第24頁 人を救う者
雨はすっかり止み、昼下がりの青空が曇り雲の間から徐々に顔を出す。湿気で生温かい空気を吹き飛ばすように背後から暖かい風が通る。空には飛竜の姿が小さく確認でき、右側に見える大きな湖には小柄な鳥竜や象のように大きい獣竜など様々な種の竜が水を飲んでいた。
近くの山越しに見える大きな虹をイノは指をさすが、同行している竜人族のリオラは興味なさげにそれを見た。
「おまえも珍しい奴だな」
リオラは話を切り出したが唐突のあまりイノは聞きとれていなかったようだ。
「ん、なんですか?」
イノは聞き返す。草についた雨の小さな水滴が足の裾を濡らす。
「人間てのは大概過酷な道はできる限り避けるんだがな、なんでお前は敢えてあそこの山に行くって言い出したんだって思ってよ」
リオラの言う通り、城郭都市「ルメニア」の周辺はレインガル国土とアリオン地方内の幾つかの都市や町、残りは未開地という大自然のみだった。イノは町のある方へと進まず、平地に近い未開地にもいかず、前方に聳える緑豊かな山脈へと向かっている。
「んー、まぁあの山もそうなんですけどね、あの向こう側どうなってるのかなって思っただけですよ」
「……おまえホントに適当なんだな」
「自由気ままがいいんですよ。それが旅人なんです!」
自信満々にイノは得意げな顔をした。だが、リオラは「そうかよ」と呆れた声で言い、目を逸らしては前を向く。
「お、看板立ってますね」
「それだけじゃねぇ、周りよく見てみろ」
リオラは顎で視線の先を指した。
急下りの丘の下には村があった。だが、天災にでも遭ったのか凄惨な景色となっている。木製の家はほぼ崩れて苔と蔦が育ち、田は地面ごと抉れ、新しい地形と化している。人は一人もいない。傾いた古い看板には黒墨で何かの単語が書かれていた。
「これなんて読むんですか?」イノはリオラの顔を見る。
「知らねぇよ、多分この村の名前だろ」
リオラは先へと進む。イノもそれについていき、丘を滑るように下る。
「これ草すべりにいいですね。リオラ知ってます? 草すべり」
「知るかよ」と一言だけ吐き捨て、辺りを見回す。
閑静な村に訪れるのは風のみ。先ほどの雨で地面がぬかるんでいるが、暖かい風のおかげですぐに乾きそうだ。
「随分古いですね。これ大分前に嵐とか起きて、それっきりじゃないんですか?」
イノはたたた、と先を走り、くるくると周りを見る。リオラは残骸と化した廃屋の木の壁に触れる。
「だろうな。ここは特になにもねぇし、行くぞ」
「ですね」とイノは山脈の方へと走る。リオラは歩いてその跡をついていった。
山の中に入る。木々が生い茂り、獣道すら見られないが、そこまで急ではない坂なので、夜になる前に頂上に着くだろう。
雨による青臭い草の匂いと湿気が感じられる上、濡れた地面で滑りやすくなっている。木漏れ日が往く道を照らすように先を示してくれる。小型の竜が所々確認でき、途中で草食竜の死骸を見つけるときもあったが、特に大型の竜が棲んでいる痕跡はなかった。聞こえてくるのは鳥のさえずりではなく、小さい竜の甲高い鳴き声。それと川のせせらぎが遠くから聞こえてくる。
山頂近くになったのか、坂の角度が変わる。しかしそれだけではなく、幾つかの変化にリオラは気づいた。
「樹を切り倒した跡がある。近くに人が住んでるかもな」
「お、じゃあ今日はそこで泊めてもらいましょうか」
「オレは寧ろ野宿の方が落ち着く」
「うっわぁ、野性的」とイノはわざとらしく引きつった顔をする。
「テメェも似たようなことしてんだろうが」と蟀谷に血管を浮かべる。
「あ、おいしそうな実も生ってますよ」
「聞けよ」
リオラを悪意なく無視したイノは自身の背丈ほどある小さな木に実っているオレンジ色の果物をもぎ取り、一口食べる。
「おお~、種が案外柔らかいです。プチプチします」
「匂いが少し濃い気がするが」
と言いながらリオラもひとつ口にする。
「……もしかしてこれウマいって思ってるか?」
「はい! 十分においしいですよ」
あまりの笑顔にリオラは反応に困った。
「……これ熟成越えて腐ってるぞ」
イノはポカンとし、リオラと自分の食べている実を交互に見る。そして感嘆に似た声をため息とともに吐いた。
「腐っててもおいしいってすごいですねこの実」
「そうきたか」
「発酵っていうパターンもあるかもですよ」
「勝手に言ってろ」
そのとき、山の上の方から微かな声が聞こえてくる。
「人か。やっぱり集落とかあるんだな」
「丁度いいですね、ちょっと住んでいるとこまで案内させてもらいましょう」
イノは土と枯葉の混ざった坂を登る。
「尋ねる以前に、集落に着きそうだぜ?」
リオラがそう言ったとき、森の外へと出た。急に平地になり、目の前に広がった景色は自然あふれる山の森とは一変し、木と石で建てられた民家が幾つもバラバラに立地してあり、街のように並んではいないが、少なくとも麓の荒廃した村よりは発展しているように見える。
田や畑も多くあり、高台や進んだ先の坂の下にも民家がいくつかみられる。奥には滝があり、その隣には坑道らしき穴とトロッコがある。高台上の大きめの建造物の煙突からは湯気が立っている。
森に囲まれた山村は完全に独立しているようにも見えた。
「思ったよりしっかりした場所ですね。煉瓦の家までありますよ」
「あそこからいい匂いがするな。パンでも作っているのか」
「おーい誰だあんたら、他所の者か」
近くで畑作業をしていた老人が大きな声でイノたちを呼びかける。
「はい! 旅してるんです! ここってどういう町なんですかー!」
イノも大きな声で対応する。その声に気が付いたのか、周りの人々もイノたちの存在に気が付く。
すると、駆け寄ってきた成人男性が代わりに答えてくれた。老人は説明する必要がなくなったと判断し、再び畑作業に戻った。
「こんにちは旅人さん。ここは仙人様が治めている『燈滝の里』です。自給自足の独立した場所なので観光地ではないんですけどね」
「仙人が棲んでいるのか」リオラは目を開き、少し驚く。
「はい! ここには教主『シルダ』様がおられます。シルダ様によってこの里が栄えているのも同然。あの御方は私たちの救世主なんです」
男性は誇らしげに話す。それだけ尊敬しているのだろう。
「へぇ、そこまでの男なら、一度会ってみたいもんだ」
「ここになんかおすすめのスポットとかありますか?」
リオラの話を割り、自分の話題に持っていく。
「え、おすすめの……観光向けかどうかは分かりませんが、温泉やあそこにある滝が見所だと思います。他にもいいところはたくさんありますけど」
「おお、じゃあ早速行き――息っ!」
リオラに首を握られ、イノを黙らせたが、当然抵抗しようとバタバタと暴れる。
「とりあえず、ここの里の長はその仙人なんだな?」
「えぇそうですけど……あの、大丈夫ですか? その人白目剥いて死にかけてますけど」
「大丈夫だ、寧ろ死んでも構わねぇバカだから。じゃあ、その人に会いてぇんだがいいか? 仙人ってどういう奴なのかちょっくら気になってな」
イノはビシビシとリオラの腕を叩くが、リオラは更にきゅっと力を入れる。「はぅっ」と声を漏らしてはその力も弱くなり、抵抗しなくなった。
「申し訳ありません、直接は少し困ります」
