第三章 首都への道で chapter-1
風のように荒野を走り抜けていたディーンは、高く跳躍してその一撃を躱した。
鋼鉄でできたやや黒み掛かった巨大な拳が、轟音を上げて地面に深くめり込む。
撒き散らされる砂塵を突き抜けるように、空中で身を翻したディーンは、攻撃者から距離を取る形で着地した。花弁のように広がっていた萌葱色のマントが、少し遅れて纏まる。
彼の視線の先には、体長五メートル超はあろうかという、巨大な人型の物体が屹立している。
鋼鉄の装甲を四肢に纏い、淡く明滅する双眸のような機関を頭部に備えた、破壊の化身。
あれこそが、『魔術兵器・ゴーレム』だ。
今から四時間程前、一日宿泊した『ディケット』の街を後にしたディーン達は、つい数十分前に、荒野のど真ん中で『ゴーレム』に遭遇してしまったのだ。
鋼鉄の殺戮者たる彼らは、人間を発見すると見境なく攻撃してくる。
年齢も性別も関係なく、人間を殺す為だけに造り出された彼らは、ただ一つの行動理念によって、何百年もの間動き続けている。
『敵である人間を殺せ』
製作者から命じられた、そのたった一つの命令を達成する為、『ゴーレム』はその目に映る全ての者を抹殺しようとする。
例えその相手が、製作者と同じ魔術師だったとしても。
(それにしても、こんな時にまで『ゴーレム』に遭遇しちまうなんて、我ながら何とも……)
運のない、と嘆息し掛けた時だった。何かが弾け飛ぶような轟音が、ディーンの思考を阻害する。
音の発生源は視界の左側、二十メートル以上離れた位置からだった。
地面があちこち隆起して高低差が生まれた地形故に、見通しは利かない。が、轟音が次々と発生している理由はわかっている。
あちら側では今、ジンとリネの二人が、別の『ゴーレム』と戦っているのだ。戦況を窺い知ることはできないが、恐らく問題はないだろう。
何せあちらには、あのジン・ハートラーがついているのだから。
「――!」
やや気を逸らし掛けていたディーンは、不穏な気配を察知してその場から飛び退いた。
直後、飛来した巨大な鉄の塊が、岩盤をいとも容易く粉砕した。『ゴーレム』の右拳が容赦なく叩き付けられたのだ。
土煙と岩の破片が飛び散る中、ディーンはあくまでも冷静に後退を図る。
地面にめり込んでいた巨大な右拳を引き抜き、標的の位置を再確認した『ゴーレム』は、拳を振り上げつつ、尚もこちらへ接近してくる。
後退から一転。ディーンは右前方に向かって疾走を開始した。と同時に、彼は右手に炎を集束させ始める。
再び飛来する圧砕の一撃。
が、当然ディーンはその軌道を読んでいた。
方向転換の為、両脚に力を込めて、地面を滑るかのように急停止する。そしてすぐさま、身を投げ出すように左前方へと飛び込む。
その直後。標的を見失った殺戮の拳が、乾いた地面に激突し、轟音を響かせた。
破壊によって生じた衝撃波と砂塵を物ともせず、ディーンは前進する勢いを殺さぬまま、『ゴーレム』の足下へと疾走し続ける。
右手に集束させた炎はすでに、紅いロングソードに姿を変えている。
ディーンは炎剣――『紅蓮の爆炎剣』を握り締め、目前に迫った『ゴーレム』の巨大な右脚目掛けて、交差すると同時に、大きく真一文字に振り抜いた。
『ゴーレム』の背後へ回り込む形になったディーンは、即座に向き直り、構えを取って立ち止まる。
瞬間。ディーンが斬り付けた部分から真っ赤な炎が燃え上がり、激しい爆発を起こした。今の衝撃で僅かにだが、『ゴーレム』の身体が振動しているのがわかる。
だが、たった一撃だけでは、巨人の身体が揺らぐことはない。
白い爆煙が消え去った後、露わになった『ゴーレム』の右脚は、装甲の一部が少し抉れただけで、完全に破壊するには至っていなかった。
「くそっ、古びてるくせに相当な強度だな……。何百年も経ってんのに脆くなってないって、どういう素材で出来てんだよ」
誰にともなく愚痴を零しながら、ディーンは右手に構えていた『紅蓮の爆炎剣』を消滅させる。
炎剣が放つ爆発の威力では、あの鉄の塊を破壊するのは難しい。ならば別の手段を使うまで、と即座に思考を切り替え、ディーンは両腕が水平になるように構えた。
