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亀谷高校の日常

BAKU

作者: 「裕」

0:学校


夏休みを目前に控えた、ある高校の四時間目前の休み時間。校内は生徒達の雑踏にあふれかえっていた。

夏休みのレジャー計画

部活の目標

バイトの予定

夏期講習をどうするか

等々、至るところから生徒達の楽しそうな話し声が聞こえてくる。


なんてことのない、夏休み前の光景。





いち:なつのひに



「あっつ…」

わたしは額を伝う汗を拭った。


ある夏の日の夕方。学校帰りのわたしは、朱く染まった空の下、生温い風を浴びてお気に入りの赤いママチャリを走らせていた。

自宅マンションの駐輪場に自転車を止め、エントランスに入る。ロックを解除し、自宅のある五階までエレベーターで上がった。

エレベーターを降りたわたしは、『503』と書かれた扉の前まで来ると、おもむろにドアノブを引いた。

「ただいまー」

居間からの光の差し込んだ廊下に、声が響く。 ローファーを脱ぎ捨て、お弁当箱を抜いたカバンを自室に放り込むと、制服姿のままリビングに突入した。

「おかえりなさい」

キッチンからひょっこりと顔を出すお母さん。ジュージューと何かが焼ける音と、おいしそうな匂い。今日の夕飯は…ハンバーグかな? キッチンへ入り、流し台の前に立つ。そして、持っていたお弁当箱を水に浸けた。

「制服皺になるから、早く着替えてきちゃいなさい」

フライ返し片手に、ひらひらと手で払われる。

「はーい」

返事と同時に、わたしはリビングを立ち去った。


 脱衣所で、着ていたポロシャツと汗で湿ったキャミソール、そして季節関係なしの女子高生のマストアイテム・紺のハイソックスを、それぞれ脱ぎながら洗濯機に投げ入れる。そして新たなる衣類を求めて、廊下に出ると、絶妙なタイミングで玄関の扉が、ガチャリ、と開かれた。

「ただいま…って、あ。」

扉の向こう側にいた人物と目が合い、相手が、お兄ちゃんが一時停止する。

「おかえり。早かったね」

何事もなかったかのように、脱衣所の向かいにある自室の扉に手をかけると、横から扉を閉める音と共に、呆れたような溜め息が聞こえた。

「なによ」

「まったく。なんつー格好しているんだよ」

やれやれ、と言った具合に肩をすくませ、玄関から上がってくると、わたしの横に仁王立ちした。

「俺が客でも連れてきていたら、どうするつもりだったんだ」

ぺちん、とわりといい音のするデコピンを頂戴する。威力はそれほどないが、音のおかげでやられた感は十分にある。なにするのよ。 おでこを押さえ、むう、とふくれて見上げると、眉を顰めたお兄ちゃんが、わたしより20センチほど高い位置から見下ろしていた。

「客なんか連れてきたことないじゃない。それに、まさかこんなに早く帰ってくるとは思わなかったの」

わたしはそっぽを向いて、ふん、と鼻を鳴らし、部屋へ入った。


スカートをハンガーにかけ、適当なTシャツとハーフパンツを見繕ってリビングへ向った。

リビングのドアを開けると、トマトソースの良い香りが漂っている。そのままおいしそうな匂いのするキッチンへ入ると、お母さんが丁度、トマトソースの中にハンバーグを投入しているところだった。

「やっぱり、今日はハンバーグなのね」

ぐつぐつと湯気の立つ鍋を覗き込む。ハンバーグとトマトソースとが程よく絡まっている。わたしはおいしそうな匂いを、胸いっぱいに吸い込んだ。お母さんは、ハンバーグの投入されたトマトソースの鍋に蓋をしながら、あなたたち好きでしょ、と微笑んでいる。

「お父さん、もうすぐ帰ってくるから、サラダ作るの手伝って」

「はーい」


時刻は午後6時30分。ある夏の夕暮れ時の、よくあるひとコマ。



  ◇   ◇   ◇



「うへぇ、あっちー」

額に噴出した汗を、首にかけた本日3枚目のスポーツタオルで拭った。


ある夏の日の夕方。たまたま部活の体育館使用時間が前半だったおれは、いつもより少し早めの帰路についていた。夕日も落ちかけ赤紫に染まった空の下、生温い風を浴びつつ、高校入学時に買ってもらった、よくあるシルバーのママチャリを走らせる。

自宅マンションの駐輪場に自転車を止め、汚れたユニフォームと空の弁当箱が放り込まれている、エナメルのカバンを背負い直す。そしてエントランスに入り、電子ロックに住民専用の番号を打ち込んで解除し、自動ドアの先へと進んだ。

ホールまで来ると、丁度良くエレベーターが下ってきた。下りてきた住民に軽く会釈をし、入れ替わりに乗り込む。ほかに誰も乗らないことを確認すると、「5」と刻まれたボタンと「閉」を押した。

エレベーターを降り、3つ目の扉の前で歩みを止めた。手垢で汚れたシルバーのドアノブに手を掛け、手前に引く。

「ただいま…って、あ。」

扉の向こう側にいた人物と目が合った。その人物の姿に、不覚にも、一時思考が停止してしまう。

「おかえり。早かったね」

水色のブラジャーに制服のスカートという出で立ちで、おれを出迎えた妹は、何事もなかったかのように自室に入ろうとした。いやいや、年頃の女の子がたとえ家の中とはいえ、そんな格好で徘徊しちゃイカンだろ。一応、おれもいるんだし…

扉を閉めながら、思わず、溜め息が漏れてしまった。そんな兄の心の叫びの片鱗を、妹は聞き逃さない。

「なによ」

「まったく。なんつー格好しているんだよ」

やれやれ、と肩をすくめながら、玄関を上がる。『オトメの恥じらい』というものは、お前に存在しないのか。

おれは、のしのしと、妹に歩み寄った。

「おれが客でも連れてきたら、どうするつもりだったんだ」

部活帰りに友達や後輩が、突然来ることだってあるんだ。しかも、お前にわざわざ連絡してやる義理もないしな。

おれは視線の先にある、おれより頭ひとつ分低い位置にある妹の額に、ぺちん、とデコピンをくらわせた。妹は、額を押さえ、ふくれっ面でおれを睨みつけるが如く見上げてきた。

「客なんか連れてきたことないじゃない。それに、まさかこんなに早く帰ってくるとは思わなかったの」

そっぽを向いて、ふん、と鼻を鳴らすと、妹は部屋に入ってしまった。あのー、友達くらい連れてきたことあるんですけど。客連れてきたことないとか、友達いないみたいじゃん、おれ。

妹との一騒動ののち、部活と暑さで汗だくだった俺は、かばんを部屋において、洗濯物と期待えを手に、風呂へと向った。


ざっ、とシャワーを浴びて、適当に髪をガシガシとバスタオルで拭きながら、居間に入る。台所では、母さんと妹が夕食の準備をしていた。部屋中に、おいしそうな匂いが立ち込めている。このかんじ、今日はハンバーグかな?

