第四章 過去から逃れる術はなく chapter-2
強制連行を余儀なくされたディーンが辿り着いたのは、街の外壁近くにある廃材置き場のような所だった。未だ微かに見えている『テルノアリス城』の姿と、太陽の位置から考えると、どうやらここは街の南東、丁度外壁の角の部分のようだ。
いくら人が大勢いるこの都市とはいえ、さすがにここまで来ると人気は全くない。
「ここまで来れば問題ないだろう。それじゃあゆっくり話そうか、少年」
背後でアーベントが立ち止まるのを感じて、ディーンは前方に進んで距離を取り、振り返った。
すると、アーベントはゆっくりとした動作で深く被っていたフードを捲った。短く尖った山吹色の髪が現れ、不敵な笑みを湛えた男の顔が露わになる。
「昨日と同じ質問をもう一度させてもらう。貴様は一体何者だ? ミレーナ・イアルフスとどういう関係にある?」
悠然と佇むアーベントの動きに警戒しつつ、ディーンは意を決して口を開く。
「ミレーナは戦争孤児だった俺を拾い、育ててくれた恩人だ。それと同時に、魔術を教えてくれた師匠でもある」
「ほう……、親代わり兼師匠とはな。また随分と慈悲深い行いをしたものだ」
「あんたの方こそ、ミレーナとはどういう関係なんだ?」
「白々しい質問だなぁ、イアルフスの弟子。薄々勘付いてはいるんだろう?」
アーベントは語りながら、警戒するディーンの隣を歩いて通り過ぎていく。
「『倒王戦争』の生き残り、なのか」
「ああ、その通りだ。俺は『魔王軍』、あの女は『反旗軍』。陣営こそ違うが、共にあの戦を生き抜いた人間だ」
立ち止まり、ディーンの方を振り返るアーベントは、再び不敵な笑みを見せた。
「奴とは戦場で何度も顔を合わせた。だからこそ、誰よりも『深紅魔法』のことは知っている。あの女の忌々しい魔法は、今でも脳裏に焼き付いているからな。しかしまさか、それを操る全くの別人が現れるとは、夢にも思わなかったが……」
余裕を感じさせるその表情に少々の苛立ちを覚えながら、ディーンはアーベントを睨み付け、再度問い掛ける。
「ミレーナは今どこにいる。あんたなら居場所を知ってるんじゃないのか?」
「ほう……。貴様がそんな台詞を吐くということは、どうやら『あの噂』を耳にしたようだな。なるほど、それは弟子の立場からすれば、さぞ心中穏やかではいられまい」
「はぐらかすな! ミレーナはどこだって聞いてんだよ!」
「さぁ、どこだろうなぁ。噂通りその辺の村か街で、テロリストと仲良く戯れているんじゃないのか」
「てめぇ……!」
嘲るようなアーベントの態度に、ディーンは自制心が緩くなっていくのを感じた。
身体に熱が籠り始める。少しでも油断すると、感情が一気に爆発してしまいそうだ。
「そう熱くなるな。心配せずとも、『首都』を相手にした戦は直に始まる。余分な熱さはその時まで取っておけ」
敵愾心を剥き出しにするディーンを制するかのように、アーベントはあくまで落ち着き払った口調で語る。
余裕を感じさせるアーベントの言動。その全てが癪に障るディーンだったが、彼の言うことも一理ある。憤りを感じているのは確かだが、ここで冷静さを欠くべきではないだろう。
小さく、静かに息を吐き、ディーンは高ぶり掛けた心を落ち着かせる。
「あんた、本気で王族を殺すつもりなのか」
「無論だ。その為に、俺はこうしてここにいる」
「現政権の顛覆なんてくだらない真似して、一体何がどうなるってんだ?」
「はて……、問われている意味がわからないな」
言いつつアーベントは、心底呆れたような表情を見せた。気だるそうに右手で頭を掻いたかと思うと、だが次の瞬間には、ディーンの心臓を射抜くかのような鋭い眼差しを向けてくる。
「どういう意図があってそんな質問をしている? 王族を殺そうとする俺を制止する為か? それとも俺の行いを愚行だと決めつけ、否定する為か? だとすれば失笑を禁じ得ないぞ少年。どうやら貴様は、何もわかっていないようだな」