すると彼を取り囲むように、激しく燃え盛る炎の渦が発生し、二メートル程離れた頭上に向かって集束し始める。
虚空に浮かぶ炎の球体は、まるで夜空に浮かぶ満月のようだ。
「今度はとびっきりのヤツを喰らわせてやるぜ!」
ディーンはこちらに向き直った『ゴーレム』に、強烈な笑みを混ぜて告げた。
危険を察知したかのように、『ゴーレム』はその巨大な鉄拳を浴びせる為、地響きを立てながら向かってくる。
しかしやはり、動作の完了はディーンの方が早かった。
自身の力が濃密なまでに凝縮された炎の球体の下で、ディーンは敵を見据えつつ、大声で咆える。
「『深紅の流星』!」
口上を合図に、炎の球体は轟音を上げて弾け飛ぶと、無数の火球へと姿を変えた。そして夜空を駆ける流星群のように、次々と『ゴーレム』の許へと飛来する。
鋼鉄の身体に降り注いだ無数の火球は連鎖的に爆発を起こし、強固なはずの装甲を、まるで砂糖菓子のようにいとも容易く吹き飛ばしていく。
火球の流星群が消え去った後、残ったのは大部分の装甲を消失した、『ゴーレム』の骨組みのような身体だった。
ここまで追い詰めれば、後は一撃で事足りる。
ディーンは高く跳躍すると同時に、右手に炎を集束させ、再び『紅蓮の爆炎剣』を出現させた。
炎剣を上段に高く構え、落下の速度を乗せた斬撃を放つ。
「うおおおおぉぉぉっ!」
骨組み状態となった『ゴーレム』の頭上から、股の間まで真っ直ぐに線を引く。
ディーンが地面に着地すると同時に、発生した爆炎が巨人の骨組みを左右に分断した。
崩れ落ちる瓦礫が、激しい轟音と共に砂塵を舞い上げる。
短く息を吐き、立ち上がるディーン。彼は炎剣を消滅させながら、眼の前に転がる残骸に焦点を合わせた。
距離にして、ほんの二、三メートルだろうか。彼が見つめている瓦礫の中に、一点だけ淡い光を発している所がある。
歩み寄り、邪魔になっている細かい破片を退けると、そこには綺麗な瑠璃色に染まった正方形型の石があった。
掌に収まる大きさのそれを、ディーンはゆっくりと拾い上げ、改めて観察してみる。
この石こそが、『ゴーレム』を動かす源となっていた『導力石』だ。こんな小さな物が、五メートルを超す巨大な鉄の塊を動かしているのだから、何とも凄まじい力を持った石だと言える。
『ゴーレム』を破壊し、活動が止まった『導力石』は暴走の危険性がない為、素手で触っても問題はない。これを『ギルド』に持っていけば討伐の証として扱われ、引き換えとして褒賞金を受け取れるという訳だ。
ちなみに『導力石』の引き換えは、正規のギルドメンバーでなくても行うことができる。故にディーンは旅の合間、資金稼ぎの為に『ゴーレム』討伐を行うことが多い。
尤も、例のギルドメンバーとの衝突以来、最近はやや敬遠しがちになってはいたが。
(ま、背に腹は変えられないからな)
適当に考えつつ、ディーンは腰の辺りに下げてある革製の道具袋に石を押し込んだ。
その直後、何かが崩れるような轟音が、ディーンの耳に響いてきた。
音源を探して周囲を見回してみると、少々離れた位置で、随分と高く砂塵が巻き上がっているのが見えた。あの方向は間違いなく、ジンとリネがいるはずの場所である。
「……まさか苦戦してたりなんかしないよな?」
そんな訳ないと思いつつも、ディーンは少々不安に駆られた。
ジンが高が『ゴーレム』一体に遅れを取るとは思えないが、今回は足手纏いになりそうな同伴者がいる。絶対に大丈夫だと楽観視するには、些か材料が心許ない。
最悪の事態を想定しつつ、ディーンは疾走を開始する。
視線の先では、陽射しを遮るかのような砂塵が、未だに舞い続けていた。
◆ ◆ ◆
結果的に、ディーンの不安は杞憂に終わった。彼が二人の所へ到着した時には、すでに『ゴーレム』は残骸と化し、辺りには静けさが戻っていた。
剣を鞘に収め、瓦礫の中から『導力石』を探していたらしいジンは、駆け付けたディーンを見て、
「こっちも今片付いた所だ。悪いな、心配させてしまったか?」
と、微笑みながら告げた。
「えっ? ディーン、あたし達のこと心配してくれてたの?」