台所に入り、部屋から持ってきた空の弁当箱を水に浸ける。

「あら、おかえりなさい。お父さん、後五分くらいで帰ってくるから、あなたも手伝って」

横に先ほどまで味噌汁を作っていた母さんが、立っていた。そしておれの手に、持っていた箸箱を乗せる。あー、箸を配れと。


おれが食卓に四膳目の箸を置いているとき、玄関からドアの開く音がした。


ただいまー


廊下から、男の声が聞こえた。

数歩分の足音の後、居間のドアが開いた。半そでのワイシャツにスラックスで現われた父さんは、シルバーフレームの眼鏡のレンズ越しに、疲れた笑みを浮かべていた。

「おかえりなさい」

「おかえりー」

「おかえり」

おれたちは口々に出迎えの言葉を口にした。父さんも帰ってきたことだし、飯だ。飯


四人掛けの食卓に、父さんと母さん、そして妹とおれがそれぞれ所定の位置についた。目の前にはつやつやに輝く白いご飯と、味噌汁、先ほど妹が作っていたサラダに、母さん特製ハンバーグが並べられていた。あー腹減った。それじゃあいただきますかね。

おれは、パシッと両手を合わせる。

いただきます

箸を手に取り、ハンバーグを一口サイズに割る。そして口の中へ放り込む。咀嚼。

「おいしー」

口の中に肉汁がじゅわーっと広がる。味付けも最高だ。自然と端が進む。やっぱ、母さんのご飯は世界一だね。

おれの横で、妹の箸も進んでいた。それはそうだろ。だっておいしいもん。


それからみんなで、今日あったことなど他愛もない話をしながら、一家団欒の夕食をとっていた。なんてことない、ただの日常。だけどそれを壊したのは、不意に鳴ったインターホンだった。どうやらエントランスからではなく、玄関横のものかららしい。ご近所さんだろうか。


「すみません。ちょっといいですか」

インターホン越しに聞こえる、どこかで聴いたことのある、少女の声。

平穏が崩れる瞬間は、彼女のその静かな声とともにやってきた。



  ◆   ◆   ◆



真っ青に晴れた空。照りつける太陽。モクモクとわき上がる入道雲。

生温い夏の風は、少しの湿り気とともに、夏休みという名のすばらしい日々を誘ってきてくれた。

そう、今日からは全国の学生たちが歓喜する、夏休みだ。

例え大量の宿題が出されようとも、蒸し焼きになるくらい暑い日が続こうとも、僕たち学生にはそれらにも替えがたい『時間』が与えられるのだ。部活に明け暮れるでもよし、友達と遊びまくるでもよし、家族とレジャーに出かけるもよし、バイトで稼ぎまくるでもよし。

その喜びは、僕とて例外ではない。

しかも今年の僕は、去年までの僕とは一味も二味も違う。今年の夏は、それまでの夏よりも青春を謳歌できる、すばらしきものが手に入ったのだ。

物ってなんだって?ノンノン。『物』じゃない。『者』だ。

そう、『彼女』ができたのだ!

相手は中学時代から憧れていた、我が亀谷高校のマドンナ・細山先輩だ。僕よりひとつ上の三年生で、眉目秀麗、頭脳明晰、品行方正。才色兼備の彼女はミス・亀高二連覇中の美女だ。おまけに陸上部のエースときたものだから、まさに彼女は天に愛された存在といっても過言ではないだろう。

こんな、頭脳、運動、ビジュアル、どれをとってもいまひとつぱっとしない地味な僕が、何故彼女の恋人になれたかだって?きっと、僕があまりにも何も持っていなさすぎて、流石の神様もかわいそうと思ったのではないかな。ちょっと悲しいけど。夏休みに入る数日前、たまたま鉢合わせたときに、勢いあまって告白してしまったんだ。そしたら「いいよ」って。僕も耳を疑ったよね。ついに耳が劣化したんじゃないかって。

まあ、そんなことはどうでもいい。今日はその細山先輩と初デートだ。場所はデートの王道・千葉県にある首都の名前のついた国内でも最大級のテーマパークの『海』の方だ。何故正式名称で、ずばばっ、と書かないかは大人の事情ってやつで察していただければ。いや、まあ、べつにいいんだけどさ。

そんなことは置いておいて。

僕は今、彼女と待ち合わせをしている地元の駅に向っている。お供はもちろん、僕の最高の相棒・ブラックドラゴン号(黒いシティーサイクル)だ。名前が中二病みたいだとかはあえて触れない方向で。通学時や市内を回るときにいつも一緒の彼(彼女?)は、今日も例外なく僕を目的地まで、スムーズにかつ迅速に連れて行ってくれる。

駅の横にある駐輪場の一日駐輪券を購入し、駅までの僅かな道のりを軽い足取りで進む。時刻は午前6時45分。待ち合わせ時刻の五分前だ。早すぎず、遅すぎず、良い頃合ではないだろうか。待ち合わせの場所は、改札の向かい側にあるみどりの窓口の前。そこで、彼女と落ち合って、6時53分発の電車に乗りテーマパークの最寄駅へ。今日は9時開園のはずだから、30分前くらいには着くはずだ。と、改札までをエスカレーターで上りながら、ひたすら頭の中で繰り返す。


エスカレーターを上りきった。そのままの足取りで、みどりの窓口の方へ向かう。

あっ

目的の人物はすでにそこにいた。どうやら少し、待たせてしまったようだ。赤と白のボーダーTシャツにベージュのキュロットスカート、いつも適当に括ってある髪は、きれいにポニーテールにされ髪飾りがついている。

かわいい。

あまりのかわいさに、一瞬歩みを止めてしまう。そして我に返り、駆け寄ろうと自然に足並みが早くなる。

「せんぱ…っ」

先輩に声をかけようとしたそのとき、不意に、目の前に誰かが立ちはだかった。突然のことで、駆け足になっていた僕は急には止まれず、ぶつかってしまう。反動で二人とも尻餅をついてしまった。僕もわりと、いや、世間一般からするとだいぶ軽いほうだが、相手は女の子だった。軽く吹っ飛ばしてしまったらしく、罪悪感が生まれる。

先に立ち上がった僕は、彼女に手を差し伸べた。

「大丈夫?」

俯いていた彼女が、僕を見上げた。

あれ、この子どこかで…

吸い込まれそうな暗い瞳に真黒な長めの髪。僕はこの少女を、どこかで見たことがある気がした。

少女は差し出された手を取り、立ち上がる。

「ありがとう」

にっこりと笑った顔。やっぱりどこかで見たことがある。

少女は僕に、二言目を告げるべく、口を開いた。

 

