく檻なんだそうだ。
幼い頃は、毎日世話係の老婆がやってきて食事を作って出してくれた。
ある程度成長したら、玄関が開いたかと思うと食材が投げ込まれて、全部自分でするようになった。どうにかするしかなかった。老婆から調理法を教えてもらったこともなく、見よう見まねでやってみるしかなく、始めのうちは酷い味のものばかりが出来上がった。
幸せではない。満ち足りた日々ではない。
泣いた日もあった。
怒った日もあった。
そのうち、どうでもよくなった。
暴れたところで何も変わらない。疲れるだけだからだ。諦めてしまったら楽になった。どうせ死ぬまでここにいるのだ。静かにただ時を過ごした方が、からっぽになった方が、つらくない。
今年もまた、咲いて、散り始めた梅の花をぼんやり眺めているだけだ。
――ただ、ある時、変化があった。
「何でこう、離れたところに置くのかしら」
ぶつぶつと文句を言いながら、格子戸の隙間から精一杯手を伸ばす少女の姿があった。
真っ直ぐな黒髪はひとつに結われ、背中で揺れている。肌は正反対に透けるように白い。長い睫毛が影を落とす瞳は青みがかった黒眼で、宝玉のようではあったが、表情が乏しいこの少女にあっては輝きも鈍い。
「もう、ちょっと……」
あと少しで地面に置かれた籠に手が届きそうなのに、届かない。こんなことをしているより、何か長い棒でも持ってこようかと手をひっこめた時。
「とうとう玄関の中にも入れていかなくなったんだ」
まだ幼さの残る女の声に顔を向けると、いつも来る女中と同じ臙脂色の着物に前掛けをした少女が立っていた。年の頃は同じくらいだろう。
風に乗って梅の香が届いた。
家の中の少女は、格子戸に掴まったまま、表情を変えずに呟く。
「初めて見る顔だわ」
「そうだね、初めてだもの」
「それより、そこにいるなら籠をこっちへくれない?」
「いいよ」
外に立つ少女は気軽に言って、籠をひょいと持ち上げて歩いて来る。数日分の食材が入った籠は重そうに見えたのに、そうでもないらしい。
「はい、どうぞ」
「――っ」
外の少女に籠を渡され、あまりの重さに腕が下がり、格子に当たって骨が折れるのではないかと焦る。
「ちょ、ちょっと――!」
「そんなに重い?」呆れたように言って、籠を受け取る。「やわいなぁ、希沙良は」
格子の隙間から手を戻してさすっていた少女は、ふと動きを止めた。
眉をひそめ、聞き返す。
「……なに?」
「なにが?」
「きさらって」
「やだな、自分の名前でしょ」
「わたしの? あったの?」
「そりゃあ、あるよ」
外に立つ少女はけたけたとおかしそうに笑う。
「貴女のお母さんがつけてくれた名前だよ」
「お母さん……いるの?」
「いるよ。どうやって生まれて来たと思ってたの」
少女がひとしきり笑うのを、希沙良はぽかんとして見つめた。
「あ、もう行かなきゃ。籠ここに置くよ」
少女は格子の近くに籠を置くと、充分に笑ったと言わんばかりに目尻に浮いた涙を拭って、夕焼けの落ちる庭を駆け出した。
希沙良は我に返って、慌てて身を乗り出した。
「待って!」
「なあに」
「また、来る?」
「うん、希沙良が望むなら」
「……待ってるわ」
「じゃあ、またね」
少女は手を振って、夕暮れの帳の向こうに消えた。
「……変な子」
しばし佇んでいた希沙良は、はっとしてしゃがんで格子の隙間から食材を中に入れて、手近な籠を手繰り寄せて移していく。けれど、ともすればその手は止まった。
「きさら」
何度か口に乗せて音にして、なぜだか頬が緩むのを感じる。それは、今までにない感覚だった。