すると案の定、ジンの言葉を聞いたリネが、やけに嬉しそうな顔をしてディーンに視線を投げてきた。
実際、全く全然これっぽっちも不安にならなかった訳ではないが、それをリネに悟られるのは癪である。
よってディーンは、
「いちいち反応してんじゃねぇよ。誰がお前のことまで気に掛けるかってんだ」
と、平常運転の冷たさを披露した。
そんなディーンに対するリネの反応は、例の如く白い頬を膨らませるという、子供らしさ全開のものだった。
(……何か段々固定化されてきてねぇか? この不毛なやり取り)
げんなりするディーンを他所に、リネは先導し始めたジンの後を追って、軽やかな足取りで駆けていく。と、一旦立ち止まった彼女は、振り返ると可愛らしい笑顔を浮かべて、ディーンに大きく手を振ってきた。
「怒ったり笑ったり、忙しい奴だな……」
愚痴っぽく呟いてから、ディーンは二人の許へと歩き出す。
天上に昇り続ける太陽が、間もなく正午を告げようとしていた。
◆ ◆ ◆
なぜ悪い予感というものは、こうも簡単に当たってしまうのか。荒れ果て、乾いた地面を踏み締めながら、ディーンはぼんやりと考え込む。
昨日、宿で信じられない事実を耳にした時の記憶が、脳裏に蘇る。
師匠が、ミレーナがテロリストと通じている。現政権の顛覆を狙う一派と、関わりを持っている。
久しぶりに会った友人は、自分の代わりに師匠の行方の手掛かりを掴んでくれていた。
ただしそれは、最悪な情報と共に。
「……どういうことだよ、それ……」
「どうもこうもない。今伝えた通り、テロリストと思しき人物と接触しているミレーナ・イアルフスの姿が目撃された、という事実があるだけだ」
「……嘘だ、そんなの。出鱈目に決まってる」
弱々しく否定の言葉を口にするディーンに対し、ジンは真剣な表情を浮かべたまま、どこまでも冷静な口調で続ける。
「目下の所、彼女は行方不明であり、『倒王戦争』以後の行動はほとんど把握されていない。そんな人物が思わぬ所で、思わぬ形で目撃されたんだ。……無関係だと断じる方が難しいだろう」
「じゃあ、何か? 軍や『ギルド』の連中は、ミレーナが事件の首謀者だって言うのかよ?」
「今回の一件に、魔術師が絡んでいるのではないかという意見は、前々から挙がっていた。その矢先にこの目撃証言だ。仮にお前が第三者だったら、どう感じる?」
「……っ!」
鋭い眼差しと共に指摘されたディーンは、反論する言葉が見つからなかった。
ディーン自身、わかってはいるのだ。ジンの言う通り、仮に自分が第三者だった場合、ディーンは何の疑いもなく、魔術師と目撃証言を繋ぎ合わせるだろう。そうしない方がおかしいと、鼻で笑ってしまうことだってあるかも知れない。
だがそれでも、ディーンには鵜呑みにすることができない。
あのミレーナが、尊敬し敬愛した師匠が、現政権の顛覆を狙う首謀者だなんて……。
「――目撃証言があったっていう街はどこなんだ」
現実に打ちのめされ、しばらく黙することしかできなかったディーンは、やがて静かにそう切り出した。
「聞いてどうするつもりだ?」
対してジンは、あくまでも冷静さを崩さなかった。落ち着いた口調で切り返しつつ、その碧眼でディーンを見据える。
「決まってんだろ! 俺が師匠を捜し出して、直接問い質してやるんだよ!」
「行っても無駄だ。街の中も周辺地域も、『ギルド』の人間が隈なく捜し回った。それでも手掛かり一つ見つかっていない。お前一人が加わった所で、都合良く見つかる訳がないだろう」
「……ッ!! くっそぉッ!!」
ガンッと、固く握り締められた両手が、金属製のテーブルに勢い良く叩き付けられた。
どうにもならない怒りが、憤りが、胸の内から湧き上がってくる。煮え滾るような熱い感情の波を、上手く抑えつけることができない。
「お前も疑ってるのか? ミレーナが首謀者だって……」
自分の拳に視線を落とし、ディーンはジンにそう問い掛けた。
耳を塞ぎたくなるような答えが返ってくることは、わかりきっている。だがそれでも、聞かずにはいられなかった。
重苦しい沈黙がしばらく続いてから、ジンが口を開く気配があった。