「木下亘くん、ちょっといいかしら」

少女のその言葉に、僕はあまりいい予感がしなかった。



  ◆   ◆   ◆



この世界は、大きい。私の横に並ぶお友達も、教室にある机と椅子も、図書室の本棚も。大きなものに囲まれた小さな私は、いつも私より大きな誰かに助けてもらっている。


「ショーコ、俺が半分持ってやるよ」

職員室からコピーした大量の楽譜を持って出てきた私は、部室に戻ろうと、えっちらおっちら 歩いていた。そして階段を上ろうとしたところで、後ろから声をかけられる。振り返ると、ブルーのボーダーが眼前に広がる。見上げると、ボーダーのポロシャツを着た、リヒト先輩だった。彼は中学時代からの部活の先輩。仲良しのこの先輩は、私をいつも助けてくれる。今日も私のピンチに現れ、助けてくれるようだ。

「ありがとうございます」

私よりも30センチほど背の高い先輩を、首を大きく反らせるように見上げ、礼を述べる。先輩の笑顔がいつもの数割り増しになる。先輩は私の手の中から、ごっそりと大量の楽譜をかっ攫っていった。

「え、あ、そんなにいいですよ」

「いやー、お前にこけられてぶちまけられるよりは、俺が持ったほうが効率的だ」

わかるかい、と空いたほうの手の人差し指を立てる。

「え、でも、あの…」

私がプリントに手を伸ばすと、先輩は、さっ、と私の手を避けるかのごとく、階段を二段ほど上がる。

「ほら、早く行かないとみんな楽譜待っているぞ」

いつもの笑顔で振り向き、先輩はそのまま、すたすたと階段を上っていってしまう。私もそれに遅れないように、急いで階段を上った。

図書室の高い本棚にしまわれている本、授業で使うから持ってくるように言われたたくさんの資料、部活で使う大きく重たい楽器。そんな本は誰かに取ってもらい、資料は誰かが半分持ってくれて、楽器は誰かが一緒に運んでくれる。いつも、いつも、みんな、みんな助けてくれる。この、身長145センチの小さな私を。


先輩に並んで、階段を上りきった。そして各パートの楽譜を、それぞれのパート部屋に配り歩く。

「お疲れ、ショウコ。楽譜けっこうあったでしょ?」

最後に、自分のパートであるサックスパートに楽譜を持って戻ってくると、アルトサックス担当の吉川先輩がねぎらいの言葉をかけてくれた。

「そうですね。けど、リヒト先輩が手伝ってくださいましたから」

大丈夫でしたよ、と言いながらアルトの楽譜を渡す。それから、バリトンの先輩と、テナーの同級生にも、それぞれ楽譜を手渡した。


「ショウコ、りっくん先輩は?」

セクション決めたいんだけど、と、もらった楽譜を凝視しながらテナーのミカちゃんが尋ねてきた。たしかに今回の曲は珍しく、テナーのパート分けがしてあったからね。

「リヒト先輩なら、先に楽器取りに行ったよ」

 もともと私が頼まれた仕事だったし、量が少なくなったところで、私が全て引き受けた。だからたぶん今は、楽器庫かもうこっちに向ってきているかどっちかだろう。先輩たちは口々に、りっくんは全く、とか、気が利かないんだから、とか、呆れ顔になり始めた。


「じゃあ私も楽器取ってきます」

とりあえず任務完了。私も練習を開始すべく、楽器を取りにパート部屋を後にした。


私が楽器庫までの廊下をやや早足で歩いていると、どこかの教室のドアの横に差し掛かったところで、不意に、教室から腕が伸びてきた。そして私の腕をつかみ、教室の中へ引っ張り込む。

「…え?」

振り返ると、腕の主と目が合った。吸い込まれそうな暗い瞳に胸辺りまで伸びる真黒な髪の女の子。上履きの色からして、ひとつ上の学年の生徒だろう。どことなしか、不思議な雰囲気を漂わせる女の子だった。


「酒井彰子さんよね?ちょっといいかしら」

彼女の唇からつむがれた言葉は、彼女同様、不思議な感覚に陥るものであった。










舞台裏:いばら姫の城



ある夏の日のこと。

期末テストも終わり、夏休みも目前に控えた、県立亀谷高校では、不気味なほどの静寂に包まれていた。お昼前の四時間目の授業中であるはずのこの時間、校内は音のない世界へと化していた。人は、いる。しかし、どの教室でもみな一様に眠っているのだ。

ある二人を除いては。



西棟の二階。 そこにある、とある教室を目指し、少女はものすごい勢いで西棟の南階段を駆け下りていた。吸い込まれそうな暗い瞳に、肩より長めの真黒な髪を躍らせ、すごい剣幕で走っている。最後の踊り場まできたところで、思い切りジャンプ。体操選手もびっくりのすばらしい着地を見せたところで、西棟の廊下を北側から駆けてくる人物に気づいた。

「幸人っ!」

少女が駆け寄ると、少年はある教室の前で立ち止まった。

「姉ちゃん、そっちは?」

吸い込まれそうな暗い瞳に、真黒な髪をした少年・幸人は、少女とどことなく面立ちが似ている。会話からも察せられるが、どうやら姉弟のようだ。

「みんな眠っているわ。とにかく、連絡を」

少女はスカートのポケットに入れていた鍵を取り出し、ドアに差し込む。

がちゃり、という鈍い音と共にロックが解除される。少女は重たそうな鉄の引き戸を、勢いよく開け放ち、教室内に駆け込んだ。


埃っぽい本棚に、積み上げられた紙の束。古い三人掛け程度のソファーに机と椅子のセットが数点と、開きっぱなしの旧型ノートパソコンが一台。

文芸部部室。それがこの部屋の名称だ。


少女に続き、幸人も部室に足を踏み入れる。そしてノートパソコンに近づき、今度は幸人がスラックスのポケットを探って何かを取り出した。手にした赤いUSBを挿入して、パソコンを起動させる。するとモニターにパスワード画面が映し出された。幸人は前に置かれていた椅子に座り、慣れた手つきでキーボードをカタカタと打ち込むと、エンターキーを押す。ロード待ちの青い画面になった。幸人の横では、イライラした様子で少女が人差し指で机を叩いている。

画面が切り替わった。しかし、通常のパソコンに表示されるデスクトップの画面ではなく、テレビの画面に接続されたかのように、少年がひとり、映し出されていた。


『こちらオペレーティングルーム。ナンバーコードをお願いします』


画面の向うでインカムをつけた少年が、決まった台詞を口にする。

そしてこちらでも、パソコンに接続されたマイクで、幸人が淡々と言葉を発した。

「こちらナンバー382613、高田です。ランクAAの事態発生です。至急、夢導課の堤さんをお願いします」

『かしこまりました。少々お待ち下さい』


画面の向うでは、横に置かれたマイクに向って少年が何かを喋っている。そして手前に置かれたキーボードを操作し始めた。

遅い。いつもはワンタッチ操作であるはずの呼び出しが、今日に限ってなんだかもたついている様子だ。

痺れを切らした少女は、幸人の使っていたマイクを引ったくり、叫んだ。

「ちょっと、中島っ。なにもたもたしているのよ、早くして」

『ひっ』

驚いた画面の向こうの少年・中島は画面の向うで、目を白黒させていた。突然の出来事に幸人も顔をしかめる。

「姉ちゃん、ちょっと待ってなよ。でも、それにしても遅いね。どうかしたの?」

マイクを自分の前に戻し、幸人は問う。すると中島は、ちょっと待ってください、と制すると、キーボードを操作し、インカムのヘッドホン部分で何かを聞いていた。 一時、向うとの音が遮断され、中島の映像だけがモニター越しに見られる。向うで中島の口がもぞもぞと動くと、またキーボード操作をし、こちらに向き直った。