「何だと?」
「何かを変えることが目的なのではない。戦いを求めることに、戦うことに意味があるのさ。あの戦争で歪んでしまった俺のような人間は、所詮そうすることでしか己の『存在意義』を確かめられない。――それは少年。魔術師である貴様自身にも言えることだぞ」
ディーンの周囲をゆっくりとした歩調で回りながら、アーベントは躊躇う素振りも見せずに続ける。
「魔術師とは歪んだ存在だ。殺傷に特化した自らの技術を使い、他者の命を奪う。そんな悍ましい行為がこの大陸で、一体どれだけの間続けられてきたと思う? 永きに渡る争いで数が減少しているにも拘らず、未だに魔術師が存在し続けているのはどうしてだと思う? ……答えは簡単だ。魔術師となった者達も皆、戦いを求めているからだよ。他者と争い、戦うことでしか己の『存在意義』を見出せない。俺と貴様の間には、区別できる差など何一つないのさ」
「そんなこと――」
「貴様の親であり、師匠でもあるというミレーナ・イアルフスはどうだった? 今の貴様のように、胸を張って違うと否定していたのか?」
「!」
即座に否定しようとしたディーンは、その言葉で口を噤んでしまう。
そんなディーンの反応を面白がっているかのように、再び正面に立ったアーベントは、不愉快な笑みを浮かべてみせる。
「フッ、どうやら思い当たる節があるようだな」
思わずとはいえ黙り込んでしまった自分自身に苛立ちを覚え、ディーンは奥歯を強く噛み締める。
実際、アーベントの言葉は的中していた。
ミレーナはディーンの前で、一度たりとも自身の立場を誇ったことなどない。常日頃から繰り返し、自らの存在をただの人殺しだと言って蔑んでいた。
自分は決して、称賛されるような立派な人間ではない、と。
恐らく、彼女は否定し続けていたのだ。
人を殺す為に造り出されてしまった技術を。
自らが手にした力である、魔術を。
ディーンは、そんな師匠の姿を見ていたくなかった。自分を蔑む言葉を吐き続ける彼女を目にするのが、耐えられなかった。
だからディーンは、自分が魔術師になって証明しようと決めたのだ。
魔術は人を殺す為だけの技術ではない、と。
無論、そんな経緯を目の前のこの男は一切知らない。知っている訳がない。だからわからないのだ。
一体ディーンが、どれだけミレーナとの誓いを大切に想い続けているのかが。
「貴様も認めてしまえば楽になるぞ? 俺『達』は、互いに戦いを求め続ける存在なのだと。そして理解するんだ。戦いを、争いを求める為には、それを奪おうとする現政権、元老院や王族の者共を抹殺するしかないとな!」
アーベントは愉悦に塗れるかの如く、感情を高ぶらせながら語る。
だが、感情が高ぶり始めているのはこちらも同じだった。
「……何もわかってないのはあんたの方だろ」
拳を硬く握り締め、ディーンは口を開く。
胸の内に、煮え滾るような熱い感情を生み出しながら。
「邪魔だから殺そうってのかよ。戦いを求める為なんて、そんなくだらない理由で、ミレーナが……『英雄』達が必死の思いで作った今の平和を、あんたはブチ壊そうって言うのか?」
溢れ出る怒りに任せて、ディーンはアーベントを強く睨み付けた。
だが、意に介した様子のない敵対者は、氷のように冷たい眼差しでこちらを見つめ返してくる。
「フン、『平和』だと? 貴様は一体、この世界の何を見ている? どこを見てそう言っている? 戦争と呼ばれない争いなど、この世界のどこにでも存在しているだろう。それこそ数え切れぬ程にな。それを無視して貴様は、『世界は平和だ』などと綺麗事を抜かすのか? クク、何とも傲慢な考え方だな。――覚えておくがいい。争いのない世界など、所詮は夢物語に過ぎんのだ。争いが生まれることで戦いが起こり、戦いが起こることで戦争へと繋がるのさ」