「俺はお前と違って、『英雄』のことを詳しく知っている訳じゃない。話したこともなければ、会ったことすらない。どんなに偉大な功績があろうと、俺にとってはただの赤の他人だ」
「……」
「だがそれでも、お前の敬愛する師匠がそんな人間ではないことくらい、俺にも信じることはできるさ」
「!」
知らず俯いていたディーンは、自らの予想を裏切る言葉に反射的に顔を上げ、ジンに視線を投げた。
目が合うと、彼はいつの間にか浮かべていた柔らかい表情のまま、ディーンを宥めるかのように続ける。
「大体彼女は、『反旗軍』の中核メンバーとして、前テルノアリス王と戦った人間だ。そんな人間が、今更反対の陣営の者と通じる必要があるとは思えない。何か裏があると考えるのが妥当だろう」
「ジン、お前……」
「だからもう一度尋ねる。今回の一件を解決する為、俺と共に『首都』へ赴く気概はあるか?」
二つの碧眼が、こちらを真摯に見つめている。一瞬でも逸らすことが憚れるような、強い光が宿った瞳だった。
だからこそディーンは、再び拳に力を込める。
先程のように、憤りを覚えたからではない。
「そんなもん、改めて尋ねられるまでもねぇ」
大切な友人からの言葉が、より一層ディーンの決意を固くした。
師匠に掛けられた濡れ衣を晴らす。その為なら、できることは何でもやらなければならない。
彼女に命を救われた、たった一人の弟子として。
「協力するに決まってんだろ!」
「――あっ! ねぇねぇ二人共! 川があるよ!」
一体どれくらい、思考の渦に囚われていたのだろうか。不意に聞こえてきたリネの嬉しそうな声が、ディーンを現実へと引き戻した。
前方を指差す彼女の言葉通り、二十メートル程離れた位置に、あまり幅の広くない川が流れている。川縁から対岸までの距離は、十五メートルくらいだろうか。
陽光を美しく反射させる水面に誘われたのか、リネは一人で川縁を目指して、楽しそうに駆けていく。
「もうすぐ昼時だな。休憩も兼ねて、昼食を取らないか?」
太陽が高く昇った青空を見上げ、ジンは眩しそうに目を細めながら言う。
対してディーンは、前方を一瞥してから浅く溜め息を吐いた。その理由は、清らかな水と戯れている誰かさんの姿を捉えてしまったからである。
「わざわざ確認しなくていいぜ。約一名、すでにそのつもりみたいだから」
辟易しているディーンの言葉をどう受け取ったのか、ジンはどこか可笑しそうに、フッと軽く笑ってみせる。
そんな訳で、三人は川縁に腰を下ろして、昼食を取ることになった。
◆ ◆ ◆
昨日の一件以後、ディーン達は各々で旅の準備などを済ませて、宿で一夜を過ごした。
そして今日。陽が昇り始めた頃に『ディケット』を出て、北東の方角にある『首都・テルノアリス』を目指して、ここまで歩いてきたのだ。
本来なら、『ディケット』から『首都』行きの列車が出ているはずなのだが、事後処理などの関係上、鉄道は運休を余儀なくされている。その辺りはジンの談だと、やはり連続でテロが起きることを警戒しての措置なのではないか、ということだった。
列車が使えない以上、残された移動手段は徒歩か馬車に限られてくる。が、幸いジンが持っていた地図によれば、『首都』へは『ディケット』からなら充分歩いていける程の距離らしい。
三人は相談の末、徒歩を選ぶことにした。
旅の資金を節約する、という理由からだったが、『首都』までの距離と、先程の『ゴーレム』のような危険に遭遇することを踏まえると、決して楽な道のりではない。
色々と面倒な旅になりそうだ、とディーンがぼんやり考えていた時だった。
「それにしても凄いよねぇ、二人とも」
色とりどりの野菜が入った、二等辺三角形型のサンドイッチを両手で持って、リネは感心したようにディーンとジンの顔を交互に見つめる。
ちなみに三人が食べているサンドイッチは、『ディケット』の宿屋の主人の奥さんが、「若い人達だけで大変ね」と言って、冷水の入った金属製の水筒と一緒に持たせてくれた物だ。
少々子供扱いされているような気がしたディーンだったが、厚意で昼食を用意してもらった手前、文句を言うのは憚られたので黙っておいた。
「凄いって何が?」