『堤さん、恒例の家族旅行でいないみたいですよ』

ただ淡々と、そう告げられた。

その言葉を耳にするか否や、またしても少女がマイクを引ったくった。

「ちょっと!AAランクって言ったでしょ。誰でもいいから早くうちの課のやつ出せっ」

喚き散らす少女。流石に幸人ももうどうすることもできないと思ったのか、半ば諦めたような表情で、画面越しに脅えきっている中島に同情の視線を投げかけた。


丁度そのとき、画面の向こう側に中島の背後から、スーツ姿の男が姿を現した。黒の細身のスラックスに、ブルーのストライプのワイシャツを着こなした、二十代後半と思われる涼しげな眼鏡の青年。彼は指で、替わって、中島に伝えると、立ち上がった中島に代わり、席についてインカムを装着した。

『香川に代わりました。ミユキ、ユキト、落ち着いて状況を説明してもらえるかな』

 モニター越しににっこりと微笑む香川。しかしそこには、無言の威圧感というものが存在した。

幸人は、青年にかいつまんで状況を説明する。 香川は、ふむふむ、と頷くと、横に待機していた中島に何かを指示し、後方の扉を指差した。 そして何かを言い渡された中島は、急いで扉に向かい、向こう側に姿を消す。 こちらに向き直った香川は、インカムのマイク部分を口元に寄せると、口を開いた。

『今、応援を呼んだから。とりあえず、ユキトはここに待機でいつも通り解析を頼む。ミユキはユキトと連絡を取りつつ、ヤバそうなのから片付けていって』

香川の指示を仰ぐと、二人は顔を見合わせ頷き、美幸のほうは部室から出て行った。

『それじゃ、健闘を祈るよ』

通信はそこで切断された。


事態の収束に向け、二人の姉弟は今、静寂に包まれた学校の中で動き出した。








に:ゆめとげんじつ



「酒井彰子さんよね?ちょっといいかしら」


美幸は、教室の前を小走りに進んでいた小さな少女の腕をつかむと、自分のいた空き教室へ引きずりこんだ。このセカイの主の一人である小さな少女。酒井彰子の願望から生まれたこのセカイは、彰子の望んだ『大きな世界』であった。しかしここは現実ではない。彼女の夢の中だ。夢はいつか終わりがこなければいけない。

そして、彼女を起こしてあげるのが、私の役目。


「そうですけど…あの、なにか?」

 驚いたのか、若干潤ませた瞳でこちらを見上げてきた。何が起きたのかわからない、そんな様子である。私は、彼女に向ってにっこり笑うと、現実へと繋がる一言目をつむいだ。


「あなた、なんでそんなに小さいの?」


小さな少女は目を見開く。そして、もう一言。


「それがあなたの望み?」


すると、彰子に異変が起きた。頭を押さえて屈みこもうとした。しかしその身体が、だんだんと大きくなっていく。屈みきったときには、先ほどよりもだいぶ肩幅や背中の広がった本当の酒井彰子が、姿を現した。


「そう、あなたはその背の高さがコンプレックスだった。その身長で、大好きな先輩と並ぶのも嫌だった。違うかしら?」

うつむいて、丸くなっている彰子に、私は囁く。彰子はうつむいたまま、頷いた。美幸は一緒に屈みこんで、彰子の横に並んだ。

「そんなに気にするほど、あなたの身長は高くないわ。だって一六〇センチくらいでしょ?そのくらいあった方が素敵じゃない。もっと自身持ちなさいよ」

ぽんぽん、と彰子の肩を叩く。すると彰子は、今にも泣きそうな顔を向けてきた。

「でも、先輩と一緒に歩いていると、すごくちぐはぐな感じがして…」

無理して笑っているような気がして…

彰子はまた顔を伏せる。


私は立ち上がり、仁王立ちになった。

「あなた達の身長差なんか誰も気にしちゃいないわよ。それに男なんてすぐ伸びて、今に追い越されるわ。だから今は胸を張って待っていなさい」

そう、私が今まで何十回も見てきた男子高校生達が、みんなそうだったように。

それに彼の笑顔は標準装備よ、とウィンクした。


私は静かに、彼女に青い数珠玉のブレスレットのついたほうの手を差し伸べた。

「ね、だから目を覚ましましょう」

彰子は頷くと、私の伸ばした手に自分の手を重ねる。


次の瞬間、彰子はブレスレットに吸い込まれるように、消えていった。



  ◇   ◇   ◇



楽器庫の引き戸を開けると、隣のクラスのミユキちゃんがドアの前に仁王立ちしていた。腕を組んで、俺のことを睨みつけるように見上げている。

 

「どうかしたの?」

俺の問いかけに、吐き捨てるように返された。

「どうかしたの?じゃないわよ、阪井理人。アンタ、気にしてないって言っていたのに、やっぱりちょっと気にしていたんじゃない」

どういうことだ?さっぱり意味がわからん。

俺が困ったような笑みを浮かべていると、ミユキちゃんの顔が更に厳しくなる。

「何のことだか全くわからないー、なんて顔しているんじゃないわよ!わからないなら教えてあげるけど、アンタ、

なんでそんなにデカいの?」


図星をつかれた気分だった。そう、俺はこんなにデカくない。高校二年生になった現在も、身長150センチのミニマム少年だった。

それに気づいた瞬間、俺の身体はみるみる小さくなっていった。気づけば元の大きさ、楽器を持つと楽器がデカく感じる体格に戻っていた。

別に俺は、この身体を気にしているつもりはなかった。父親もそれほど大きい方ではなかったし、今まで困ることはなかった。女の子もこのくらいの子はいるし、生活にはなんの不便もない。それに俺も男だし、いつかは伸びるであろうと信じていたし、ゆっくりではあるが確実に身長は伸びていたし。

ただひとつ気がかりだったのは…


「わかっているわよ。気にしていたのはあなた自身のことじゃない。あなたと自分の身長差を気にしていた、彰子ちゃんのことでしょ?」


そう、中学時代から仲の良かった後輩・酒井彰子のことだった。彼女は俺よりも10センチほど高い己の身長を気にしていた。小さな俺に気を使って、あまり横に並びたがらなかった。俺は全然気にしていないのに。だけど彰子も女の子だ。自分よりも小さな、しかも先輩でもある男の俺を気にせざるをえなかったのだろう。一緒にいる時間が、長ければ長いほど。

