第26頁 赤い泉の魔女
挿入話第2節
3
「まさか『竜除けの樹』があるなんてな……」
そう遠くない距離に竜の巣窟である大平原があり、山にも、空にも竜が犇めく未開地。草原地帯から外れた森の中にあるとはいえ、その地帯の真ん中に村が堂々とあるのも頷ける。
竜という生物種にも、嫌悪する音や匂い、成分がある。それは竜の遺伝子情報をもつ竜人族も同様である。
竜が嫌い、避ける物質は、自然物として存在し、鉱石や植物、ある動物の肉など様々な物体に含まれている。メイフェンの村の神木も「竜除け」の成分が豊富に含まれ、それは人には感じられない匂いや花粉として外部まで漂う。それによって、野生本能の竜は近づこうとはしないのだ。
「……」
近づけないわけではない。しかし、不快感、気怠さ、吐き気、外分泌腺過多をはじめ、長居すれば体調不良、感覚麻痺や少量の筋肉麻痺など、パフォーマンスの低下が生じる。中には病的な影響も受けたりする。
(こういうのも克服しねぇと、いずれ弱点として突かれてしまうな)
思ったより規模の広い村を周回しながら、その大樹を見つめ続ける。ここからでも十分に感じ取れる。特に五感が鋭いリオラなら、竜の何倍も感知し、より強い不快感に陥っているだろう。
リオラは五感、第六感が桁違いなほど過敏であり、村の中の人の声や、空に羽ばたく鳥や向こう側に見える山脈で餌を探している竜の姿など把握できる。
しかし、大抵聞き流しているリオラが印象的として捉えた声は村からではなく、山側にある森の中からだった。
(あっちにも人が住んでるのか)
大平原とは反対側の山側の森。しかし、声の聞こえる先の森の道は日が射しているにもかかわらず、他よりも少しばかり陰りが強く、薄暗い気がした。
直感だが、なにかあるだろうとリオラは森の中へ入る。
森の奥へと歩くうちに針葉樹林の地帯と霧漂う場所へと進む。朝日が差し込むほど、木の間隔は広く、地面は落ちて、枯れた茶色の針葉で覆われている。暗くはないが、朝霧のためか、明るいわけでもない。
「……? なんだこの臭い」
強いアルカリ臭さと塩分の匂いが刺激臭として鼻にくる。しかしリオラが感じたのはそれだけではなかった。
異物として体内、肺へと入ってくる何か。微粒子だが、形状が鋭いのかチクチクと痛む。普通の人体の触覚ならば気がつかない程度であれ、リオラには敏感に感じ取れる。少しストレスになるも、前へと進み続ける。
「……」
木々の数も少なくなり、その為日陰が少なくなってくる。清々しいはずの日照りが、どこか暑苦しさを感じさせる。この場だけ気温が高くなっているせいだろう。
「なんだここ」
辿り着いた先、リオラはその光景を見眺める。
そこは赤い湖だった。炎のように真っ赤な湖は毒々しく、魚の一匹も泳いでいない。不透明なため水底すら確認できないのもあるが、誰が見ても、この湖に住む動物などいないと断定するだろう。
(やけに鼻にくる……濃度が相当濃いな。それに僅かに湯気立っている。40度あたりか)
強いアルカリ臭が蔓延し、湖周辺の地面や数少ない枯れ木は石のような灰色へと変色している。森に避けられているかのように、その周辺にはほとんど何もなかった。
「……ん?」
左の沿岸を見ると、湖の前に正座で座り込んでいる誰かを見つける。両手を胸の前に絡み合わせ、祈りを捧げているようにも見える。その対象は、この紅い湖か、それともその奥に見栄える山峰か。
「ガキがなにやってんだこんなところで」
特に獣や竜の気配は感じられないので危険はないが、好き好んでここにいるのもどうかしている。
リオラはその少女に近づく。絵本や童謡に出てきそうなドレスに似たワンピースは古く、頭の後には不釣り合いにも真っ赤なリボンが結ばれている。
足音で気がついたのか、灰に近い水色の髪の少女は目を開け、顔を上げた。そしてリオラの姿を見るなり、すぐさま立ち上がり、後ろへと下がる。
「ッ、あ……あなたは……?」