その代わりとばかりに、ディーンはサンドイッチを頬張りながら、気のない返事をリネに返す。
すると、リネはディーンに視線を向けつつ、その綺麗な小さい口でサンドイッチの端をかじり、よく噛んで呑み込んでから言葉を紡ぐ。
「何て言うか、戦いのプロって感じ? ジンはあたしが手伝わなくても『ゴーレム』を倒せただろうし、それこそディーンは一人で簡単に倒しちゃうし。だから凄いなぁと思って」
「そんなの当たり前だろ? 俺はともかく、ジンは全ギルドメンバーの中で、五本の指に入るぐらい強いって言われてる人間なんだぜ? あの程度の『ゴーレム』ぐらい、お前が手伝う必要なんてないんだよ」
「あーっ、酷い! ディーンって何でそういう冷たい言い方しかできないの?」
「事実を言ったまでだろ」
ディーンが冷たく突き放すと、リネは不満そうに頬をプクッと膨らませる。
(……だから子供かっての)
やれやれと思いながら、わざとらしくリネから視線を外すディーン。先程彼が感じた通り、最早定番化されつつあるやり取りである。
するとそんな会話の端から、ジンは何かに気付いたように食事する手を止め、ディーンの方に視線を向ける。
「そういえばディーン。お前結局、『紅の詩篇』は使いこなせるようになったのか?」
水筒の水を飲もうとしていたディーンは、問いに対して思わず動きを止めた。なぜならそれは、的確過ぎる程に痛い所を突かれたからだった。
「それは……」
言葉に詰まり、口を噤んでしまう。
ジンが口にしたその魔法を、ディーンはまだ一度も使いこなせたことがない。
『紅の詩篇』とは、『深紅魔法』最大の能力であり、同時に最も扱うのが難しい能力でもある。師匠ミレーナは、この能力を存分に操ることで、あの血生臭い『倒王戦争』を戦い抜いたのだと聞いている。
そんなミレーナから、技術を享受してもらったディーンではあったが、残念ながら結果は芳しくない。
修業を始めた十歳の頃から、彼女がいなくなるまでの五年間、欠かさず鍛錬を続けていた。だが結局、ディーンは『紅の詩篇』を修得するには至らなかったのだ。
彼女の行方を捜し、更に一年が経過した今も、尚。
「どう鍛錬しても全然上手くいかなくてさ……。我ながら、自分の未熟さが情けなくなる」
わざと自虐的な言葉を吐いて、ディーンは水筒に入った冷水を一気に飲み干す。
(そうさ……。俺はまだまだ未熟者で……、甘ったれなままだ)
冷水で喉は潤せても、心の渇きは消えない。
ミレーナがいなくなってから、ディーンは幾度となく感じるようになった。忽然と消え去ってしまった自分の居場所は、もうどこにも存在しないのではないか、と。
彼にとってこの一年は、そんな陰鬱な感情を抱くには充分過ぎる程、永く険しい時間だった。
「その『紅の詩篇』って、どんな魔法なの?」
そんな心の葛藤を知るはずもないリネは、無邪気にそんなことを口にする。
だが、とても説明する気になれないディーンは、例の如く無言を貫いた。その場に少しの間沈黙が流れるが、彼は全く気にしない。
すると、そんなディーンの態度を見兼ねたのか、代わりにジンが口を開いた。
「俺も話に聞いただけで詳しくは知らないが、炎の従属能力のことらしい。自然現象の炎であろうと、相手の魔法による炎であろうと、一度発動すれば全てを意のままに操ることができるそうだ。つまり、炎を操る敵との戦いでは、ほぼ無敵と言ってもいい程の能力なんだろうな」
「……まぁ、大体そんな感じだ」
懇切丁寧なジンの説明の後に、ディーンは相変わらず気のない言葉を付け足した。
水筒の水をもう一口飲み下し、軽く息を吐いたディーンは、気付かれないようにリネの様子を窺ってみる。すると彼女は、どこか不満そうな表情を浮かべていた。その理由は恐らく、ディーンが自分の口で、自らの事情を説明しなかったからだろう。
そんな自分の態度は、傍から見なくても良くないことくらいディーンも理解している。だがしかし、彼はどうしても、不満そうなリネの相手をする気にはなれなかった。
説明し難い感情が胸の辺りに溜まって、酷く気分が悪い。別段ジンを責めようなどとは思っていないが、できれば『紅の詩篇』のことを話題にしてほしくはなかった。