だから俺は、彼女のためにも少しでも早く成長したかった。誰でもなく、彰子のために。

俺が顔を上げると、先ほどまでは下にあったミユキちゃんの顔が、いつしか俺よりも高い位置に移動していた。いや、俺が縮んだのか。

「彰子ちゃんならもう大丈夫よ。だからあなたは、何も言わずにいつも通りの笑顔で傍にいてあげなさい。あなたの背が彰子ちゃんを越す頃には…」

言いかけて、ミユキちゃんは口を噤む。

「まあいいわ。さぁ、あなたも目覚めなさい」

そう言うと、俺の額に青い数珠玉のブレスレットのついたほうの手をかざした。


一瞬にして、俺の目の前は真っ白になった。



   ◆   ◆   ◆



「木下亘くん、ちょっといいかしら」


美幸はぶつかった少年・木下亘に声をかけた。そして、にっこりと微笑む。


「なんで僕の名前…」

知っているのかと。彼はそう聞きたいらしい。その表情は、不思議そうな、そしてちょっと不安そうなものになっている。


「一応同じ学年なんだけど…まあそんなことは、今はどうでもいいわ。時間がないからちゃっちゃと本題に入るわよ。木下くん、あなた、

本当に細山先輩に告白したの?」


わけがわからない。

毎度のことながら、私が質問を投げかけた相手は、皆一様にこの表情を見せる。彼とて例外ではなかったらしく、その顔ときたら…傑作だ。


「え、だって、夏休み前にたまたま鉢合わせて、それで…」

驚きと動揺を隠せない木下亘の目は、右へ左へと、忙しなく泳いでいる。

そして私はもう一言。


「本当に鉢合わせなんかしたかしら?」


木下亘は、我に帰ったかのように大きく息飲んだ。どうやら全てを思い出したようだ。


「そう、だよね。こんな地味な僕なんかを、先輩が相手にするわけないよね」

そうだよ、そうだよ、と繰り返す。

あー、もう、うじうじうじうじと…


「試しても見ないで、なんでそんな悲観的なのよ!」

怒鳴ってしまった。

またしても、彼・木下亘は驚きで目を見開いている。

「たしかにアンタは地味かもしれない。けど、やってもみないでダメだと決め付けるのは、よくないわ。だって可能性がゼロなわけじゃないのよ」

やってみなければわからないことだってある。

私は彼に全力で訴えた。1パーセントの可能性でも、それに賭けて、やることに意味がある。私はそう信じて今までやってきたんだから。


「でも、フラれたら…」

木下亘はうつむいた。首を垂れたその姿は、なんとまあ情けないことで。

「立ち直れないかもしれない。そう言いたいんでしょ?甘いわ。男なら当たって粉砕するくらいのことしてきなさいよ!」


私は、バシッと彼の肩を叩いた。よくもまあ、こう、うじうじと。聞いていて、イラっとくるわ。近頃の男は本当に草食系ねえ。少しは骨のあるやついないのかしら。

私に渇を入れられてか、少しはシャキッとした彼を見て、私は左手で彼の額を小突いた。


「さぁ、そろそろお目覚めの時間よ。現実に戻りなさい」

そして当たって砕け散って来い。



木下亘は、私の左腕のブレスレットに吸い込まれていった。



   ◆   ◆   ◆



「すみません。ちょっといいですか」


夜の来訪者は、どこかで見覚えのある女子高生だった。

私が玄関を開けると、吸い込まれるような暗い瞳に真黒な髪をした、娘と同じ制服姿の少女が立っていた。そして土足のまま、断りもなく我が家へずかずかと侵入していく。


「え、あ、ちょっと…」

止める間もなく、彼女は家族のいるリビングへ入っていった。ダイニングテーブルで食事をしていた夫や子ども達も、みな、驚きの表情を見せている。


「何をしているんだい、君は」

まず先に、夫が口を開いた。その声音には若干の怒りも含まれている。

この謎の少女は、そんなこと気にもせずといったかんじで、辺りを見回すと、表情を変えずに言葉を発した。


「ねえ、あなたたち、この状況はいったいなんなの?おままごと?」


予期せぬ言葉に、私は開いた口が塞がらなかった。どうやら、子ども達も同じらしい。二人とも目を見開いて驚いている。

そしてまたしても、夫が反論しようとする。

「だから、君はいったいなんなんだね」

少女は、夫の声などまるで耳に入っていなかったかのように、続けた。


「ねえ、なんで家族じゃないのに一緒に暮らしているの?」


「何わけのわからないことを言っているの?わたしたちは『家族』なのよ?」

娘は怪訝な顔をして、そして少し不安そうに言葉をつむぐ。

しかし少女は、更にまくし立てるように続ける。


「わけのわからないこと?それはあなたのほうじゃなくて?それにこのダイニングテーブルを見てあなたはなんとも思わないの?」


意味がわからないというように、私たちは一斉に、食卓に乗せられた夕食を見やった。

なんてことのない、普段どおりの夕食。ご飯にお味噌汁、メインディッシュのハンバーグ。それと付け合せのサラダ。私が作ったのだから間違いない。今日も我ながらよくできている。

と、私が食卓を見つめていると、

「これ、おかしいよ」

息子がぽつり、とつぶやいた。

いったい何がおかしいの?

私は全くわけがわからずおろおろしていると、夫は不審そうな顔つきになった。

「俺もそう思いますよ、美和さん。いや、藤本先生」


そう呼ばれて初めて、この食卓の、この家族のおかしさに気づいた。



   ◇   ◇   ◇



子ども達がおかしいと口々に言い始めたところで、俺も、何がおかしいのか気づいた。

まず、食卓に乗っているもの。ご飯、味噌汁、ハンバーグ、サラダ。一見同じもののように聞こえるが、ひとつひとつを見比べていくと、少しずつそれらの違いがわかる。

ご飯は、みな白米だ。それは変わらない。しかし、味噌汁は、俺と息子のものが赤味噌なのに対して、妻と娘のものは白味噌だ。次にハンバーグ。これも同じく、妻と娘のものはトマトの煮込みハンバーグなのに対して、俺と息子のものは大根おろしにポン酢のかかった和風ハンバーグ。更に付け合せのサラダは、妻と娘のものがレタスやトマトなのに対して、俺と息子のものはツナと大根を和風ドレッシングであえたものだった。

作ったのは妻と娘のはずだから、きっと自分達は自分達の食べているものを作っていたつもりだったのだろう。だが、私と息子が食べていたものは、彼女達のそれとは違うものだった。