「なんでだ? 国の王様みてぇな立場なのか?」
「その通りです。シルダ様は偉大な御方。簡単に面会することはできません。直接会えるのはシルダ様がこの里の様子を窺うくらいです。あの、その人ホントに大丈夫ですか? 動かなくなりましたよ?」
「心配することはねぇよ。仮に死んでも手放したら生き返るとオレの勘が言ってるから。てことは何かしらの許可が下されねぇと会えねぇってことか」
男性は心配そうに屍のようになったイノを見、生きているだろうと信じて話を戻す。
「あ、あぁはいそうですね。少々ばかり時間がかかりますのでパン工房の茶店に行って時間を潰してはどうでしょうか」
「お、いいかもな。じゃあそうさせてもらうぜ」
*
パン工房に付属したログハウス風の茶店まで案内してくれた男性と別れ、イノとリオラはたくさんのパンを買い、テーブルの上に山のように乗せる。紅茶を傍らに、パンをひとつとっては口にしていた。他にもいくつかのテーブルと席が配置されており、人が少しばかり賑わっていた。いくつか天井に吊るされている黄色い球体は加工された鉱石のようにも見える。
「オレはてっきり死んだかと思っていたが、死んだふりでもしてたのか?」
リオラはライ麦パンを口の中に放る。少し呆れた顔をしたイノの顔色は少し悪いようにも見える。
「なんとか生きてただけですよ、首が繋がっているだけでもありがたみを感じましたね。まぁ旅してるんで死んだら死んだで仕方ないとは思ってますけど、正直あれで死にたくはないですね」
それで、と話を続け、
「ここの仙人様でしたっけ、不思議パワーでこの村を豊かにしたのって」
死にかけている間でも話は聞こえていたらしく、イノは丸いパンを咥える。
「しかも教主らしいな。仙人に教主というのはなんか違う気がするんだが……まぁ、あの男が案内する間に意気揚々と仙人の武勇伝語るからな。逆に胡散臭さを感じた」
イノは甲羅模様の菓子パンをかじる。
「ほれだけすごい人なんでふよ」
イノは口の中のものを紅茶ではなくコップの水で流し込み、
「それにしても、このパンおいしいですね。それに里山にパン工房って少し意外性ありますし。あ、あの人リオラ見ても特に怖がったりしませんでしたね」
「おまえのそのコロコロ話題変えるのどうになかんねぇのか。まぁそれが普通だと思うが、敢えて考えるなら、オレがなんかしても仙人様が止めてくれるという信頼があるんだろうな」
「あのー、すいません」
「「ん?」」とイノとリオラはパンを口に頬張ったまま横を向く。
鮮やかな桃色の髪をサイドテールにした、イノより少し背の高い、顔色のよい少女が声をかけてきた。
「今日来た旅人って君ら2人?」
「そですよー」
すると少女はほっとした顔になり、笑顔で話し始めた。
「あぁよかった、私はシルダ様に仕えるロゼアっていうの。この里の案内役と言えばいいかな」
軽い口調で話すロゼアは「はは」と爽やかに笑う。
「わざわざご苦労なこったな」
パンを片手にじっとリオラは見つめる。
「久しぶりの客人だからね。それにシルダ様に会わせるのも私の役目だし」
教主に仕える人の服装だろうか、ロゼアの衣装は緑を強調した花と葉の凝ったデザインが刺繍されたアオザイに似たものだった。
「というより、シルダ様があんたら旅人に会いたがっているのさ」
「向こうからそう言っていたのか」
「そうだね、興味をお持ちしたのだろうよ」
それ以前に、その報告の速さにリオラは感心する。イノは夢中でパンを食べ続けている。
「それじゃあ、このパン食べきってからにしていいか?」
「構わないよ、ゆっくりしてて」
「……っておまえどんだけ食ってんだ! 残りすくねーじゃねぇか!」
「何言ってんですか、全部買ったの僕だから別にいいじゃないですか」
「オレはあそこにずっと閉じ込められてたから腹が減って仕方ねーんだよ!」
「前の町で滅茶苦茶食べましたよね。まだ足りないってその胃袋どうなってるんですか、穴空いてダダ漏れになってるんですか」
「いいから残りはオレのもんだ、これ以上食うんじゃねえぞ」
「あ、ちょっと、まとめてもっていかないでくださいって!」
「……まぁ、ゆっくりしていきな」
ロゼアはただ苦笑していた。
*
「それだけうちの里のパンがおいしいと思ってくれたのはうれしいけど、まぁ争いを起こさない程度に頼むよ」
ロゼアは苦笑して振り返ってイノたちを見る。
「わかりましたー」
イノは笑顔で返事する。
「仙人のいるところはやっぱり遠いんだな」
「そうだね、本来は私たちでもいけないような絶壁の頂上に住んでおられるんだが、私たちのために里の近くに『鐘楼殿』を建てて、いつでも伺えるようにしてくれたんだ」
「『鐘楼』って……まぁいいが」
リオラはもどかしい気持ちになったが、気にしないことにした。
坂の土壌の上に作られた、木の板でできた階段を上る。隣は地面の坂なので、荷馬車を使うこともあるのだろう。
「その仙人さん、何かの宗教でもやっているんですか?」
「宗教というよりは……信仰に似た感じはあるけど、特に名前はないよ。みんな尊敬している感じ」
「あれか、その鐘楼殿というやつ」
リオラが見た先には湿って黒ずんだような木で作られた大きな寺のような建物だった。瓦があり、他にもいくつかの同様の建造物が繋がっていた。
「あ~、あれは違うね。温泉だよ。シルダ様の不思議な力で温泉を湧かしたんだ」
「そうか。おい、笑ってんじゃねぇ白髪頭」
「痛っ、笑ってませんよ、微笑んでいたんですよ」
「一緒だ馬鹿野郎」
二人のやり取りを横目に、説明を続ける。
「まぁ一応宿もあるし、泊まるときは使うといいよ。この先だ」
温泉の宿の裏手の先は一本の幅広い橋。しっかりとした板作りの橋の下は深く、小さな川と緑に埋もれている。右手には下へと流れる緩やかな滝、左手には山脈の景色が見えていた。
「いい景色ですね」
「人とは隔離してんだな」
「まぁ、仙人ですからね」
ロゼアについていき、橋を渡る。下から風が吹き上がり、滝の水飛沫が肌を涼ませる。渡った先は坂道であり、雑木林がトンネルのようになっていた。その奥に何かの建物が見える。
「立派なとこに住んでますね」
「まぁ、仙人だからな」
曇りがかった空は次第に明るくなった。
燈滝の里と仙人「シルダ」の棲む「鐘楼殿」は山脈的に別の場所に立地してあるとロゼアは説明した。シルダは様々な文化と術を知っているらしく、里の人々に多くの知恵と技術を教えたという。また、奇襲を仕掛けた山賊や野生の竜を仕留めたという伝説もある。
「へぇ、経験豊富なんですね。人生どうやって過ごしてきたんだろう」
「そもそも何を機に仙人に出会ったんだ」
リオラは自分より背の低いロゼアを見下しては尋ねる。
「元々、私たちは山の麓に住んでいたんだ」
それを聞き、リオラは「あれのことか」と呟いた。イノは覚えていない顔をしていた。
「でも、大嵐に遭っちゃって一気に壊滅状態。物も食べ物も家も何にも残っちゃいない、まさに絶望的だったんだ。そのときにシルダ様とふたりの弟子が訪れてきたんだ」
「そんで、仙人がこの山に恵みを与えて、新しく里を作ったと」
「うん、私が生まれる前の話だけどな」といっては嬉しそうに笑った。
「――だから私たちは尊敬している。シルダ様は私たちの救世主なんだ」