「もう食い終わっただろ? 雑談はこれくらいにして、そろそろ出発しようぜ」
やや顔を顰めたまま立ち上がったディーンは、二人が動き出すのを待つことなく、背を向けて歩き始める。
酷く、一人になりたい気分だった。
◆ ◆ ◆
「……何か余計なこと聞いちゃったのかな?」
どれくらい歩いた頃だろう。やや俯いて小さく呟いたのは、黒髪の少女だった。
乾いた地面と砂塵が支配する荒野を歩き続けながら、リネは何となく後悔していた。あまり触れるべきではなかったのだろうか、と。
すると傍らを歩いていた銀髪の少年が、リネの言葉に反応し、声を掛けてくる。
「あいつの心情に気付けなかったのは俺の方だ。だからキミが気にする必要はない。責められるべきなのは、話題を出した俺なんだからな」
「そんな、ジンは悪くないよ。悪いのは――」
「もう止そう。過ぎたことを言っていても仕方がない。……ディーンには後で俺が謝っておくから、キミは今まで通り、普通に接してやってくれ。その方が、あいつも気兼ねする必要がなくなるだろうから」
「……うん」
優しげな表情で告げるジンから視線を外し、リネは一人離れて歩くディーンの背中を、そっと見つめてみた。本人にそんなつもりはないのだろうが、彼の背中は何となく、話し掛けるなと告げているかのような、冷たい気配を発している。
(何かディーンって、あたしに対して冷たいよなぁ。受け答えは素っ気ないし、それに……)
彼にはまだ、何か隠していることがあるのではないか。
『ディケット』の『ギルド』や宿でも、ディーンはジンと内密な話をしていた節がある。だがそれを二人に問い詰めた所で、恐らく簡単には教えてくれないだろう。
尤も、相手に隠していることがあるのは、こちらも同じな訳だが。
(そりゃあ、最初はうるさく付き纏ってたあたしが悪いんだろうけど……。でもそれにしたって、もう少し愛想良くしてくれたっていいのに)
その点、隣を歩いている銀髪の少年とは大違いだ。
昨日の話し合いの後、ジンとは少しだけ、二人だけで話す機会があった。その時、敬語で話していたリネに対して、彼は優しく微笑みながら、「敬語じゃなくていい」と言ってくれたのだ。
以来リネは少しずつではあるものの、ジンとも敬語を混じえることなく、普通に話せるようになっていった。
ジン・ハートラーという少年は、本当に優しい人物である。
一人で前を歩くあの無愛想さんとは、本当に大違いだ。
◆ ◆ ◆
その後、特に何もないまま歩き続け、陽が完全に沈み切った頃。ディーン達は荒野の真ん中で古びた遺跡のような物を見つけ、そこで野宿をすることにした。
遺跡自体の広さは、小さな村一つ分くらいだろうか。敷地の所々が緑に覆われているものの、建造物などの劣化は激しく、永い年月の間に瓦礫と化した彫像や石像が、あちらこちらに散乱している。
「昼間はすまなかったな」
リネに荷物番を任せ、月明かりを頼りに焚き火の火種になる物を探していたディーンは、不意に横から聞こえた声に振り向いた。
すぐ傍にいるジンは、ディーンと同じ作業を行いながら、こちらを見ずに続ける。
「お前が能力を使いこなせないことを気にしていると考えずに、余計な話題を出してしまった。俺の無神経さが招いたことだ。すまない」
「いや、別に……」
気にしていない、と虚勢を張れる程、ディーンは割り切れてなどいなかった。
『深紅魔法』のことに関して、劣等感を感じているのは確かだし、責めるつもりがないとはいえ、ジンの言動に不満を持っていたのも確かだ。
しかしだからと言って、友人であるジンとの間に暗い雰囲気を作るのは憚られる。まだこれから先があるというのに、妙な蟠りを抱えたまま旅を続けたくはない。
故にディーンは、鬱屈した気分を振り払うために、敢えて明るく振る舞う。
「まぁ、俺が未熟なのは間違いないからな。今更気にしたって始まらねぇし、俺が努力すればいいだけの話だ。だから謝る必要なんてねぇよ」
そう言ってディーンは、あくまでも快活に笑ってみせる。
するとジンは、一瞬驚いたような顔を見せたが、最後には優しく微笑んでくれた。
と、その数秒後だった。不意にジンが訝しげな顔をして、何かに視線を送っている。
