第１頁 旅をする者
澄み渡った青空を見上げ、息を大きく吸う。
視界の先は命育む緑の景色。緑が燃える丘陵、あちこちに咲く色とりどりの花々とそれに群がる白い蝶。少し先に見える森林と、切り立った崖。奥には霧の被った山脈。川のせせらぎや鳥のさえずりがここからでも聞こえる。
「あぁ～、気持ちいーなー」
その人間「イノ」は背中を大きく伸ばし、再び深呼吸する。
「さーてと」
その真っ白な髪を風に靡かせながら、
「どこいこう」
そう言った。
放浪した紅い目の旅人は、どこまでも、ただまっすぐへと向かう。
＊
夜明けを迎え、なだらかな山を越えると、そこには麦畑が広がっていた。先程見た緑の丘陵よりも柔らかそうな麦がサァァ、と揺れる。まるで緑の海原のようだ。
「人が住んでるのか」
数日ぶりだなぁとイノは嬉しそうに呟いた。白いシャツの上に羽織っているぼろぼろの黒いコートを風に揺らし、茶褐色のブーツで土を踏む音を鳴らす。
麦畑を抜けた先には石畳の広場が広がっていた。その中央に立つ時計台が静かに迎えてくれる。
田舎町のようで、緑の草原や木々と共にぽつりぽつりと煉瓦製の民家が建っており、奥の方を見ると商店街らしき建物が軒を連ねていた。人の姿はまばらだが、どこか賑やかそうに感じる。
なにより、民家や道端に咲いている花々が風に揺られ、各々の鮮やかな色が暖かい日差しによってより一層美しさを引き出していたのが目についた。
「綺麗な町だなー。おいしいものあったらいいな」
浮き浮きした様子でイノは緩やかに蛇行している塗装されていない道を歩み進める。
小鳥のさえずりを聞き、土の感触を楽しみながら踏みしめる。空気がとてもきれいだ。見渡せば遥か先まで続く緑の大地、見上げれば何も遮ることはない大きな青空。日差しが気持ちよく、開放感に満ち溢れていた。
のどかな町の中を歩いているとどこかで騒ぎ声が聞こえてくる。何人かの子供の声だ。
ただ、その声がどうも遊んでいるときの楽しそうなそれとは異なり、なにか責め立てるような、荒々しい声だった。
「ケンカでもしてんのかな」
そう言いながら歩き続けると、道端で数人の子どもが集まっているのが見えた。あそこから騒ぎ声が聞こえる。４人の男の子がひとりの男の子を責めている様にもみえる。
「ふーん」
イノは興味がなさそうな、しかしどこかわかっていそうな声を漏らす。
＊
「弱虫のくせに生意気なこと言ってんじゃねーよ！」
どん、と長身の子どもが自分より身長の低い男の子を押し、地面に倒す。
「い、いいじゃんか、夢見て何が悪いんだよ」
それは弱々しく、しかし芯の通った声で言い返す。
「うるせぇんだよおまえ！ 一番貧乏のくせに夢見んじゃねぇぞ。腹立つんだよ！」
ドスッ、ともうひとりの子どもが腹を蹴り、続いて他の四人も地面に倒れた子供を蹴り続ける。げほっ、と口から体液が漏れるのがわかる。
「チビで弱虫で何の役にも立たなくて、目立たなくて頭悪くて貧乏で汚いくせにいきがってんじゃねーよ。顔も見たくねーんだよ！」
この中では少し大柄な子供が胸ぐらを掴み、拳を振るう。嫌な音が小さく響いた。
「うぅ……」
「そいつ押さえとけ。ボールみたいにその顔蹴ってやる」
長身の子どもがそう言い、他の３人はボロボロになったこどもを押さえる。
「や、やめてくれよ！ 死んじまう！」
「いいんだよ死んだって。別に生きてたって何もないだろ」
生意気そうに、そして冷徹な声で吐き捨てる。その声に押さえつけられた子供はゾッとする。
「思いっきり蹴ってやるから期待しとけよ！」
長身の子どもは思い切りその子の顔面へ狙いを定めて蹴りつける。
かとおもいきや、距離が足りなかったのか、その蹴りは空を切り、その勢いを殺せないまま後ろへドスンと倒れる。頭と腰を打ったようで、頭を手で押さえながら「痛い、痛いよぉ」とのた打ち回っている。
「ありゃ、大丈夫ですか？ 盛大に空振りしましたね」
そう言ったのはその倒れている長身の子どもの後ろで子どもと同じ高さぐらいまでしゃがんでいたイノだった。その声を聞くまでイノの存在に気付かなかったらしく、他の子どもたちはうわぁっ、と驚く。