ロゼアはニッと微笑んでみせた。その瞳は若い女性特有の輝きをもっていた。
「へぇ、いい人じゃないですか」
「そうだろ? 特に規制もないし、なにひとつ不自由ない。まさに桃源郷だよ」
なにより、と付け加え、
「『自分の足で前に進め』この言葉が里のみんなに希望を与えて、今もこうして頑張って生きている」
「さ、着いたぞ」とロゼアは前を見る。
城壁や門などはなく、4階建ての四角形の赤い建造物が居座るかのように存在していた。壁は赤石で作られており、苔色の瓦は日の光で艶を出している。
「おー、おっきな建物ですねー」
「見たことある建築様式だな」イノとリオラは同時に感想を述べた。
「入口はこっちだ。大広間に入るが、おそらくシルダ様がそこで待っておられる。緊張はしなくてもいいけど、粗相のないようにな」
そう言い、錆びかけた赤と緑の装飾が施された3mほどの鉄扉に近づいたとき、勝手に扉が内側へと開いた。
「あっ……シルダ様!」
ロゼアが会釈すると、建物の中から長く伸びた白い髭で口周り覆っていた丸坊主の老人を始め、後ろから長い青髪を一つ結いにした一人の壮年男性が付き添いのように出てきては扉を閉めた。
老人というにはしっかりした顔つきであり、背筋も曲がっていないが、手には体を支えるための樹の杖が握られていた。どちらも金の刺繍が施された白いカンフー着のような服装をしていたが、老人の服にだけ右胸の部分に自然を強調した幾何学的なデザインの太陽の紋章が金の糸で刺繍されていた。
「ん、おぉ、ロゼアか。そのふたりが今日来た旅人かね」
老人特有の掠れ声だが、声質はしっかりとした、力強いものだった。
「はい、名前は……」
「いかにもって感じの仙人姿に逆に驚きました、イノです」
「リオラだ」
「そうか、燈滝の里へようこそ。私がこの里の長、シルダ・ラガーラだ。こちらは弟子のラーマ・ヤーナーラタだ」
「よろしく」とリオラに握手を求める。「おお」とリオラは握手を交わした。
しかし、リオラはラーマの顔を見、
「……妖人族か」
「……! あぁ、そうだ」
一瞬だけ驚いたかのような目をし、だが肯定しては目を細め、口角を上げた。
「『めいにー』ですか?」イノはポカンとしている。
「妖怪と人間が混じったような人種の一つだ。種類によっていろいろいるが、見た目は人間と何ら変わらん奴もいる。匂いでわかるが」
「本当ですか」とイノは興味津々でラーマの服を嗅ごうと近づくが、リオラに首根っこを掴まれる。
「本当にやるな馬鹿。オレは鼻が良いんだよ」
「訂正するが、私はその妖人族と人間のハーフだ。それに、そんな大した種類の妖怪の血も引いていない。君はみたところ――」
「これ、ラーマ。私情で訊くことでない」
シルダに静止され、ラーマは「申し訳ありません、出過ぎたことを」と頭を下げた。
「あぁいいよ全然。オレは竜人族なんで。ま、お互い仲良くしよーや」
リオラはニッと笑った。
「ちょ、ちょっと、そんな友達みたいな話し方は……」
ロゼアは二人の口調にハラハラしている。
「いいんじゃロゼア、仲良いことは良きこと。そのぐらい構わんよ」
シルダは柔らかな目で笑った。
「さて、旅の御方。ここまで登ってきたのは流石に疲れたろう。あそこに見える大きな温泉旅館でゆっくり休むといい」
「ありがとな、じーさん」
「定番のお約束のお言葉ありがとうございます」
「君等もう少しシルダ様に対する言葉を選んだらどうだ」
旅人二人の対応に不満を持っているラーマは注意を促す。しかし、シルダは手を小さく上げ、制止させる。
「いいんじゃラーマ。さて、里に行こうとするかね」
シルダは先へと歩く。ラーマはそれについていき、ロゼアとイノたちはラーマの後ろを歩いた。
*
里の中を長老らしき里長のシルダに案内されるかのように、里中を見て回った後、里の中心にある大きな旅館のような温泉施設で宿をとることになった。
夕食後の夜、星々の瞬きが里を照らすかのように輝く夜空を、旅館の開いた窓からイノは身を乗り出しては眺めていた。
「綺麗ですねー、部屋の中もいいですし」
「そうかよ」
話にのることもなく、つまらなさそうな顔をし、リオラはふたつある質素なベッドのうちの部屋の入り口側の方に体を横にした。
床は木材だが、着色なのかそれとも元々の色なのか、赤みを帯びた艶のある床に石膏の壁でできた旅館の中はイノたちの思っていた旅館とは少し異なっていた。落ち着く部屋だが、どこか新鮮味がある。
「ここの人たちすごいですよね」
「自給自足か? テメェ旅してるくせにそんなことで驚く必要ねーだろ」
「違いますよ。外へ出ようとせずにずっとここで暮らしてることにです」
それを聞いたリオラは寝ている頭だけを動かし、窓際のイノを見る。
「わざわざ外いって竜に喰われるぐれぇなら、一生ここで安全に暮らしている方がいいんだろ。外出たいガキもいるだろうが、どうせ親に止められているだろうよ」
「それだけあのおじいさんを信頼しているんですね」
イノは開放している窓の縁に腰を降ろす。夜の涼しい風が入り込んでくる。
「だろうな。胡散臭いとは思ったが、やっぱり――」
「そんなことより温泉入りましょう!」
リオラの話を聞いている様子はなく、嬉しそうな顔で言っては窓縁から降りる。
「……聞けよ」とリオラは半目になって呆れる。そもそも話振ったのおまえだろ、と呟いては、入浴の準備をしようとベッドから起き上がった。
「……!」
一瞬だけピタリとリオラの動きが止まる。その瞬間をたまたま見ていたイノは、
「どうしました?」
「ん?……ああ、なんでもねぇよ。この里にデケェならず者が入ってきただけだ」
そのとき、近くからけたたましい咆哮が聞こえる。この静かな夜空にはあまりにも不釣り合いな音。この獣に似た、だが、獣よりも覇気がある咆哮は、この大陸に入ってから何度も聞いている。
「あー、ドラゴン来ちゃったんですか」
特に驚く様子もないイノは踵を返し、外の景色を見る。ここの部屋は四階にあるので、里の様子が見えるが、街灯の一つもない田舎なので、かなり暗い。普通の人ならばほとんど見えないだろう。
「けっこう鳴いてますね」
「威嚇だな。腹でも減ってんだろ」
リオラも外の様子を見に、窓際にいるイノの後ろに立つ。
「へー、竜人族って竜の言葉も分かるんですか」
「知るかンなこと。なんとなくそう感じただけだ」
「ふぅん」と関心なさそうに外を見つめる。
「……おまえ里の人助けに行かねーのか」
「え、なんでですか」さらっとイノは振り返り様に言葉を返す。里からは龍の咆哮の他に里人の悲鳴も聞こえる。
「おまえ正義感ありそうな顔の割に人助けとで顔突っ込まないんだな」
「あー、前に何度かありましたよ。でもここには仙人がいることですし、もうすぐ助けに来るでしょ。今日はもうお風呂入って寝る以外はしませんよ」
「……それもそうだな」
何か違うような、と思いつつ肯定したリオラの目には一瞬だけの雷光が入り込んだ。
「お、今の何ですかね。雷ですか?」イノも見えていたようだった。
「いや、電気も弱ぇし、落ちてきてねぇから雷じゃねぇな。なんかの武器か?」
竜の声が段々と弱り果てる。微かな呻き声の後、ズズゥ……ンと何かが大きく倒れる音がした。そして里の方から歓声が沸く。仙人とその弟子の名が、感謝の言葉と並べられる。