あまりにも突然だった為、その視線が自分に向けられているものではないと気付くのに、ディーンは少し時間を掛けてしまった。
「どうしたんだ?」
問い掛けつつ、ジンと同じ方向に目を向けるディーン。そしてすぐさま、彼も疑問を感じた。
二人からだいぶ離れた遺跡の端の方に、松明の明かりのような物が揺らめいているのが見える。あんな所に光源を設置した覚えはないし、第一あそこは、ディーン達が入ってきた方向とは正反対の位置だ。
つまり今この近くに、自分達以外の人間がいるということになる。
瞬間、奇妙な感覚に突き動かされたディーンは、気付けば物陰に隠れてしまっていた。ふと見ると、ジンもやや緊張したような面持ちで、物陰に身を潜めている。
ほとんど反射的に身体を動かした、胸の内に溜まる不快な感覚。
その正体はきっと、警戒心に一番近い。
「俺達以外の人間、か……」
「……旅人だと思うか?」
ディーンの率直な疑問に対し、ジンは若干眉根を寄せ、難しい顔を浮かべる。
「今の段階では何とも言えないな。相手が何者にしろ、正体を確かめるつもりなら、もっと光源に近付く必要がある」
「それもそうだな」
まだいくらか距離がある為、向こうの誰かに気付かれてはいないだろう。
近付いて、相手が何者なのか確かめる。互いの意見は簡単に一致した。
二人は軽く頷き合うと、まるで物陰から獲物を狙う獣のように、闇に紛れながら前進を開始した。
◆ ◆ ◆
遠くに見える松明の明かりを目指して、ディーン達は静かに、だがそれでいて素早く闇の中を駆け抜ける。
やがて、彼らが立ち止まったのは、崩れた遺跡の壁に立て掛けられている光源から、六メートル程離れた位置。丁度すぐ近くに、古びて倒壊した石の柱が転がっていたので、二人はその陰に飛び込んだ。
「……これ以上は近付かない方が賢明だな。ディーン、辺りに人はいるか?」
「いや、今の所――」
周囲に警戒していたディーンは、言葉の途中で人の気配を感じ、黙り込む。
するとその直後、暗がりから光源に向かって歩み寄ってきたのは、黒い長髪を生やした三十代中頃の男だった。ディーンと同じように砂埃を防ぐ為の茶色いマントを着ているが、大きい荷物のような物は見当たらない。旅人にしては、少し軽装過ぎるのではないだろうか。
無言で男の様子を窺い続ける二人。
と、その時。男がズボンのポケットを探り、何かを取り出した。遠目だとわかりにくいが、どうやら懐中時計のようだ。
時間を気にしている、ということは……
「誰かと待ち合わせしてるのか?」
こんな時間に、こんな場所で。
普通に考えれば、この二つを選んでいる時点で、人目を避けようとしているのは間違いない。しかしだとすれば、これからここで、一体何が行われるというのか。
何となく不吉な予感がしたディーンは、隣の相棒に声を掛ける。
「なぁ、ジン。もしかしてあの男……」
「ああ。お前が退治したテロリストと、同じ一味の人間かも知れないな」
探るような目付きで長髪の男を見つめているジンも、やはり同じことを考えていたらしい。
噂の真偽を王族と話し合う為に『首都』へ向かう途中で、遭遇してしまった怪しげな人物。偶然か、或いは運命か。いずれにしろ、相手の正体を掴む為には、行動を起こすしかない。
「よし! ならとっ捕まえて色々と白状させるか」
言うが早いか、意気揚々と飛び出そうとするディーン。
しかしその肩を、ジンが強く掴んで引き戻した。
「待てディーン!」
「うわったっ……!?」
いきなりジンに制止され、ややよろめいてしまったディーンだったが、何とか体勢を立て直して身を隠した。
心臓の鼓動が、嫌な悲鳴を上げている。
「脅かすなよジン! 一体どうしたって――」
と、抗議しようとしたディーンに対して、ジンは右手の人差し指を立て、口許に当てた。
静かにしろ、ということらしい。
(……? 何だ、この音……)
やや遅れて、ディーンはそれに気が付いた。
何か硬く重い物が地面を叩いているような音が、視界の利かない暗がりの方から聞こえてくる。その律動は規則正しく響きながら、徐々に音量を上げていく。
(これって、馬の足音か?)