「ふざけんな! あんたのその言葉こそが傲慢だ! 戦いを起こそうとしてる張本人が、そんな台詞吐いてんじゃねぇよ!」
「クク、何とでも言え。すでに戦いの準備は整っている。我々を止めたければ、力尽くで止めてみせろ、イアルフスの弟子!」
アーベントが高らかに叫んだ、その直後だった。周囲の路地から、ディーンを取り囲むかのように複数の足音が聞こえてきた。
現れたのは、黒いマントに身を包み、フードで顔を隠した六人の人間。容姿も性別もはっきりしない人物達は、不気味な程無言のまま、ディーンを見据えて佇んでいる。
ディーンは炎剣を造り出す為、ほんの僅かに右手へと意識を向けつつ、正面のアーベントを見据えた。
「大人数で嬲り殺そうって訳かよ? 見た目通り悪趣味なんだな、あんた」
「褒め言葉として受け取っておこう。心配しなくても、こいつらはただの見物人だ。貴様の相手は、直々にこの俺がしてやる」
そう言って、アーベントは黒いマントの内側からロングソードを抜き出した。切れ味の良さそうな刀身に、彼の不敵な笑みが映り込む。
それを合図と受け取って、ディーンは突撃を開始した。発生させた炎が右手に集束し、一瞬で紅い剣へと姿を変える。
振り翳した炎剣を、一気呵成に振り下ろす。
それで全ては決する。アーベントのロングソードは、爆炎によって刀身が砕け散るのだから。
だがディーンの予想に反して、アーベントは後退しようとしなかった。上段から放たれる一撃を、下段からの逆袈裟斬りで迎え撃つ。
両者の攻撃が、衝突した瞬間だった。
目の前の光景に、ディーンが衝撃を受けたのは。
(……!? 爆炎が、発生しない……!?)
『深紅魔法』によって造り出された炎剣には、触れた物に対して爆炎を齎す能力がある。だがその能力は、いつまで経っても発動する気配がない。通常の剣同士が衝突した時のように、ただ鍔迫り合いの状態が続くばかりだ。
「不思議で仕方ない、と言いたそうだな」
「!」
ディーンの表情から内心を悟ったのか、アーベントは不敵な笑みを浮かべて言う。
的確に的を射た発言が、ディーンの顔を露骨に顰めさせる。
「その炎剣、『紅蓮の爆炎剣』の能力が発動しないのは、俺の持つこの剣が特別製だからだ」
「何?」
「『導力石』だよ。あの石は『魔術兵器』を造り出す為の重要な鍵となる代物だが、複数の使い道がある。その一つが、魔術に対する耐性を、あらゆる物質に備えさせるというものだ」
その恩恵が、この結果を招いたということなのか。
ディーンとアーベント。両者の間で鍔迫り合う刀身が、ギリギリと耳障りな音を発している。
「勉強不足だなぁ、イアルフスの弟子。『首都』を叩こうとする以上、敵側に魔術師がいる可能性を考慮しない訳がないだろう?」
アーベントを睨み、小さく舌打ちするディーン。炎剣による攻撃が無意味なら別の手を打つまでだと、ディーンは剣を弾いて後退し、アーベントから距離を取る。
こうなるともう、油断はできない。『導力石』を用いた特別な武器まで準備しているこの男のことだ。まだ何か隠し玉を持っている可能性は充分にあるだろう。
すると案の定、アーベントが愉快そうな笑みを湛えながら、不審な動きを見せる。
「さて、物はついでだ。貴様に一つ、面白い物を見せてやろう」
「……!?」
意味深な発言をするアーベントを、ディーンは怪訝に思いながら見つめ、同時に警戒する。
すると、彼はマントの内側から銀色の分厚い鎧を纏った左腕を出し、それを胸の前に掲げてみせた。
その瞬間、『それ』は出現した。
ゴウッという音がしたかと思うと、鎧に包まれたアーベントの左手の部分に、激しく燃え盛る真っ赤な炎が発生したのだ。
何をどう見ても、自然現象などではない。あれは間違いなく、魔術によって引き起こされた現象だ。
「あんた、魔術師だったのか?」
「いいや。残念ながら、俺は魔術を扱う素質を持ってはいない。だが『こいつ』のおかげで、魔術の真似事くらいならできるようになったのさ」