「やっぱり仙人だったか」
「でも倒したの弟子の方でしたよ。あのとき一緒にいた人よりなんかおっきかったですけど」
視力が優れている上に、暗闇の中でもはっきりとふたりは見えている様子なので、互いの会話に困ることはなかった。
「ありゃあ『巨人族』……いや、にしては少し小さいな。似たような種族か、半分の巨人の血を持つやつか。……妖人族の他にも異人種がいるとはな」
怪しげな目で暗闇に溶けた人々の中にいる巨漢をみつめる。武器らしきものを使ったものの、自分より巨大な竜を仕留める実力に疑いを持った。
「まぁ解決したようなんで温泉入りましょうよ。いつ以来かなー」
呑気な様子でイノは先に部屋を出る。リオラはしばらく外の様子を見た後、開きっぱなしの部屋の戸を潜っては戸を閉めた。
*
翌朝、ロゼアに起こされたイノとリオラは、早速昨晩のことについて尋ねた。
「うん、そうだよ。桜燐竜が来襲してきたんだけど、シルダ様の一番弟子のアムニダ様があっというまに退治しちゃったのさ」
ロゼアは自分のことのように話す。如何に尊敬しているかが見ていてよくわかる。
「そいつが巨人族の男か」リオラは訊く。
「巨人族というよりは、ラーマ様と同じ半分の血を受け継いだ……」
「半巨人だろ」
「まぁ、そうとも言えるね。でもその言い方を本人の前であまり言わないようにな」眉を寄せては注意した。差別用語だと把握したリオラは「はいよ」と軽く返事する。
「とにかく、昨日はしっかり休めたようでよかったよ。ひとりは眠たそうだけど」
ロゼアは寝ぼけ眼を擦るイノを見て笑う。
「んん……もう少し寝ていていいですか?」
眠たそうなイノの声は猫撫で声にも似ている。
「ふふ、別に構わないさ。好きなだけ二度寝していても、好きなだけこの里で過ごしていても構わないよ」
そう言っている間に、イノはベッドにバフッと入り込む。
「飯はいいのかー?」
ロゼアは大きめの声で話かけるが、ベッドに入り込んだイノに反応はなかった。
「じゃ、オレだけ先に食っていくわ」
「いいのか? 置いていって」
「どうってことねーよ。寝たきゃ勝手に寝てろって話だ。そこまでの仲じゃねーよ」
リオラはそう吐き吸てては部屋を出ていく。案内するため、ロゼアは後を急ぐ。ベッドの方から既に寝息が聞こえていた。
*
午後を迎えてやっと目を覚ましたイノは大滝付近の池の畔に座っていたリオラと合流し、日が沈むころに、シルダや里の人々に別れを告げては山を下りる。
夕暮れの山中の深い森で、イノとリオラは比較的緩やかな獣道を歩く。竜の呻く声が聞こえ始め、昼間とは違い、ただ薄暗いだけではなく、独特の森の不気味さが醸し出していた。
「リオラはあそこの池で何していたんですか?」
「別にオレが何したっていいだろうが。文句あるか?」
反抗期のように言い返すリオラだが、イノは構わず何か思いついたような顔をする。
「わかった、あれでしょ。里の人に怖がられて一人ぼっちに――」
「うるせぇハッ倒すぞ」
図星だったようだ。そのとき案内役のロゼアはいなかったのだろう。「まぁ落ち着いて」とイノは笑う。
そのとき男性の声が聞こえる。遠いようで近い、距離感が分からない悲鳴だった。
「……ん、なんだ?」
「誰か叫んでましたね」
先陣切ってイノは声の聞こえる方へと駆けつける。リオラは枝葉を避けながら歩いてついていった。
「くそぅ! こんなところで俺は……っ、俺はァ……っ!」
男は息を切らし、必死に山を駆け下りる。縺れたように走る様子はいつ転んでもおかしくない。
「こっちですよー」
「おい呼ぶのかよ」
イノが大きな声で男を呼びかける。木々で見通しが悪い。表情までは分からないものの、人の形だと判別できるまでの距離はあった。
男はイノの声に気がついたのか、こちらへ向かってくる。
「……あれ、倒れました?」
だが、男は声を出すこともなく突然倒れた。一瞬だけ赤い何かが男の背から噴き出てきたのをイノたちは確認した。だが、後ろには誰もいない。
「……へぇ」
イノの背後で妙にリオラは納得した声を出す。
「何かわかったんですか?」とイノは後ろを振り返る。
「さぁな。なんでかは分からんが、もうちょいあの里にいる必要があるな」
リオラは踵を返し、山を登り始める。
「あの人助けないんですか?」
「よく見ろ、もうとっくに竜の餌になってるだろ」
常人では何がいるのかさえ分からないほどの距離をイノは普通に見て取れたようで、イノにはしっかりと小さな竜の群れに肉を喰いちぎられている光景が入っていた。
「……そうですね、行きましょうか」
イノはリオラについていく。先程までの呑気な表情は消えていた。
*
「……ンで、テメェはここが怪しいとみたのか」
「そうですね」とイノは正面の大きな建物を見る。
「まぁ、俺もそう思ってたがな」
目の前には「鐘楼殿」の裏側が聳え立っていた。昼だと言うにもかかわらず、驚くほど辺りは静かだった。
「静かですねー」
「そうかぁ? 俺にはうるさく聞こえるが」
リオラは腕を組み、歯を出して嘲笑にも似た笑みを浮き出す。
その表情の意味を解っていなかったイノは首を傾げた。
「耳良いんですか?」
「ま、普通の人よりはな。目も鼻も舌もそんな感じだ」
だからな、と話を続ける。
「里で『ヨルマがカミサマに召し上がられた』と話題になっているのが良く聞こえるぜ」
鐘楼殿から里の集落まで300メートル以上はある。その距離にして簡単に人の会話程度の音を聞き取れる聴力は凄まじいものであった。否、それを処理する脳の発達ぶりが凄まじいのだろう。
「ヨルマってのは俺たちが見た殺された男のことかもな。カミサマってのがよくわかんねぇが、あれだろ。なんかの生贄でひとりの命奪う類のものだろうな」
「なんでそうしてるんでしょうね」
「さぁな。だが、どうやらカミサマと仙人とは繋がりがあるらしいな。鐘楼殿にいる仙人と弟子の声も聞こえらぁ」
「えーいいなぁ、僕なんにも聞こえませんよ」と壁に耳を当てる。コォォ、と空気の通る音しか聞こえなかった。
「とりあえず、まずは潜入だな。ぐうの音も出ねぇような証拠を握ってやらぁ」
「そういう考えはもってるんですね。でも無闇に暴れないで下さいよ?」
「ハン、あんましテメェに指示されたくねぇな。ま、ここでなんかやってんのも、仙人に会ったときに感じた変な力も、この中に入れば……」
リオラは頑丈な赤い壁の上二ヶ所を指で突き、下二ヵ所を靴の爪先で蹴ると、四カ所に小さな穴ができた。そして、上二ヶ所の穴の間に手を突っ込んでは壁に埋める。
「ふんっ」と埋まった手に力を入れ、引っ張ると、点に線がなぞったように、罅ができ、バコ、と一枚の分厚い壁を引っ張り出した。
「ぜんぶわかるってことだ」
その様子にイノは驚くことなく、
「まぁ行きますか。捕まる前提で」と笑う。
「捕まってもどうせ逃げられるだろ」
ふたりは四角形に空いた強制的につくられた裏口を潜った。その先に見える、中華的な殿の外見とは一風異なった、薄暗い赤石造りの倉庫らしき部屋をスタート地点にして。
一時間後、地下室にて誰かが牢屋の一室に入る。発光性を利用した黄土色の金属の球体が、灯りとして幾つも並んでいる壁の四角い穴に設置されている。
「大人しくそこにいるんだな」