それは何故なのか。

俺は三人それぞれの顔を見渡してやっと気づいた。

俺達は、家族じゃない。

そして俺は、息子に続いてこう、答えた。


「俺もそう思いますよ、美和さん。いや、藤本先生」


俺が言葉を発した途端、眼前に広がるセカイの見え方が変わった。

俺が妻だと思っていたその女性は、同じ学校に勤める英語教師の藤本美和先生。料理好きで有名な彼女は、いつも職場においしそうなお弁当や、手作りのクッキーなんかを持ってきて食べている姿をよく見かける。

俺が娘だと思っていた少女は、私の担任をしている一年E組の城田桜さん。たしか3歳あたりからずっと施設育ちで、今はアルバイトをしながら奨学金でうちの高校に通っている。大変な子だから一応気を使ってはいたが、優しくて、なかなかいい子だという印象を受けていた。

少年のほうは、私が担当している物理の履修をしている、秋津智明くん。高校三年生の彼は大学の学費を稼ぎつつ、国公立の大学を狙って受験勉強中であると聞いている。中学時代はバスケ部だったらしいが、家庭の問題で高校からはずっとバイトに明け暮れつつ、好成績をキープし続ける優等生だ。


俺が彼らを見渡していると、秋津くんがはっとした表情でこちらを見返した。

「おれ達、本当に何をやっているんですか?」

それは俺も知りたい。たぶん、俺だけじゃない。城田さんは俯いてしまっていてここからでは表情が見えないが、藤本先生は眉根を寄せて困惑した様子である。

そして視線を先ほどの少女、勤め先の生徒であった高田さんに向けた。高田さんは、にやり、と笑うと食卓の開いていた席に座る。


「夢を見ているのよ。みんなの願望が詰まった、ね。あなた達はこんな普通の、なんてことない家族団欒に憧れていたんでしょ?」

俺は藤森先生と顔を見合わせる。

「だから記憶を改ざんされて、夢の中に閉じ込められちゃったのよ」

腕を組みながら、うんうん、と頷く。彼女の言っていることが、少し現実離れしていて受け入れ難いが、それ以上の事態が今ここで起こっているのだから、どうしようもない。


「とにかく、あなたたちはもう目覚める時間よ。ちゃっちゃと目を覚ましなさい」


そう言いながら、高田さんは俯いたままの城田さんへと歩みを進めた。


「いやよ!!」


高田さんが左腕を上げた途端、城田さんがその腕を勢いよく払いのけた。



   ◇   ◇   ◇



「いやよ」


高田さんが左腕を上げた瞬間、わたしはその腕を払いのけた。

それまで俯きっぱなしだったわたしは顔を上げ、高田さんを睨む。


「どうして?どうして目覚めなきゃいけないの?ここにはわたしたちの望んだものが全てある。そうでしょ?」

声帯と一緒に言葉も震える。

「いつも一人だった。親もいない。兄弟もいない。バイトがあるから放課後友達と遊びに行くこともできない。院を出た後のためにもお金を貯めなくちゃいけないからいっぱい働いたし、高校には通いたかったから奨学金を取るために必死に勉強もした。」

勝手に口が動く。私の中に抑え込んでいたものが、どんどん吐露されていく。


「べつにね、大きなことなんか望んではいなかった。お母さんと一緒にお料理したり、お父さんに勉強教えてもらったり、兄弟喧嘩したり…そんなどこにでもある日常が欲しかった。ただそれだけなの…」


水滴が頬を伝うのを感じた。一粒、二粒、と伝い落ちていくうちに、私の頬はその水滴で濡れていった。視界が揺らぐ。目頭が熱くなってゆく。止まらない。


「おかあ、さん、むかえに、きてくれる、て、やくそく、した、じゃん」




   『待っていてね』


ずっと、ずっと、忘れなかった、母との最後の記憶。

そう言って母は、握っていた私の手を少しだけ強く握り返すと、そっと放した。淡いピンク色をしたアルミの箱を私に託すと、踵を返し、何も言わずに歩み始める母。私は、渡された桜型の桃色に染まったクッキーの詰まっているはずの箱を抱え、去って行く母の姿をじっと見つめることしかできなかった。

いかないで。

たったその一言は、喉の奥で嚥下されていた。咲き誇る鮮やかな薄紅色をした桜並木の下で、母の背中は私が声をかけると消えてしまいそうなほどに、儚く、悲しい色をしていた気がした。




「ごめんね」


崩れるように座り込んだ私を、温かいものが包み込んだ。耳になじむ声色。懐かしいにおい。やさしい温もり。私はこれを、知っている。


「お、かあ、さん…?」

目の前には、涙で顔を濡らした母に姿が、藤森先生の姿がそこにあった。



   ◇   ◇   ◇



十三年前、私は娘を置いてきた。

桜が舞い散る空の下、彼女の名前の色を、私は哀しみの色に変えてしまった。




「ごめんね」


泣きじゃくる娘を前にして、体が動いた。成長はしたけれど、十三年前と変わらぬ温かさ。私は彼女を胸いっぱいに抱きしめた。

十三年間、忘れたことはなかった。

生活が安定した今、いつでも迎えに行くことはできた。

けれど、最後の一歩が踏み出せなかった。




十七年前、娘の父親である人は若くしてこの世を去った。この子の存在を知らぬまま、車に轢かれそうになった私を守って。

当時私は大学二年生で二十歳だった。この子がいるとわかった時、私は誰にも何も告げずに、家を出た。厳しかった母親には言えるはずもなかった。幸い、高校時代から社会勉強ということで許してもらっていたアルバイトで貯めたお金が少しあったため、それを使って家を借り、新天地で小さな工場の事務をしながらひっそりと生活をしていた。

翌年の三月、桜の咲き誇るその季節に娘は生まれた。少しの間は仕事の休みをもらい貯めていたお金で踏ん張り、娘を託児所に預けられるようになるとまた仕事を再開した。昼間は仕事、夜は育児。三年もすると、その繰り返しに私は疲れ果てていた。その頃娘は反抗期の真っ最中で、言うことは聞かない。彼女のやることなすこと全てに私は頭を抱え、時には声を荒らげるようになった。経済状況、娘の反抗期、そして若いシングルマザーに向けられる世間の目。限界だった。このままではいけない。私は一大決心をして、二十歳のときに飛び出した実家に帰ることにした。助けがほしかった。叱られるのは承知の上だ。けれど孫の顔を見れば少しは怒りを治めてくれるかもしれない。淡い期待を胸に、私は娘の手を引いて実家の門をくぐった。

しかし、現実はそう甘いものではなかった。玄関に現れた私とその手に引かれた娘を見ると、母は鬼のような形相で怒り狂った。


『そんな子ども、うちの敷居を跨がせるんじゃない!!』


そう言い捨てた母の顔を今でも忘れない。あれは子どもに向けていいものではなかった。

悲しかった。私自身は何を言われたってよかった。だけど母の怒りの矛先は娘に向いてしまった。娘の存在を認めてもらえなかったことが、何よりも辛かった。

家を追い出された私たちは、あてどなく彷徨い歩いた。公園のベンチで途方に暮れていた時、先程は会うことのできなかった父が私たちの前に姿を現した。父は娘を預けることを提案した。そして私に大学を通い直すことを条件に、母に内緒でお金を援助する話を持ちかけた。なりたかった教師になりなさい、と父は私に語りかけた。