そう言ってアーベントは、左手に炎を灯したまま、左腕の前腕部分をディーンに見えるようにした。
するとその部分にだけ、奇妙な形をした記号のようなものが彫り込まれている。
五つの菱形を四つの線で結んだ、十字型の記号。魔術に詳しくない者が見ても、それはただの落書きにしか見えなかっただろう。
だが魔術師であるディーンは違う。その文字の、記号の意味が理解できる。
(なるほど。『印術』か)
それが意味するものは、炎。
魔術の力を記号として刻み込んだことにより、アーベントの左腕の籠手には、炎を生み出す能力が備わっている訳だ。
「一体そんなモン、どうやって手に入れたんだ?」
「金に飢えた魔術師に、報酬をやると言って造らせたのさ。貴様も見ていただろ? 昨夜の遺跡で俺が殺した、あの男だよ」
不敵に語るアーベントの言葉で、ディーンはようやく謎が解けた。
昨夜アーベントが長髪の男から受け取っていた、白い布に包まれた何か。あれは『印術』の彫り込まれた、この籠手だったのだ。
炎を灯した左手を、アーベントは興味深げに見つめる。
「しかし面白いものだな。今初めて実感したが、炎を生むとはこういう感覚なのか。術者は自身の炎の熱を感じないと聞いてはいたが……。何事も試してみなければわからんものだ。なぁ、イアルフスの弟子!」
「!」
愉悦と狂気に溺れた表情のまま、アーベントは左手を前方へと突き出した。
瞬間、その動作に合わせて勢いを増した炎が、紅い波涛となって襲い掛かってきた。
ディーンは咄嗟に、身体を捻ってそれを回避した。
この局面でその行動を取ることが、いかに愚かなことかを理解しないままに。
「クハハハハハ! これは何ということだ!」
短絡的なディーンの行動を目にした瞬間、アーベントは盛大な高笑いを上げる。
「『深紅魔法』の使い手が炎を『避けた』! まさかとは思っていたが、ミレーナ・イアルフスの弟子ともあろう者が、『紅の詩篇』を使えないのか!? クハハハハハ! 滑稽だな少年!」
「……ッ!」
余計な情報を与えてしまったと、そう気付いた時にはすでに手遅れだった。
この男は、ミレーナのことを深く知っているが故に、『深紅魔法』のことも熟知している。そんな人間の前で『炎を避ける』という行動を取れば、『紅の詩篇』が使えないのだと見抜かれないはずがない。
自分に対する迂闊さと、どうにもならない未熟さに苛立ちを覚え、ディーンは歯を食い縛った。
「ククク、その程度の腕でよく魔術師を名乗れるものだ。『深紅魔法』の使い手が聞いて呆れる。――あの女め。弟子にする人間を見誤ったようだな」
「うるせぇ!」
失望したと言わんばかりに落胆した様子のアーベントに、ディーンは猛然と斬り掛かった。
だがアーベントは、上段からの攻撃も、下段からの攻撃も、軽く身を捻るだけで躱してしまう。
それでもディーンは、攻撃の手を緩めない。どんなに躱されても、斬撃を放ち続ける。
「ミレーナを侮辱すんな! ミレーナは……、俺の師匠は偉大な人なんだ!」
「偉大だと? クク、笑わせるな。所詮、罪の意識から逃れる為だけに貴様を拾った人間が、本当に偉大だと言えるのか?」
「! 何だと?」
聞き捨てならないアーベントの台詞に、ディーンは思わず攻撃する手を止めてしまう。
それを狙っていたかのように、アーベントは呪いの如き言霊を口にする。
「貴様もあの女から聞いているはずだ。奴は戦争中、多くの人間の命を奪った。奴自身、それを悔やんでいたんだろう? だから奴は貴様を拾ったのさ。せめてもの罪滅ぼしにと、戦争孤児だった貴様を育てることで、人殺しという罪の意識から逃れようとしただけだ。そんな矮小な考えしか持てない人間の、一体どこが偉大だと言うんだ?」
「なっ……!?」
息を呑むには、充分過ぎる衝撃だった。
ミレーナが自分を拾ってくれた理由。それがもしも、アーベントの言う通りだったとしたら。闇のように重く暗い感情が、心の内にあったとしたら。