「今夜、おまえはカミサマに捧げられるんだ。ありがたく思えよ」
甲冑姿で顔の見えないふたりの兵役の弟子にそう告げられ、ただの鉄ではない何かの金属でできた牢と牢屋内の天井や壁、床に閉じ込められる。
おそらく、人間にない特別な力や腕力でもものともしない金属なのだろう。そうでなければ、人間より力のある竜人族を閉じ込めようとはしない。
「……クソッタレが」
捕まった、否、大人しく捕まることにしたリオラは舌打ちをした。
兵役の弟子に見つかってしまい、その兵に手を出そうとしたところ、「危害はダメです」と言われた途端に思い切り背を蹴られ、弱っているところを捕えられた。そのときには、既に旅人の姿はいなくなっていた。そのことを思い返し、再び舌打ちをする。
「あの白髪頭め……会ったら首飛ぶほどぶん殴ってやる」
そう呟いて、狭い牢屋に置いてあった廃棄されたであろう枯れた麦の茎の束に寝そべる。
数十分後、誰もいない地下の廊下から足音が聞こえてくる。次第に近づいていき、リオラのいる牢屋の前で足音は止まったので、目を閉じていたリオラは頭だけを向ける。
そこにはロゼアがいた。
「おう、また会ったな」
軽い挨拶として笑みを浮かべるリオラだが、ロゼアは一切の笑みを向けない。
「聞いたよ。あんたら無断で勝手に鐘楼殿に侵入したって。何が目的なんだ。やっぱりあんたらもそこらの盗賊と同じ金目当てか」
その目と言葉には侮蔑が込められていた。薄暗くても十分にわかったリオラは鼻で笑う。
「そーいう先入観はよくねぇぞ。オレたちはただ単に仙人の目的を知りたいだけだ」
「シルダ様の目的? そんなの――」
「『カミサマ』の正体をオレは知っている」
「――!?」
ロゼアの表情が変わった。だが、我に返り、反論を述べる。
「あー違うな、知ってしまっただな正確に言えば」
「神様に正体も何もない! ただ週に一度、里の人が神様の為に召される。ただそれだけのことだ!」
「ハハハッ、カミサマに仕える仙人に仕えるアンタでもわかってなかったのか」
リオラは豪快に笑う。ロゼアはキッと睨みつけた。
「なにがおかしいんだ!」
「悪いな、そういうことで笑ったわけじゃねぇんだ。ま、信じるのも大事だが、信じるのと受け入れるのとでは、意味が違う。そもそもあんたは疑うことを知らねぇのか。あぁ、宗教はそういうわけにもいかねぇもんな」
リオラは昔の思い出を思い返すように話している。懐かしそうな目をしていた。
「……」
「あんたらの尊敬している仙人様が知らないところで何をしているのかを教えたところで信じねーとは思う。ま、馬鹿らしく信じ続けるか、一度の疑いをきっかけに、自分の目で確かめるかは、判断に任せる」
そう言ったリオラは再び寝付く。
「ああ、そういえば、オレたちが山から下りる途中、ヨルマという弟子の服着た男が殺されるところ見たぜ。仙人様の自慢の弟子にな」
「――え?」
数秒の後、ロゼアは牢屋越しのリオラに詰問を繰り返すが、一切答えることはなかった。
最上階の一室。赤い絨毯や鳥竜の剥製など、比較的他の部屋よりは豪華な施しのされた少し広めの部屋の奥に、両手以上の幅を持つ赤い木製のデスクがあった。そこの大きな席に座っていたシルダは目の前で報告しているラーマに耳を傾けていた。
「そうか、逃げ出したか……」
「はい、申し訳ありません」
「……で、始末したと」
シルダの重い一言が圧し掛かるようにラーマの頭が下がる。
「まぁ良いわ。もうすぐで完成するが、何も慌てる必要はない。この里には疑う者も、妨げる者もおらん。部外者も帰ったことだしの」
ほっほ、と慰めるようにやさしく笑う。その笑い声にラーマは安堵した。
「なにが完成するんですか?」
シルダは驚愕の声を出し、ラーマは一歩下がり、バッと臨戦態勢に入るも、驚きを隠せていなかった。
シルダの目の前には、デスクに組んだ両腕を置いて身体を寄りかからせているイノがいた。
「あのときの旅人か!? 何故帰って、いや、今までどこに隠れてた!」シルダは先程までの話し方とは打って変わり、叫ぶように訊きつける。
「どこって、ずっとここで一緒に話聞いてましたよ」
それに反し、落ち着いた表情で淡々とイノは答えた。
「……聞いていたのか」
シルダの深刻な問いに「はい」と軽く返答した。
「なんか隠してるっぽいですね。何をやっているのか僕にも教えてくださいよ」
まるで子供の作戦会議に参加したいと言わんばかりの様子で、イノは更にデスクに寄りかかる。
「ラーマ!」
シルダがイノの背後にいる弟子の名を叫ぶ。ラーマはダガーを取り出し、タンッ! と風のような速さでイノの背を狙う。
だが、イノはバク宙し、ダガーを握ったラーマの手首を掴んでは回ってきた両足をラーマの首に挟める。
「よっ」とイノは手を放し、身体を思い切り反らしては、その勢いでラーマの身体を浮かせる。床に手をついた後、着地する足と共に赤い絨毯に頭部から打ちつけた。バキャッ、と木製の床に穴が空く音が部屋に響く。
「ラーマ!」
先程とは異なる意味でシルダは弟子の名を叫んだ。ラーマの頭は床に突き刺さったままで、身体は逆さまになっている滑稽な姿になっていた。だが、腕を使ってすぐに起き上がり、青い髪についた木の破片を払う。
「大丈夫ですシルダ様! にしても……ただの旅人じゃないな」と呟いては振り返る。そのとき、ダガーを手放してしまったことに気が付く。
「あ、この刃物危ないんで僕が持ってますよ」
ハッとラーマは前を向く。イノはダガーをくるくると器用に回していた。
「相当すごい隠し事なんですね。ますます気になります」
イノはダガーを宙に回し、回転している柄の先端に人差し指と中指を当てた瞬間、手首を曲げる。指と手首の力でダガーは弾丸の如くラーマの首元ととシルダの蟀谷を掠る。
秒速約900m。速度としてはアサルトライフルよりは劣るが、通常のライフルには勝る。ダガーは深々と壁に刺さり、柄が埋まりかけている。
「……っ、まさか貴様も何かの異人種か……っ!」
ラーマはより警戒し、シルダはただ悪寒が走るばかり。イノはラーマの言葉を聞くなり手のひらをぶんぶんと振っては否定した。
「違いますよ、普通の人間です」
「嘘をつけ! ただの人間がそんなこと――」
そのとき、絵の具が混ざるように景色がぐにゃりと歪み、物ではなく、ただの色としてしか認識できなくなった途端、その色が変化する。歪みが正常に戻り、空間として再形成されたとき、先程までのシルダの部屋とは違い、白い大理石でできた、石柱の並ぶ広い空間へと切り替わっていた。
ラーマの反応と窓に映る木々の高さより、ここは多くの弟子が集会する鐘楼殿の一階のメインエントランスなのだろう。
「これが仙人の不思議な力ですか? おもしろいですね」
楽しそうな顔をするイノとラーマの距離は2mから6mへと変わっていた。シルダはラーマの後ろにいる。
「ここは……集会の……」
「私の部屋で暴れられても困るからな。ここで存分に痛めつけてやれ、ラーマよ」
「――承知しました」
了承したラーマの瞳が変わったと同時に足を踏み込む。踏み込んだ足元の大理石の床に深い罅が入った。
「……?」
だが、ラーマはその罅に違和感を抱いた。脚に伝わる力のベクトルが強い。