『教師になって安定した収入を得られるようになれば、またきっとこの子と暮らせるようになるよ』


微笑む父の顔は、先程の母とは打って変って菩薩のようだった。

娘と離れるのは嫌だった。けれど、疲れ切っていた私に、それ以外の良案が思い浮かばなかった。

父は通帳とキャッシュカード、折りたたまれた小さな紙を渡すと、娘の頭に手を置きにっこりと笑いかけ、その場を去っていった。紙には、施設の名前と住所が書かれていた。

私たちは、そのまま書かれた場所へと向かった。待っててね、と告げると、娘の小さな手を離し、いつも私の作ったクッキーを入れていたアルミの箱を握らせて、彼女に背を向けた。何があっても、けっして振り返ってはいけない。私は、涙が止まらなかった。


それから私は父からの仕送りで大学に復学し、教職の勉強をした。辞めたと思っていた大学は母に内緒で父が休学手続きをしておいてくれていたらしかった。そして私は教員免許を取得し、公立高校の英語科教員になった。それから十年。最初に勤めていた学校から五年ほど前に異動になり、母校であるこの亀谷高校へと赴任してきた。

そして今年の四月、娘がこの学校に入学してきた。入学式の受付で彼女が私の前に立った時、すぐに気付いた。高校時代の私とよく似た顔立ちに、私と同じ色素の薄い肌に明るく柔らかい猫っ毛の髪。父親譲りの榛色をした瞳。大好きだった彼の色がそこにあった。

彼女のクラスで授業をする度、廊下ですれ違う度、私は彼女を無意識のうちに視線で追うようになっていた。授業中、たまたま目が合って視線を逸らされてしまった時、責められている気持になった。捨てたくせに今更。そう言われている様で、いつも一歩が踏み出せなかった。




抱きしめた娘は、おかあさん、おかあさん、と私を抱きしめ返してくれた。それだけで、赦された気がした。


「いいかしら、お二人さん」

抱きしめあって泣いていた私たちの横には、いつの間にか高田さんがいた。


「離れ離れになってから少し時が経ってしまったかもしれない。でもあなたたちなら、そこでできてしまった溝もきっと埋めることができるわ。今からでも遅くない。だから」


帰りなさい

そしてまた抱きしめてあげなさい



彼女が私たちの頭上で左手を動かすと、私の意識は彼方遠くへと落ちて行った。



   ◇   ◇   ◇



藤森先生と城田さんが消えた今、ここには秋津君と高田さん、そして俺の三人だけが残った。高田さんは彼女たちがいた場所から視線を逸らし、それを俺たちの方へ向けると、こちらへ歩み寄る。


「城田さんが現実へ戻った今、時期にここは崩れ、あなたたちも夢から覚めることになると思うわ。だけどその前に一つ」

高田さんはにっこりと笑う。

そんな中、周りの景色がガラガラと崩れ落ちるように、消え去り始めた。

「余計なお世話かもしれませんが、浜口先生。奥さんと息子さんを今でもまだ思う気持ちがあるのなら、会いに行ってみてはいかがでしょうか」

ね、秋津先輩、と彼女は向き直り、彼へ同意を求める。秋津君は困惑した表情を浮かべていた。それもそうだろう。きっと彼は覚えていない。十七年前にあった出来事を。

俺が父親だという事実を。


崩れゆく部屋の中で、黒い世界へと侵食されるように、俺の意識はブラックアウトした。




3:放課後


キーンコーンカーンコーン


静かだった学校が、一気にざわめきを取り戻した。

時刻は12時40分。夏休み前で半日授業の今日は、これで授業が終わる。遊びに、部活に、バイトに、それぞれの放課後が始まる。



@一年B組

酒井彰子は掃除をしていた。

今日はこれから部活だが、運悪く掃除当番に当たってしまったため、仕方なく掃き掃除をしているところである。


「ショーコ!」

聞き覚えのある声で廊下から呼ばれる。声のしたほうに振り向くと、教室の出入り口のところに、阪井理人が立っていた。走ってきたらしく、息を切らせている。

「お前、なんで携帯つながらないんだよ…」

生憎、私の携帯は今お家でお留守番している。今朝、慌てて出てきたときに忘れてきたらしかった。

「すみません、家に忘れてきちゃいました。何かご用ですか?」

箒を片手に先輩に歩み寄る。すると先輩は、私に手を差し出した。

「部室の鍵!ショーコ、朝練のとき閉めたまま持ちっぱなしじゃない?」

「あ!」

私は慌ててスカートのポケットを探った。もたもたとしているうちに、先輩のイライラが募ってきたらしい。私の腕と、たまたま近くにあった私のカバンを引っつかむと、問答無用で教室から引っ張り出された。教室からは、後はやっとくねー、とクラスメイトの声が響く。心の中でクラスメイト達に御礼をしつつ、先輩に腕を引っ張られながら、私は部室へと急いだ。



@美術部部室前

二人の男女がすごい勢いで僕の横を走り去っていった。たしか男のほうは同じ学年の阪井だった気がする。

僕は溜め息をつきながら部室の鍵を開けた。どこかで当たって砕けろとか言われた気がするが、チキンの僕にいったいどうしろって言うんだ。

二度目の深い溜め息をつきながら、ドアを引いて入ろうとしたところで、よく視線で追っていた、かの美人が横を通り過ぎようとした。

「あ、細山先輩…」

思わず名前を呼んでしまった。あーくそ、あんな変な夢なんか見ながら授業中うたた寝なんかするから…

僕が思い切り後悔していると、細山先輩のほうから声をかけてくれた。

「あら。私のこと憶えていてくれたんだ、木下くん」

「え、」

僕は一瞬思考が停止する。

「え、なんで僕のこと知って…」

僕が有名人の細山先輩を知っているのはともかく、この一学年八クラスもあるのマンモス校で、学年の違う生徒を覚えていることはかなり稀だと思う。部活が一緒ならまだしも、先輩は陸上部で、僕は美術部。知っていることはかなり不思議だ。

僕が動揺していると、先輩はくすり、と笑った。

「だって、中学一緒だったじゃない。それに中学時代はずっと委員会も一緒だったでしょ?」

ふふ、と微笑む細山先輩は女神のような輝きだった。だけど…

「それだけで?」

この高校は僕達の通っていた中学の学区内にあるため、上がってきた生徒は比較的多い。そんな中で僕を覚えているということは、つまり、先輩は全員覚えている可能性も…

「もちろん、それだけじゃないんだけどね」

先輩はまたしても女神の微笑を僕に投げかけ、そしてこの場を立ち去ろうとした。

「あ、あの、細山先輩!」

そして僕は、またも先輩を呼び止めてしまう。先輩は振り返る。

「なにかな?」

先輩は最上級の微笑を浮かべていた。

「あ、あの…僕は、先輩のことが……好きです!」

言ってしまったぁ…

勢いだけで。もう後には引けない。どうする、僕。

先輩の顔を直視できずにうつむいていると、彼女の唇から僕の耳の劣化を疑う単語がつむぎだされた。

「私も」


神様、これはまだ夢の中ですか?