かつて自分が目にしてきた師匠の言葉は、表情は、それを物語っていたのではないか。
『私はただの人殺しよ』
「……違う」
『決して称賛されるような立派な人間なんかじゃないわ……』
「違う……! 違う違う! ミレーナは……、ミレーナはそんな人間じゃねぇッ!!」
全身を縛り付けるような不信感を振り払い、ディーンは叫びながら突進する。
目前に迫ったアーベント目掛けて、力任せに振り下ろした炎剣。
だが感情任せで単調な攻撃であるそれは、相手に難無く受け止められてしまう。
再び鍔迫り合う刀身の向こう。ディーンを見据えるアーベントの顔には、まるで哀れむかのような表情が浮かんでいる。
「全く、愚かとしか言いようがない。どうやら貴様は何もわかっていないようだな。この世界の理どころか、己の師匠のことすらも!」
鍔迫り合いの状態から、鎧を纏ったアーベントの左手が、ディーンの胸の中心に押し当てられた。
瞬間、視界を埋め尽くす紅い色。発生した炎の渦がディーンの身体を巻き込み、波濤となって容赦なく後方へと吹き飛ばす。
「があっ!」
数メートル程地面を転がされ、二転三転する視界。
やがてその身体が止まった所で、ディーンはどうにか上半身を起こし、自分の身体を確かめてみる。
炎の魔術を操る彼は、『炎属性』の攻撃に対して耐性を持っている為、普通の人間と違って、ある程度の炎には耐えられるようになっている。服のあちこちが炎に焼かれ、軽い火傷を負ったようだが、戦えなくなる程ではない。
ディーンはすぐさま立ち上がって、相対するアーベントを強く睨んだ。
「俺のことなんかどうだっていい。あんたは俺の師匠を侮辱した。その事実だけで充分だ!」
ギリッと、右手に生まれたままの紅い剣を強く握り締める。
そう、もう充分だ。例え魔術に耐性を持つ剣を携えていようと、炎を生み出す籠手を備えていようと、絶対に目の前の男を倒す。
大切な人を侮辱するような人間に、絶対に負ける訳にはいかない。
「フン、くだらん。本当に愚かだな、イアルフスの弟子。……いや、貴様のような愚か者など、弟子と呼ぶには値しないな」
心の士気を上げていたディーンを嘲笑うかのように、アーベントは吐き捨てる。心底つまらなそうな表情を浮かべ、彼は平坦な口調でこう続けた。
「そうやって目の前のことにしか気を配らないから、大事なものを見落とすんだよ、貴様は」
(……? 何を言って――)
アーベントの言葉の意図を見抜けず、訝しく思ったその瞬間だった。
「ディーン!」
裏通りに響き渡った、聞き覚えのある声。自分の名前を呼ばれて、ディーンは初めて気が付いた。
廃材置き場の入口付近に、リネが心配そうな顔をして佇んでいることに。
(あのバカ! 何だってこんな所に……ッ!)
一体いつからそこにいたのか、ディーンには全くわからない。アーベントの言う通り、彼はそれだけ目の前のことにしか意識を向けていたなかったのだ。
最悪の状況だと歯噛みするディーンを見据え、あろうことか、リネはこちらに駆け出そうとしてくる。
「バカ野郎! 来るんじゃねぇよ!」
自ら死地へと赴こうとする少女を、ディーンはほとんど怒鳴り付ける形で制止した。あの少女を、危険な目に遭わせる訳にはいかなかった。
しかし、だからこそディーンは見落としてしまったのだ。
視線を逸らした僅か数秒の間に、懐へと接近していたアーベントの姿を。
「戦闘中に余所見とは、命知らずにも程があるぞ!」
「――ッ!」
捨て台詞と共に放たれた、左下段からの逆袈裟斬り。
防御も回避も、不可能だった。
気付いた時には斬撃を浴びせられていて、身体がほんの少し宙に浮く感覚がして、最後には地面に叩き付けられていた。
「あッ、ぐっ……!?」
途端、胸の辺りに焼けるような痛みを覚え、思わず右手で庇うディーン。いつの間にか炎剣が消え去っているというのに、ディーンの思考は全く別の方向に向いていた。