ビシリ、と勝手に罅割れたときのラーマの判断は早かった。すぐにその場から離れ、バックステップしたとき、罅割れた床が破裂するように吹き飛んだ。
「うぉっ!?」
「何事だ!」
「……あれ、リオラじゃないですか」
直径1mほどの範囲の床が砕け、深い穴が空く。そこから出てきたのはリオラだった。三点着地の体勢から起き上がり、砂埃が晴れると同時に、その威圧感は広い空間全体に重力を掛けた。
「戦の匂いがするもんで、寝てるつもりがつい来てしまったぜ」
「ば、馬鹿な……! おまえは牢に閉じ込められたと兵役の報告で――」
「牢? あんなすっかすかの檻で捕まえたとでも思ってんのか」
「くっ……」とシルダは奥歯を噛み締める。
「いやーよかった。無事でしたか」
リオラは声が聞こえた方へと振り返る。彼の表情は怒りが込められていた。
「あれ、どうしました?」
「テメェは後でぶん殴ってやるから覚悟しとけや」
「え、なんで――」
ズドン! と前の方から振動を感じたふたりは顔を前へ向ける。
「おおっとぉ? シルダ様、これはどういう状況ですかい。デケェ音がしたもんで慌ててきたんですけど」
筋肉が隆起した4mほどの髭を生やした四角刈りの巨漢がシルダに尋ねる。服装はラーマと同様のカンフー着に似た宗教服だった。ラーマとシルダは一瞬だけ安堵の表情を浮かべる。
「うわ、間近で見るとデカいですね」
「まさに筋肉ダルマだな」
昨日に竜を討伐した様子を旅館から観ていたイノとリオラはそこまで驚きはしなかった。
「アムニダよ、あそこにいる侵入者を叩き潰してくれぬか。ラーマと協力してな」
落ち着いた声だが、その目には焦りが感じられた。
アムニダと呼ばれた巨漢は少し困った顔で頭をガシガシと掻いた。
「え、ですが、無闇に人を殺すのは駄目だとこの間シルダ様が――」
「秘密を知られた」
すると、アムニダの表情が変わり、バッとイノ達を睨む。真剣そのものといってもいい。
「かしこまりました。すぐに潰してきやす」
「おい、正確にはまだ知ってねぇぞオレたち」リオラは不機嫌そうに言う。
「リオラには悪いんですが、先に見てきましたよ」
その一言に、シルダ達の疑惑は確信へと変わった。抹消するべき存在だと。
「鐘楼殿の天辺に光る文字とか模様が円の形の中に描かれていたんですよ。その中心に水晶玉が置いてあったんですけどね、それと先程おじいさんの不思議な力でここまで飛ばされたんですよ。それらのことでわかったんですけど……」
「あれか、別世界の力を借りてるってことか」
理解したのか、腕を組んでいたリオラはそう言った。
「え、別の世界ってあるんですか」
しかし、イノの推察とは違っていたようだった。
「は? じゃあおまえはそれを何だと思ったんだよ」
「えーっとですね、あれ、なんて言おうとしてたんでしたっけ」
「知るかボケ。認知症か」
「フン、そこまで知られたならば、消える前に目的を話してやろう」
ラーマとアムニダの前に出てきたシルダは杖を床に突き、大きな声でイノ達に告げる。ラーマとアムニダは何も言わなかった。
「いやいいです。気になってはいませんし」
「ここは聞いておくもんだぞ」
「私らは"ある世界"の者と出会い、この世界には存在しない力を与えてやると提唱してくれた。仙人に一歩近づくためにも、私らはその話に乗った。その代わりに、幾つもの人魂を渡すという条件でな」
「だからこの里の人を週に一度、カミサマの元へ連れて行かせるしきたりを作ったのか」
「そうだ。その上、里から出た者も、秘密を知ってしまった者も殺しては魂として捧げた。それを竜のせいにすれば誰もが里から出ようとはせず、より平和にこの里は繁栄していったがな」
「全く、ひでぇ話だな」
皮肉を言ったような声調だったが、リオラの表情には一切の笑みが含まれてなかった。イノは立ったまま眠りかけていた。
「渡す魂が増える程、力は増幅していった。完全な力を手にするのにあと少しの魂が必要なんだ。あと2人分の魂が」
「あ、ホントにあとちょっとなんだ」と起きたイノは呟いた。リオラは警戒した目つきで指を鳴らす。
「だから、丁度いいところに秘密を知ってしまった君ら二人の魂をいただくとしよう」
シルダはアムニダとラーマの名を呼び、後ろに下がる。傍に居た二人は彼に応え、イノたちの前に立ちはだかる。
シルダは手をかざす。すると、建物が揺れ、10メートル四方の厚さ1mほどの大理石の壁が床から盛り上がる。それは天井付近にまでに至り、閉鎖に近い空間は殆どの光を遮らせる。
「ありゃー、閉じ込められましたね。ちょっと暗いですし」
「バトルリングってことか。んなことしなくても逃げやしねーよ」
「そんな軽口叩けるのも今の内だ」
4メートルはある半巨人のアムニダは全身に力を入れる。筋肉が隆起し、血管がうねる。腰のベルトに装着してあった金属質のグローブを両手にはめ、背に担いだ大型の鉄鎚を持つ。カチリとスイッチの音がした瞬間、バチバチと電気が鉄鎚から発した。
「竜人族だな確か。だが、この雷の鉄槌の前では敵うまい。現にこれで何匹もの竜をいたぶり殺してきたからな」
「僕よりもリオラ狙ってそうなんで全部任せていいですか? ずっとここの中歩き回ってたんで疲れました」
「別にいいぜ。まとめてぶっとばせばいいだけだろ?」
「……聞いてんのか貴様らァ!」
上から鉄槌が下される。雷が墜落したかのような破壊力は教会の分厚い石床をいとも簡単に打ち砕く。その衝撃は爆発の如く、瓦礫と化した床を拭き飛ばし、罅が床を伝い、盛り上がった壁へと達する。
纏った電気が放電し、周囲に電撃が走るが、イノとリオラは間一髪でその一撃を避けることができた。
「あれまー、弟子なのに教主の家の床壊しましたよ」
「秘密が漏れるよりはマシなんだろうな」
「ラーマ! その白髪頭もただの人間ではないようだ。そいつを始末してくれ」
「了解!」
「ん? ……っ!」
ゴッ! と鈍い音と共にイノの華奢な身体が吹き飛ぶ。盛り上がった壁に激突するが、追い打ちをかけ、ラーマは壁ごとイノを蹴り、分厚い壁の外へと吹き飛ばす。
「……っ? まだ生きて……って逃げるんじゃない!」
普通ならば人体など一蹴りで殺せる。だがその白い旅人は意識すら保っており、特に瀕死を与えたわけでもなく、窓を割っては聖堂の外へと逃げていった。
「待て!」とラーマは砕けて穴の開いた壁を潜り抜け、逃げ出したイノを追う。
「あいつ、あんな半妖ごときにやられてんなよ。って逃げたのか」
「人のこと気にする余裕があるのかおい!」
ズドン! と再び鉄鎚が振り下ろされる。しかし、リオラはぶかぶかとした黒いカンフー着のズボンのポケットに手を突っ込んだまま素早い足捌きで軽く避ける。
「……そのでっけぇ戦鎚、変な鉱石ついてんな」
それを聞き、アムニダは鉄槌を肩に担いでは感心の声を出す。
「ほぉ、気づいたか。強い衝撃であればある程、伝わった振動が内部で増幅し、それを衝撃波として反射できる鉱石を打撃部分に装着している。下手すりゃ爆発を越える代物だ。例え殴ってもそれが何倍返しとなってその拳に反射し、骨折するカウンター機能をもつ石だといえばわかりやすいだろう」
「へぇ、そいつぁ興味深いな」
にたりとリオラは笑う。
釘抜きの部分が刃物のように鋭利になっている。アムニダはその部分に持ち替え、振り回すが、悉く避けられ、空を切る。