@職員室

4時になった。俺は早々に仕事を切り上げて、職員室を後にした。職員玄関を出て、足早に校門に向う。門を出たところで携帯を取り出し、ここ数年一度もかけていなかった電話番号をプッシュした。

耳元でコールが鳴り響く。3回なったところで、電話の向うの相手が受話器をあげた。

『…もしもし?』

久方ぶりに聞く、一番愛する女性の声。元妻のそれは、少し疲弊しているように聞こえた。

「浜口だが…久しぶりだな。元気にしているか?」

声が震え、緊張が走る。

「えっと、その、少し時間あるか…?」


妻は今、電話越しにどんな表情をしているのだろうか。



@市内某所の児童養護施設

今日はバイトもなかったのでそのまま帰ってきたわたしは、頭に霧のかかったようなもやもやを抱えていた。たぶん原因は、ついうっかり四限目の授業中にうとうとしてしまった時に見た夢なのだろうが、如何せん内容を全く覚えていない。いつもは集中できるのに、勉強も手につかない状態だ。このままではまずい。高校を続けられるかがかかっているのだ。気を取り直して教科書に向き直った時、不意に後ろから私の名を呼ぶ声がした。


「桜ちゃん、ちょっと来てくれる?」

院長先生が手招きしていた。ついていらっしゃい、と歩き出した背を追いかけていくと、応接室へ通された。来客用のソファには女性が一人座っている。その人は、私が入ってきたことに気がつくと、おもむろにふり返った。


「ふじもりせんせ…?」

そう呟くと、彼女は痛い顔をした。

違う。この表情知ってる。私が最後に見た…


「おかあさんっ」

母の顔。別れ際の、忘れもしない、あの何かを堪えるような表情。

私は、母の胸に飛び込んだ。



@文芸部室

『今回の事件は、一年E組の生徒である城田桜の望みが学校中のたくさんの小さな望みを集めてしまい、ひとつの大きな夢に化け、生徒達や先生方を閉じ込めたものであった。』


夕暮れの、朱に染まった日の光が差し込む部室。ユキトはそこで、旧型ノートパソコンを駆使し今日起こった事件についての報告書を作成していた。


「みんな、いろんな望みがあるのね…」

ソファーに転がっていた美幸が、ぽつり、とつぶやいた。

「姉ちゃんは何か叶えたいものがあるの?」

パチパチとキーボードをはじく幸人は、ごろごろとソファーで寝そべる姉に問いかける。

「んー、なんかさ、今更ながらに、普通の生活って憧れるよね」

えへへ、と笑いながら、頬をぽりぽりと掻く。

「普通の高校生を送るの。授業受けて部活やってバイトして、卒業して大学行ったり就職したりしてさ。そのうち誰かを好きになって結婚して子どもを生んで。そういう時間を過ごしてみたいなってちょっと思っちゃった」

だけど、それがもう叶わない夢だということは、美幸も幸人も重々承知である。このセカイの理を犯し、彼女を、大切な人を守ると決めたその瞬間から、彼らの時は歩みを止めた。

進み続ける時の中で、取り残されてしまった二人の姉弟。


「それでも、」

幸人はキーボードから手を離し、美幸のほうへ振り返った。


「僕は姉ちゃんのいるこのセカイに在りたい」

それが僕の望んだことだから。

幸人はにっこりと微笑んだ。

「ありがとう」

美幸もつられて笑顔になった。


今ここに、あなたとともに在ることの幸せ。










?:?



「はぁ」


休憩室のベンチに腰掛け、俺はため息を漏らした。




「隣、いいかね」

低くやわらかな声が頭上から降ってきた。見上げると、室長の堤さんが缶コーヒーを二つ抱えていた。俺は座っていたベンチの片側により、一人分のスペースを開けた。そこに堤さんがどっかりと腰掛ける。そして持っていた缶コーヒーの一つを俺に渡すと、もう一方を開けてぐびぐびと飲み始めた。


「ユキトの報告書を読んだよ。大変だったね」

やはりそのことだったか。俺は持っていた缶コーヒーをベンチの開いているスペースに置いて、頭を下げた。

「すみませんでした。元はと言えば俺が」

そこまで言いかけて、堤さんが首を振った。

「確かに引き金を引いたのは城田桜だったかもしれない。けれど、あの場所にも問題があるんだ。君の所為だけじゃないよ」


だから自分を責めないでほしい。


堤さんはそう言って微笑んだ。




もし、十七年前に俺が罪を犯さなければ、彼女を助けなければ、今回の事件は起きなかった。そうしたら桜は、存在しなかったのだから。

本来ならば生まれることのなかった命。在るはずのない存在。そういうものがいる場所には歪が起きやすい。そして、このような事件が起こる。今回は過去に俺の犯した罪が原因で、千人もの生徒や先生が巻き込まれた。一歩間違えば、永遠に夢から覚めることができなかったかもしれないのだ。


「そもそも、あそこは歪ができやすい環境にある。あの場所に吸い寄せられるようにやってくるいろんなモノたちのおかげでな。だからミユキとユキトに居てもらっているんじゃないか」

そう、あの地域にはそういった類のモノが多い。紛れ込んでいる。自己の意志の有無を問わず。だから、事態の予防と収拾にあたるために、彼らをあの場所へ送った。


「何はともあれ、彼女、また娘と一緒に暮らすことができそうで良かったじゃないか」


めでたしめでたし、と堤は休憩室を去っていった。

その件については、良かったと思う。だけど、叶うことなら俺も一緒に在りたかった。ともに時を歩みたかった。けれど彼女と俺はもう、同じセカイにはともに存在することはできない。この世の理がそれを赦さない。本来ならば、彼女が生き残るという選択肢はなかった。あの場で突っ込んできた車に撥ねられて、彼女の人生は強制終了の道を歩む予定だった。しかし、俺にはその現実を覆す力があった。禁じられたものではあったが、彼女を救う方法はそれしかなかった。俺は彼女の存在しないセカイに、存在し続けたくなかった。だから俺は禁を破り、彼女の未来を変えた。結果として俺は今ここにいるわけであるが。

それでも、彼女たちを助けたことは後悔していない。彼女は俺にとって、それほどの存在だった。そして、彼女から生まれた俺たちの娘も。



桜、生まれてきてくれてありがとう。

美和、幸せにできなくてごめん。

俺はあなたたちのことを愛しています。

叶うのならば、ともに過ごす時間がほしかった。


それでも、たとえ歩む道は違っても、あなたたちが在ること。

それが俺の幸せ。


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