胸を庇った時、右手が感じ取った滑り気のある不快な感触。自分の掌を見て、ディーンは息を呑んだ。
紅い液体が、流れ出たばかりの鮮血が、右掌を悉く汚している。
「ぐっ! がはぁッ!」
上半身を起こそうとして失敗したディーンは、我慢することもできずに吐血した。
身体が熱くて堪らない。全身から刺すような汗が噴き出している。
致命傷を受けたのは間違いない。このままでは――
「いやああああああぁぁぁっ!!」
朦朧とし始める意識の中、誰かの悲鳴が聞こえてきた。地面に倒れたまま、何とか首を動かして、ディーンは声のした方を見やる。
その瞬間、悲痛な表情を浮かべたリネと目が合う。彼女はディーンの許まで走ってくると、両膝をついて顔を覗き込んできた。
「ディーン! しっかりしてディーン! 死んじゃダメ!!」
黒真珠のような瞳から、流れ落ちる大粒の涙。必死な様子で叫び続ける少女の姿から、ディーンは目が離せなくなった。
ずっと距離感を図りかねていた。どうしても心を許し切れない自分がいた。
リネがそれに気付いていたかどうかはわからない。だが彼女は、いつだって明るく笑い掛けてくれた。
ディーンには怪我してほしくない。
知り合ったばかりの頃、彼女にそう言われて面食らったことを覚えている。経緯はどうあれ、リネはいつだって、ディーンの身を案じてくれていたのだ。
(くそ……。何で今更こんなことを……)
彼女に何か言ってやりたい。そう思うのに、声が上手く出せない。それどころか、瞼まで重くなり始めている。
もう一度立ち上がって戦いたい。師匠を侮辱した男を、アーベントを倒したい。
だがどれだけ強くそう願おうとも、身体の力は徐々に抜けていく。立ち上がるどころか、指の一本すら動かせなくなっていく。
もう自分は、自分の命運は、ここまでなのだろうか?
そんな思いが、胸の内に湧き上がった時だった。傍らで涙を流し続けていたリネが、左手で両目を乱暴に拭うと、意を決したように両手に嵌めているグローブを外し始めた。
何をする気なのかと疑問に思った直後。ディーンはふと、ある物を視界に捉えた。
それは、グローブを外したリネの両掌。その中心に、大型の鳥が翼を広げているかのような、不思議な形の痣がある。
左右共に、大きさも形もやけに整っているせいか、普通の痣とは何かが違うように感じられる。
「リ……、ネ……?」
酷く掠れた声で名前を呼ぶと、リネは優しく微笑み返してきた。
見る者を釘付けにしてしまいそうな、切なさを混じえた表情で。
「安心して、ディーン。あなたはあたしが助けるから」
そう言ってリネは、両掌をディーンの傷口の上に翳した。
その瞬間だった。
突然、両掌の痣が光を放ったかと思うと、リネの身体から、ランプの灯火のような淡く優しい光がいくつも発せられ、まるで吸い寄せられるかのように、ディーンの全身を包み始めたのだ。
ずっと昔、ミレーナに抱き締められた時のような心地良い感覚が、ディーンの身体を満たしていく。ふと気付けば、焼けるような熱さと痛みを感じなくなっていた。
訳がわからないまま、ただ呆然とリネの顔を見つめるディーン。
と、そんな彼の耳に、アーベントの声が聞こえてきた。
「他者の傷を癒す、だと……!? 貴様、なぜ当たり前のように『治癒魔法』が使える!?」
「!」
驚愕している様子のアーベントから発せられた言葉が、ディーンにも衝撃を齎した。
なぜ魔術師が、人殺しと揶揄されるのか。その理由の一つが、魔術そのものの性質にある。
魔術とは、悉く殺傷に特化した技術であるが故に、人を生かし、活かすという概念を一切持ち合わせていないのだ。それはつまり、『回復』や『転移』といった、他者の助けになり得る能力を有していないということに他ならない。
そんな側面があるからこそ、魔術師は人殺しだと揶揄されることがある訳だ。
だというのに――
(一体何者なんだ、お前は……?)