「薬くせーぞ半巨人。その筋力、薬物で作ったもんだろ」
「お前が知ることではない」
リオラは呆れた目を向ける。
「なーにが仙人の弟子だ。あの仙人もそうだけどよ、自分の種族の血と変な術に頼っているだけじゃねーか!」
「シルダ様を侮辱し、この俺に説教をするか! 竜人族の分際で!」
「うぉあああああ!」とアムニダは電流が走る鉄槌に力強く握りしめ、渾身の一撃を横に振りかぶった。
リオラは自身の右手首の金属枷を左手で握り、右腕に静かに力を入れる。黒い袖を捲くって露わになってい腕に薄く血管が盛り上がる。息を吸い、目の前にまで来た巨大な鉄槌を睨みつける。
「こんな程度か巨人の血はァ!」
教会内を揺らすほどの衝撃が轟音と共に振動する。一切感電することなく、リオラの右ストレートはアムニダの一撃に打ち勝ち、巨大な雷の鉄鎚を打ち砕いた。
「っ、バカな!?」
「――いっぺん修行し直してこいやァ!」
体を捻り、パンッ、と床に罅が入るほど重心を一気に右に傾け、左拳を繰り出す。腹部に打ち、常人の3倍以上はある巨体をいとも簡単に吹き飛ばし、盛り上がった壁と聖堂の壁を貫通し、里の外へと飛んでいった。
夜の涼しい風が入り、パラパラと壊れた壁から小さい瓦礫が零れるように落ちる。
「仙人っつーもんは限りねぇ努力で死んで、初めて不老不死の仙人になるんだよ。覚えとけ」
*
燈滝の里の外、一閃が走り、数本の木々が倒れる。
「くそ、なんて身のこなしだ」
木々を跳んで渡り、鋭く化した爪で逃げるイノを狙う。だが、一度も当たらず、ただ幹や枝を切り落とすだけだった。
まるで空を飛ぶかのようにイノは華麗にラーマの猛攻を避け、流れるように木々を渡る。幹を蹴って跳び、細い枝を折ることなく走る姿は異人種でもないただの人間というにはあまりにもかけ離れていた。
「何かの薬を使っていたに違いない……」
ラーマは腰の袋から小さな黒い粒を一握り掴み、半妖人故の腕力を駆使し、イノとその先に思い切り投げる。
地面や木に当たった瞬間、パァンパァンパァン! と黒い粒は炸裂し、中から出てきたさらに小さい粒が四方八方に銃弾に近い速さで飛散する。すると、無数の小さい爆発が視界に広がり、目が眩むほどの閃光があちこちで発生する。
(仮に爆発から逃れても目晦ましで視界を奪われているはず)
暗闇と眩しさに慣れているラーマは倒れているだろう白い髪の旅人を探す。小さな爆発により森に幾つもの穴や損傷が見られた。
(……いない……?)
そのとき、脳天に強い衝撃が走る。不意を突かれ、一瞬意識が飛び、地面に叩き付けられるように落下した。何事かと上を見る。
「――うぉっ!」
ラーマは冷たい土と草の混じった地面を転がる。間一髪、上からの一撃を避けることができた。
「あ、気づかれちゃいましたか」
埋まった足を引き抜き、イノはフラフラと立ち上がったラーマを見る。辺りは光のない暗闇。追っているはずが逆に狙われていたとは。ラーマは先程までの余裕をもたず、警戒態勢に入る。
「くそ、策を考えねば」
「大丈夫ですよー、ぜんぶ視えてますんで」
その声にゾクッとする。何が大丈夫なのか、何が見えてるのか。疑問に思うが、それでも勝てるとラーマは自分を信じた。
「見える、か。じゃあこれはどうだ」
足を踏み込み、ふっと姿を消す。
瞬間、イノに斬撃が襲い掛かる。
「……っ」
身体ごと服が裂け、鮮血が舞う。周囲の木の幹や根、地面までもがスッパリと斬れる。
「この速さ! おまえに見えるか! これが妖の力だ! 見えるものなら捕まえてみな!」
あちこちから声が響くように聞こえてくる。だが、木々が切れる音で聞き取りづらい。
先程の一撃で舞った血飛沫が服を赤く染めるが、一向に倒れる気配はない。ぼうっとただ前方と何もない夜空を眺めていた。
「……もういいですか?」
イノは一言を発し、振り返る。
「っ!?」
イノは振り返りざまに掌底突きを与え、丁度背後から奇襲を仕掛けようとしたラーマを気絶させた。鳩尾に強い衝撃を与えたので、呼吸困難に至るだろうが、それ以前の問題、掌底突きのあまりの衝撃の強さに意識を飛ばしてしまっていた。
「ぃよっとぉ」
イノはそのまま掴み、前方上へ投げ飛ばした。
そのとき、前方の空から勢いよく何かが飛んできた。それはリオラが殴り飛ばしたアムニダだった。気を失ったアムニダと先程の掌底突きで気絶したラーマは衝突し、森に墜落していく。バサバサ……と野鳥の群れの飛んでいく音が聞こえてくる。
それをイノはただ眺めていた。
「……よし、ナイスタイミング」
*
その頃、息を切らしたシルダは最上階の下の自室にいた。
「……くそ、旅人め、邪魔をしおって。何事もなく帰ったと思ったら……タイミングが悪かったか。だが、もう少し、もう少しで私は不老長寿を手にできるというのに……まぁ、あいつらが始末してあいつらの魂を取ってくれるだろう。その暁には……ふふ、この利用してきた里以上の、いや、大陸を支配できるだろうなぁ。笑いが止まら――」
シルダの背後で物音がする。慌ててシルダは振り返ると、完全には閉まっていなかったのか、開いた部屋のドアの傍に立っているロゼアが、唖然とした顔で見ていた。
「なんだ、ロゼアか……どうしたんだ、そんな真っ青な顔をして。なにかあったかの」
シルダはほっとした顔且つやさしい表情で語るようにロゼアに話しかける。だが、ロゼアの表情は変わらぬまま、一歩下がった。
「シルダ様……今の話って、まさか……」
疑惑。そう感じたシルダは真っ先に顔色を変える。最早説得は無意味だと。今の状況にとって無駄な手間だと判断して。
「すまないロゼア。少しだけ、いや、君を神様に捧げるとしよう」
「……え?」
シルダは指先をロゼアに向ける。ぽうっと先端が赤く発火し、それは次第に熱気ある白い光へと変わっていく。
高熱にまで達した白い光が光線として発射されたと同時、シルダとロゼアの間の床が噴火するように砕け、哮る竜人族の姿が悍ましく躍り出てきた。
「――くぁっ」
右目に高熱の光線が被弾し、リオラは不意を突かれたような声を出す。だが、白い高熱を帯びた目は溶けることなく、次第に光を失っていく。
リオラの眼球は無傷だった。
ギロリ、と眼球だけを動かし、シルダを睨む。突然の出来事で驚き叫んでいたシルダとロゼアだが、その感情が本能的に引込められたのはシルダの方だった。
「ひっ……」
老人として情けない声を出した。まるで巨大な龍にでも睨まれているかのような威圧感を前に、動くことすらできない。
だが、口だけは流暢に動かせた。
「……た、頼む! 殺さないでくれ!」
身体の自由が利いたのか、咄嗟にシルダは膝をつき、頭を床に押し付ける。
「なんでもする! だから殺さないでくれ!」
先程の独り言、自分を殺そうとした行為、そしてその情けない姿を見、ロゼアはこれ以上ない程のショックを受けていた。
「……」
だが、リオラは黙ったままだった。彼の目の前には、小さくなっては必死に命を乞う老人の姿のみ。ただ、何の感情もなく、老人を見つめていた。
「頼む、頼むからぁぁ……」
――お願いだ! 殺さないでくれぇ! 見逃してくれぇ!
――このバケモノが! こっちに来るんじゃねェ! 消え失せろ!
――やめてぇ! まだ死にたくないのよ! こっち来ないで!