声が震えている。人間の大体がリオラの姿を見るたび、目の前の少女のような反応をする。そのことには慣れていたが、銀の瞳を向け、震えていた少女はただの人間ではないとすぐに判別できた。
「竜人族だな」
「えっ」
少女の戸惑いと焦りに応えることなく、リオラは確信づけたように話を進める。
「オレはちょいと散歩しに、たまたまここに来ただけだ。別に何もしねぇよ」
その言葉で少し安心しかけた少女だが、警戒は完全には解かれていない。
「けど、まさかこんなところで同族に出会えるとは思いもしなかったぜ」
「同族……」と口走り、ハッとする。
「あなたも竜人族なの……?」
「ああ。で、お前ひとりで何やってたんだ」
リオラの問いにすぐには答えなかったが、赤い湖の方を見て、口を開いた。
「祈ってた……」
「見ればわかる」と言おうとしたが、その前に先に彼女から話し始めた。
「呪いを抑えているの」
「呪いだと……?」
呪いという、この世界では非実在の概念。だが先日、仙人と名乗っていたシルダの術を目の当たりにしている為、信じられない訳ではなかった。そして、経験と記憶上、「呪い」についてのことはある程度の知識を持っていた。
少女は湖越しの白い山峰を見る。
「あそこの山には災いを呼び起こす……魔物がいるの。その魔物がこの地に呪いをかけて以来、泉も紅く染まってしまったんだ。この近くに村があるんだけど、一度訪れた?」
「入口まではな」とリオラは肩を竦める。
「あの村は竜祓いの御神木があるんだけど、それじゃ呪いは防げないの」
「そもそもどういった呪いなんだよ」
飽きてきたのか、結論を早めるリオラ。少女は丁寧にリオラの言葉に答える。
「あれを見て」
少女は泉の畔を指す。
腐食している枯れ木の傍には休憩しているカラスらしき鳥。しかし、どこか不自然であり、何より色が灰に染まっている。
そのときのリオラの理解は早かった。
「石化か」
少女はこくりと頷いた。
「ときどき呪いが強くなる時があって、近くの動物たちが死んじゃって、そのまま石になるの。外側から蝕まれて、同時に内側からどんどん呪われて、ぼろぼろの石になっちゃうんだ」
そのとき、ガラガラとカラスだった石が細い足首から崩れ落ち、頭から地面に当たった途端、粉砕した。触っただけでも崩れそうなほど、その石は脆く見えた。
よく見ると、少女の髪の色もそれに似ており、肌も所々腐食に近い石化が進行していた。
「おまえも侵食されてるんだな」
「うん。村よりも近くに住んでるし、ここが一番呪いが繋がっている場所だから」
「それで直に祈りを捧げて、この場所から繋がる呪いの源泉地に伝わりやすくしているってわけか」
少女は頷く。潤いのない肌は乾燥しきっており、しかし陶器のように艶やかで、固さがあるも、まだ肌特有の柔らかさがあった。
リオラは泉を見、ひとつ大きく息を吸う。
「ねぇ、あなたはどこから来たの?」
少女はリオラに訊く。踏み出した足元の土は灰そのものにも見える。
「さぁな。長いこと眠っていたし、あんまし覚えてねぇわ」
「そうなの……」と少女は呟くように言うが、後から付け足すようにリオラは口を開く。
「故郷は大帝龍國の竜都だ」
「っ! そんなすごいところに住んでたの?」
「なんだ、知ってたのか」
「だ、だって、神龍王の君主様が御鎮座されている大帝国でしょ、そこって……」
「君主様、か……」
リオラは呆れたような声で軽く笑う。
竜人族の住む国は数多くあるが、その中で最も古く、最も栄えている原初の源水ともいえる文明国が大帝龍國である。その超大国を収める王が神龍王の名を冠する『天帝』であった。
(……)
リオラは何かを思い返し、だが何も口にすることはなく、少女に言う。
「んで、おまえの故郷はどこだ」
驚きのあまり最初はうまく話せなかった少女だが、明らかリオラに対する目の色が変わっていた。