目の前の少女は魔術師ではない。仮に魔術師だったとしても、存在しないはずの力を行使できるはずがない。
ならば彼女は何者なのか。彼女が行使しているこの力の正体は、一体――
(……いや、待てよ。確かミレーナが……)
朦朧とする意識の中、ディーンはふと過去の記憶を思い出した。
それは魔術師として、師匠ミレーナから伝え聞いた知識。
かつてこの大陸に存在していたという、生まれながらに特異な能力を持っていた、とある一族の話。
まさか、とディーンは思う。
「クハハハハハハハ! そうか、そういうことか! これが事実ならば何という巡り合わせだ!」
つい先程まで訝しげな顔をしていたはずのアーベントが、突然愉快そうに笑いながら、リネへと視線を送る。恐らく彼も、ディーンと同じことを考えているのだろう。
「女! 貴様、『妖魔』一族の生き残りだな!?」
アーベントが高らかに発した瞬間、リネが辛そうな表情を浮かべたのを、ディーンは見逃さなかった。
『妖魔』一族――。
大昔、この大陸で起きた『魔術戦争』の時代から存在していたとされる、特殊な力を持った人間達。
その特殊な力というのが、『治癒』。
他者を救う補助的な力を一向に生み出せなかった魔術師とは対照的に、『妖魔』一族は生まれながらにして、その能力を有していた。
だが、本来ならそれは有り得ない話だ。
魔術とは、鍛錬や修練によって後天的に手に入れる力である。故に『妖魔』一族のように、先天的に力を有することなど、普通は考えられないことだ。
或いはその力は、魔術とは違う別の何かなのかも知れない。
……と、かつて師匠はそう語り、続けてこんなことを口にした。
だからこそ、一族は命を狙われる羽目になったのだ。
自身にとっての反乱分子になるかも知れないと危惧した、前テルノアリス王に、と。
かつての『魔王』が行ったのは、大量虐殺。反乱分子になるかも知れないという理由だけで、一族は男も女も子供も老人も、無慈悲なまでに抹殺されたという。
その虐殺は止まることを知らず、ミレーナ達が前テルノアリス王を倒す頃には、『妖魔』一族は滅亡していたそうだ。
だが、どうやらその一点だけは、誤った情報だったようだ。
現に滅亡したはずの一族が、『治癒』の力を使っている少女が、目の前にいる。
ディーンもよく知っている少女、リネ・レディアが。
「お……、前……」
悲劇的な滅亡を遂げた一族の生き残り。これこそが、彼女が自身の生い立ちを語ろうとしない理由だったのか。
魔術師に何か因縁があるのか?
以前ディーンがそう尋ねた時、リネの表情に陰りが差したことがあった。
その理由は恐らく、彼女の村を襲撃した『魔王軍』の中に、少なからず混じっていたからだろう。
殺戮を、簒奪を、破壊を由とする冷徹な魔術師が。
『倒王戦争』の折、『魔王』側にも魔術師が所属していたことは、当時のことをあまり語りたがらなかったミレーナでさえ、幾度となく口にしていた。
それは史実であり、事実であり、この少女にとっての真実だったのだ。
絞り出すように声を出したディーンだったが、掛けるべき言葉が見つからない。何をどう慰めればいいのかわからない。
そんなディーンの葛藤を見透かしたかのように、リネは切なそうな笑顔のまま、静かに口を開く。
「やっぱりディーンも知ってたんだね、『妖魔』一族のこと。……そう。あたしはその生き残りって訳。いつか、ちゃんと話そうと思ってたんだけど……」
ごめんね、こんな形になっちゃって。
そう呟くと、リネは徐々に微笑みを消した。そこにはもう、悲しげな表情しか残っていなかった。
彼女の表情に目を奪われていたディーンは、そこでふと気が付いた。
いつの間にか全身を包んでいた温かな光が消え、胸の痛みが全くなくなっている。だがどういう訳か、依然として意識は朦朧としていて、身体を動かそうとしても上手く動かない。
「怪我人の治療ご苦労、と言いたい所だが、まさかこの状況で逃げられるとは思っていないだろうな?」
絶望を齎す声が、すぐ傍から聞こえてきた。いつの間にか接近してきていたアーベントは、ロングソードの刀身をリネの首筋に向けている。
「そんなこと、あなたに言われなくてもわかってるよ。……だから、あたしと取引して」
「取引?」
首筋に凶器が当たっているというのに、リネは物怖じした様子もなく、力強い眼差しでアーベントを見据え、告げる。
「あたしがあなたの人質になる。その代わり、ディーンのことを見逃してほしいの」
「!?」
突然リネが言い放った言葉に、ディーンは耳を疑った。
一体なぜ、この少女がそんな台詞を口にするのか。
何の力にもなれない、惨めな自分の為に。
「ほう……。そうまでしてその少年を助けたいという訳か」
心底愉快そうな表情を浮かべ、アーベントは倒れているディーンを一瞥した。
「だが貴様が人質になるというだけでは、見返りとして些か安過ぎる。その覚悟は素直に評価してやるが、条件を呑む訳には――」
「あたしの『血』を提供する、って言ってもダメ?」
「! 何……?」
言葉を遮る形でリネが切り返した瞬間、アーベントが訝しそうに眉根を寄せる。
一方、二人のやり取りを見上げていることしかできないディーンも、リネの意図が読み取れなかった。
血を提供する、とはどういう意味だ?