「……やめてくれ」
それは、あまりにも小さな声だった。だが、老人には何とか聞き取れたようで、思わず顔を上げる。
「……え……?」
「――オレの前でそんな脅えた姿晒すんじゃねェ! とっとと出ていきやがれ!」
その怒鳴り声で老人はひっくり返るように腰を突き、慌てて部屋のドアへと足取り悪く、だが、必死の形相で出ていった。今の彼にはロゼアの姿さえ見えていなかっただろう。
「……」
沈黙が走る。リオラはただ呼吸をするだけで、一歩も動かなかった。
「あ……あの……」
ロゼアは恐る恐るリオラに声をかける。だが、一歩も前へは進まなかった。
「悪かったな……おまえらの尊敬していた人を台無しにしてしまって……」
そう呟いては、部屋から出ていく。重く感じた重力は一気に軽くなったが、ロゼアは信じられない出来事の連続に上手く把握できていなかった。だが、何故かあの竜人を追わなければならないという判断はでき、それが正解だったかのように、竦んだ足を動かすことはできた。
部屋を出た途端、強い風が吹いてくる。壁に大きな穴が空いており、そこから冷えた風が入ってきている。標高が高い分、風速は早く感じたロゼアは、廊下を見渡す。だが、いくら探しても、あの竜人の大きな背中は見当たらなかった。
*
夜空の元、リオラは鐘楼殿の裏にを歩く。すると、暗い山の森の中からイノがひょっこりと姿を現した。先程までのラーマとの傷跡や損傷したはずの服は何事もなかったようにすべて元に戻っていた。
「あ、リオラ――」
ガン、と思い切り殴られ、吹き飛んだイノは鐘楼殿の壁を崩した。パラパラと木片や礫が崩れる中から砂埃と共に出てくる。
「痛った~、なにするんですか」
しかし、特に怪我をしている様子はない。リオラの元へ近づきながら、少し困った顔で訴える。
「うるせぇ馬鹿野郎! テメェのおかげでこっちは捕まったんだぞ!」
「えぇー、知りませんよそんな事。……ホントに何のことでしたっけ」
「て、テメェって奴は……っ」
リオラは拳を握り、今にも殴りかかってきそうだった。
「あれ、ロゼアさんだ」
「あ?」とリオラは振り返る。夜で薄暗いが、確かにロゼアがこちらへ近づいてくるのがわかった。
「こんなに暗いのによくわかりましたね」
イノは感心した様子でロゼアに話しかける。だが、案内していた時のような明るい表情ではなかった。
「大きな音と声が聞こえたから……その、なんというか……ありがとう、といえばいいのか……」
「思ったことを言えばいい。オレたちは受け止めるからよ」
その一言がロゼアの曖昧な感情を一つに絞らすことができた。ロゼアは口を開く。
「例え……例えシルダ様がインチキだったとしても、私たちを利用していた悪人だったとしても、私たちにとって救世主であったことに変わりはなかった。正直……何てことしてくれたんだって思ってる……」
物悲しそうな目だった。暗くても、目が微かに潤んでいるのが見える。それだけ、彼を慕い、同時に道標の存在でもあったのだろう。
「シルダ様がいなかったら、私たちは明日からどうやって生きていけばいいのよ……っ」
震えた声だった。イノとリオラは口を開かなかったが、心まで揺らいでいる様子はなかった。
「……情けないこと言わないでください」
ロゼアは「……え?」とつい声を漏らした。話始めたイノを見、リオラは息を一つ吐いた後、ゆっくりと背を向けては森の中へと歩み始めた。
「例えそこにいるだけでもいいという気持ちもわかりますし、実際にいなければ困るというのも多少はわかります。でも、頼りっ放しというのも、向こうからしたらいい迷惑だとは思いませんか?」
「……そんなこと――」
「自立という意味で、これからはロゼアさんたちだけで生きてみてはどうですか。もう、仙人の世話になる必要はないほど里は繁栄していると思いますよ」
「……でも」
「『自分の足で前へ進め』。あの仙人がここにいるなら、そう言っているはずです」
「――っ!」
それでは、とイノは背を向け、森の中へと入っていく。ロゼアは声をかける事すらできなく、一歩もその足を前へ進めることができなかった。
*
山を降りるが、麓まで森が続いているので、景色としては一向に変わらない。鈴のように鳴く発達した細長い二対の翅をもつ虫が飛び交い、照葉樹が等間隔で並んでいる。空は盛り上がるような葉で隙間程度にしか見えないが、星が見えたので、晴れてはいるのだろう。
「あの里の人たち大丈夫ですかね」
淡々と無表情で言ったイノだが、少し心配そうに訊いたとリオラは感じ取った。
「自立だとか自分の足で進めだとか言ってたくせに、今更心配してんのかよ」
「聞こえてたんですか」
「言っただろ。異常に目や耳とかがいいって」
「あっはは、そうでしたね」
ただ前へと歩む。少しだけ星空特有の明るさが木洩れ日のように森を少しだけ明るく見えるようにしている。
「まぁ、あの女以外、里の奴等には知られてねえんだし、知ったとしても自分たちでやっていけるだろうよ。あの女は仙人の、いや、シルダの本性を間近で見ていたにもかかわらず尊敬を捨てていなかったからな。それにシルダも懲りただろ。あの弟子もな」
「人を利用せずに、不思議な力無しで、みんなでまた暮らせるようになってほしいですね」
そう言っては静かに笑った。リオラはその様子を見ることなく虫の鳴き声をただ聞くだけだった。
「あ、おじいさんに言い忘れてたな」
「なにをだ」
「最上階にあった水晶と変な模様を壊しちゃったんですよ」
「まぁいいんじゃねぇか? それが仙人の力の正体ならな」
「そうですね」
イノは木にとまっている発光する甲虫を見つめていた。
竜はいないが、小動物が視界の隅で餌でも探しているのか辺りをうろついている。素早い身のこなしが、逆にその存在を証明している様にもみえる。
「……なぁイノ」
しばらくの間の後、リオラが口を開く。入り込んできた涼しげな空気が舌に当たり、森林の香りが含んだ湿気を感じる。
「どうしました?」
「……いや、やっぱなんもねぇわ」
薄暗く映るリオラの顔はほんの少しだけ儚さが見えた。哀愁と感傷に浸ったかのような、そんな顔つきに。
しかし、イノは特に触れることもなく、返事をすることもなかった。
「あ、なんか見えてきましたね」
「やっとか。そろそろ寝ようかと思ってたんだが」
森の外へと出ると、数多の竜が棲みつく大平原が広がっていた。なだらかに丘が上り下りしている、完全に平地ではない地形に、大きな池が幾つもある、草原の国。まるで竜の楽園とも例えられる。右奥には山があり、その麓に照葉樹の森が見られた。
「すっごいドラゴンいますね。うぉ! あれむっちゃくちゃデカいですね! 10メートルあるんじゃないですか?」
イノの指差した、18m越えの四足歩行の甲羅をもつ草食竜や、二足歩行の小型の鳥竜、数m級の獣竜、そして上空には巨大な十数匹の飛竜など、多種多様の竜が活動していた。皆夜行性なのだろう。
「……さて、どれを喰うか」
「え、食べるんですか」少し顔を引きつらせる。
「腹減ってんだ。別にいいだろ」
「弱肉強食とはこのことですね」
勉強になったとイノは笑う。
「ったりめーだ。あと、潮の匂いがするな」
「近くに海があるんですか?」
「平原越えた先にな」
「おお、海水浴ができる!」
「勝手にやってろ」
既にイノは平原の先の池へと走っていった。そして池の中に思い切り飛び込んだ。水飛沫が舞い上がり、水を飲んでいた大小様々な竜は半ば驚いたようなリアクションを取る。
「ホントに好き勝手というか自由というか……」
勝手に自身の巨体に乗っては楽しんでいる旅人を拒絶しない竜は、まるで受け入れているようだとリオラは見て取れた。
池の畔に腰を落ち着かせ、池で竜と戯れるイノをただ眺める。空を見上げれば大きな満月が大平原の緑を照らしていた。