ディーンがそう推測するのと同時に、響いていた音が聞こえなくなった。恐らくは、暗がりのどこかで馬が止まったのだろう。
すると今度は、ガシャという、鎧を纏った者が歩く時のような重たい足音が聞こえ始めた。
来訪者が訪れたのは間違いない。そう確信した瞬間だった。
暗がりから、フードの付いた黒いマントを纏った者が、ゆっくりと現れた。深く被られているフードが邪魔で、人相も性別もハッキリしない。
その人物は、長髪の男の許まで歩いていくと、辺りを見回すような仕草を見せた。
「心配すんな、俺の他には誰もいねぇ。そういう約束だっただろ?」
謎の人物に向けて、長髪の男は軽い調子で言う。
値踏みするかのような沈黙を数秒続けた後、謎の人物は黒いマントの中から、ゆっくりと右手を差し出した。よく見るとその右手は、青紫の鎧を纏っている。
(鎧……。まさか、正規軍の人間か……?)
確かに、『首都』に控える軍人ならば、鎧を装着する機会も多い。だがそれだけで相手の正体を決め付けるのは早計だ。
声に出さず、心の中で呟いていると、長髪の男が苦笑のような声を漏らす。
「せっかちな奴だな。ちゃんと注文を受けたモンは持ってきた。そう焦んなよ」
そう言って長髪の男は、マントの内側から何かを取り出し、謎の人物に手渡した。
両者の間で受け渡されたのは、白い布に覆われた何か。鎧の右手から少しはみ出しそうな大きさの物体ということ以外、どんな形のどんな物なのかが判別できない。
「さてと。じゃあ約束通り、報酬を貰おうか」
長髪の男は愉快そうに、ニヤリとした笑みを浮かべた。
謎の人物は、マントの中に受け取った物品を仕舞うと、無言のまま軽く頷く。
その瞬間だった。
長髪の男の身体から勢い良く、液体のような物が噴き出したのは。
「えっ――?」
一瞬、何が起きたのかわからなかった。
まるで全身の骨を抜き取られたかのように、力無く地面に倒れ込む長髪の男と、やや前傾姿勢で傍らに立つ黒いマントの人物。よく見ると鎧を纏ったその右手には、何かがこびり付いたロングソードが握られている。
その光景を目の当たりにし、ディーンはようやく理解した。噴き出したのは長髪の男の鮮血で、黒いマントの人物が男を斬り付けたのだと。
しばらく呆然としていたディーンだったが、謎の人物が剣に付いた血を払い、その場から立ち去ろうとしているのを見て我に返った。
「貴様! そこで何をしている!」
ほんの僅かな差で大声を上げ、先に飛び出したのはジンだった。倒れている長髪の男の傍らへ駆け付けると、脈を計って生死を確かめている。
後に続いたディーンは、ジンと謎の人物の間に割り込む形で立ち止まった。
すると目の前の人物は、こちらを見て意外そうな声を出す。
「ほう……、こんな所に旅人がいるとはな。全く、予定通りには行かないものだ」
フードの奥から聴こえてきたのは、男の声だった。顔はまだ見えないが、ここまで近付いてみると、背格好や体型でも男だとわかる。
ディーンよりも少し高い身長。乱入者が現れたにも関わらず、大して驚いた様子もない落ち着いた声。その冷静な態度から察するに、恐らくディーンとはだいぶ歳が離れているはずだ。
「あんた……、一体何者だ?」
まずは探りを入れようと考えたディーンは、慎重にそう切り出した。
すると男は、尚も落ち着き払った声で静かに返答する。
「この大陸に変革を齎す者だよ、少年」