「あ、えと、あの大きな山脈の向こうの高原に住んでたよ。リンガって名前の村。今は滅んじゃったけどね。あとこの国にはないんだけど、祖先はリーリャムという小さな国で生まれて、この地で眠ったらしいの。そんなことより、『天帝』ともあられる君主様と同じ都に住んでいるって、あなたは――」
「うるせぇ。たまたまそこで生まれただけだ」
リオラは赤い泉に触れる。泉にしてはやや熱い。水の流動が微かに感じる。
(底から湧いているのか。やっぱり原因はあの山からか)
「そういや名前まだ聞いてなかったな。なんていうんだ?」
立ち上がり、リオラは振り返り様に少女に訊く。
「リネット・フェアマン。リネットでいいよ」
あなたは? とリネットは訊いた。
「……リオラだ」
「リオラ……ね。よろしく」と手を差し伸べてきた。自分より背の低い少女を見下しては、「おう」と握手を交わす。弱い力がリオラの手に伝わる。
波紋のひとつすら起きない赤い泉は寂寞を越え、虚無を感じさせる。その泉の中央で、3つの泡が沸き上がった。
4
その頃、イノは赤子を抱える若い母親の家で橙色の果実ジュースをいただいていた。繊維状ではなく、粒子状のドリンクののどごしは、冷たさに伴い刺激ともいえる快楽を与えてくれた。
質素な木の家はギシギシと古さを感じさせつつも、その土台は積んだ石でできている。窓もある辺り、ガラス工房もこの村にあるようだ。
「赤ちゃんいるってことは、お父さんもいるんですよね」
木のコップに入ったジュースに口をつけたイノは訊いた。口周りに果汁の橙色がついている。
「ええ、でも今は寝込んでいるの」
「どうしてですか?」
女性は少し落ち込んだ顔になる。暗くなった表情は能天気なイノでも読み取れた。
「この村の近くにね、"赤い泉"という恐ろしい場所があるの。辺りの草木は枯れ切っていて、深い霧の中にある名前の通り真っ赤色の湖なの」
「へー、血の池みたいですね」
「そう、まさに血の池。漂う霧も吸えば病気を患うといわれているから、誰もそこに行かないんだけど……その泉にはね、魔女が住んでいるの」
ジュースを飲むのをやめる。口を離したイノは女性の目を見る。
「魔女ですか。魔法使えるんですか」と話すイノの表情は楽しげだった。それに反し、女性は不安そうに話しを続ける。
「その魔女の呪いで泉が赤くなったり、この村に度々災いや病気をもたらしているの。夫が寝込んでいるのも、その病が原因なのよ」
そう言ったとき、カチャカチャと棚に置かれてあった食器が音を鳴らす。少し揺れたようだ。女性が抱えていた赤子が泣き出す。だが、すぐに揺れは収まった。泣き声は止まないままだ。
「……地震ですかね」
よしよしと赤子を揺さぶる女性に独り言のようにイノは話す。
「こういうことが最近多くて。みんなは魔女の災いのせいだっていってるわ」
「へぇ、呪いって何でもできるんですね」
「ええ、まぁ……」
イノは窓を見る。否、窓の外の景色に赤い瞳を向ける。それが指を指す動作の代わりにも見えた女性は、イノと同じ視線の先を見る。
「あの大きな木がこの村守っているんですよね」
「そうなの。毎日欠かさずみんな御神木様にお祈りしているのよ」
「毎日続けているんですか! すごいですね、僕なんかどれやっても続きませんよ」
「あら、旅人さんは旅を続けているじゃない」
「あ、そういえばそうでした」
あはは、と笑っては頭を掻くイノ。ゆらゆらと表面が揺れているジュースを一口飲む。
もう一度、イノはその大樹を見つめた。黄色がかった緑の葉が傘のように広がっており、この村を包み込んでいるようだった。
そのときにちょうど、数人の村の人の姿が見える。ざわざわとした声も聞こえてきたので、近くで何かがあったのはイノだけではなく、その女性も気づいたようだ。
「外が騒がしいわね。どうしたのかしら」
「竜でも襲ってきたんですかね」
「御神木があるから、それはないと思うのだけど……」
「ちょっと様子見てきますか」
イノはジュースを飲み干した後、椅子から降り、外へ出る。女性も赤子を抱え、ついていく。