「『妖魔』一族のことを知ってるあなたなら、あたし達の『血』にどんな効力があるのか、知ってるんじゃないの?」
「無論知っているとも。だからこそ問わせてもらうぞ女。……貴様、本気か?」
「冗談でこんなこと言わないよ。でもその代わり約束して。今この場で、ディーンには手を出さないって」
「クククク……。クハッ、クハハハハハハハハハハハハッ!」
リネの首筋から刃を離すと、アーベントは気でも狂ったかのように笑い始めた。
倒れ伏す自分とは違い、この男はリネの言葉の意味を理解している。心底愉快げなアーベントの様子から、ディーンは即座にそう悟った。
「これは面白い! 小娘にしては中々見所のある奴だ。――いいだろう! 貴様の意気とその『血』の力に免じて、この場は退いてやる」
ロングソードを仕舞いつつ、アーベントは動けないディーンを見下すように見つめ、皮肉気な笑みを浮かべて告げる。
「命拾いしたなぁ、未熟者。この健気な少女に感謝することだ」
「……ッ!」
アーベントはリネの華奢な右腕を掴み、無理矢理彼女を立ち上がらせる。その顔には、絶望的な何かを決意してしまったような、悲痛な表情が浮かんでいる。
「待ち……、やがれ……っ」
せめてもの抵抗の意思として、弱々しく右手を伸ばして制止を試みるディーン。
だがその程度の行動で、アーベント・ディベルグという男は止まらない。相変わらず、こちらを蔑むような表情で、挑発するように告げる。
「おいおい。せっかく拾った命を無駄にするつもりか? 少しはこの少女の決意に報いてやったらどうだ」
「て、めぇ……!」
「本当に愚かで哀れだな、貴様は。まぁ、所詮はそれが貴様の限界だ。世界や師匠のことどころか、身近な人間のことさえわかっていない愚か者。そんな人間が自分の命を、況して他者の命を守れるはずがない」
「!」
「そこで不様に寝転がっていろ。魔術師気取りの未熟者が」
何も言い返せない。例え声が出せたとしても、反論できなかっただろう。
それだけアーベントの言葉に、ディーンの心は悉く打ちのめされていた。
「大丈夫だよ、ディーン」
薄れ掛かった意識の中で、リネだけが優しく語り掛けてくる。
「言ったでしょ? あなたはあたしが助けるって。あたしがこの人に付いて行けば、それで全部解決する。……だから、ディーンはゆっくり休んでて」
何だそれは、ふざけるな。何が全部解決するだ。お前が付いて行った所で、この男が『首都』襲撃を止める訳ではない。争いの火種がなくなる訳ではない。
少女に対する憤りが、不満が、沸々と胸の内から湧き上がる。
だがそのどれも、ディーンは言葉にすることができなかった。
戦うどころか、立ち上がることさえできない今の自分に、そんな台詞を口にする資格などない。
「じゃあね、ディーン」
リネを連れ戻したいと思っても、
アーベントを止めたいと願っても、
自分にはもう、何もできない。
敗北を認めてしまったその瞬間、朦朧としていた意識が輪を掛けて重くなり始めた。
意識が途絶える前のほんの一瞬。遠ざかっていくリネの背中に、いなくなってしまったミレーナの背中が重なって見えた。
そこまで至って、ディーンは今更のように気付いてしまう。
もっと早く気付くべきだった。
黒髪の少女、リネ・レディア。
自分で思っていた以上に、彼女との繋がりが、とても温かく大切なものだったんだ、と。