「な、なんだよおまえ！ なんかしたのかおい！」
「んーと、ノッポ君の背中を引っ張ったってことぐらいですね。こんな自滅するような転び方になるとは思わなかったですけど、お怪我はありませんか？」
きょとんとした顔で淡々というイノにますます子供たちは怒鳴り声を上げる。いじめられていた子どもは突然の登場に唖然とし、痛みなどは薄らいでいた。
「おまえ関係ねぇくせに何首突っ込んでんだよ童顔じじい！ 弱そうな顔のくせに！」
「顔で言われてもなぁ」
イノは白い髪をかき上げながらたははと笑う。確かにこの男女の区別がつかない声とそれに相応する童顔に白髪。性別不明、年齢不詳に見えるのだろう。なにより、子供たちが警戒するように怒鳴りつけているのは、人とは異なるこの赤い瞳のせいかもしれない。
「なにがおかしいんだよ、この変人！」
「へ、変人ですか……」と参ったなといわんばかりの表情で頬を掻く。
「うーん、これでも旅人なんですよ？」
すると、子どもたちは唖然としてイノを見た。
「旅人？ あははははは！ おい聞いたかよ！ こいつ旅人だってよ！」
周りの子どもも笑い始める。イノは「？」の字を頭に浮かべるだけだった。倒れている少年は話を聞くだけで、いつでも逃げられるにもかかわらず、その場にいたままだった。
「旅人って仕事もない、現実から逃げた放浪人じゃん！」
「弱そうなやつはやっぱり逃げるんだあ」
「いいこと教えてやるよ旅人。世の中金なんだって！ 仕事ができる人が権力もって金もって裕福な生活が送れるんだよ。勝ち組なんだよ！ 旅人なんかただの負け犬じゃん」
あっはははと子ども達は笑い続ける。イノはぽりぽりと頭を掻き、
「へぇ、そうだったんですかぁ。これはいいこと勉強しました」
と、純粋に笑う。そこに皮肉など一切なかった。
「まぁ裕福な生活は誰でも憧れますね。その為に仕事とか勉強とか頑張ってますからねー」
でも、と付け足す。
「何が勝ちかは、人それぞれですよ。それだけ知っているみんななら分かると思いますけど」
「なにが言いたいんだよ、訳わかんねぇ事言うんじゃねぇって」
あれ、おかしいな、とイノは少し困ったような悩み声を出し、
「えーとですね、幸せはいろんな形があって、人によって欲しがる幸せは違うってことです」
「じゃあお金はみんな欲しがる幸せじゃん。このホラ吹き旅人！」
ひとりに乗じて「ホラ吹き！」「嘘つき！」と他の子どもたちが連呼する。それに構わずイノは話し続ける。
「まぁ、僕が言いたいのは人に死ねって言ったらダメってことですね。死んだら楽しくありませんもん」
「みんなこいつの話を聞くなよ！ 嘘つきになっちまうぞ！」と全員が耳を大胆に防ぐ。
「あらら、なんか都合いいようにもってかれてますな」と頭をかく。少しだけ目を逸らし、考える仕草をしながら話した。
「ん～、まぁそうですね……あ、そういえば僕お腹空いているんですよ。誰か食べ物をおすそ分けしてくれたら助かりますけど」
思いついたかのように言ったが、嘘はついていないようで、腹の音をきゅるきゅると小さく鳴らしていた。しかし敵意を示している子供たちは当然断った。
「おまえみたいな働きもしないホラ吹き旅人に食わせる飯なんてねぇよ！ あっちいけ！」
「ちゃんと聞こえているじゃないですか」と言っては子ども達に――ではなく、いじめられていた少年の前へと歩む。とうとう子供たちは石礫をイノに投げつけはじめる。
しかし、顔にぶつけられても、一切怒ることも、気にすることもなく、淡々と話し始めた。
「あ、ちなみにですね、僕人間の肉が大好物なんですよ。特にみなさんみたいな子どもの肉。こういう見た目なのでみんな僕の事人間じゃないって知っているかとは思いましたけど」
イノはボロボロになっている少年の前にしゃがみ、頬をその白く細い、女の子のような手で優しく撫でる。そして何かを囁いた後、
「じゃあ、まずはこの子から食べちゃいますね」
ごく当たり前かのように、あっさりと言った。その場の空気が少し固まる。
旅人は少年の頭部を掴み、その真っ赤な瞳を見開かせ、微かに白い歯を見せ、にたりと笑った。
「う……うわぁあああああああ！」
「バケモノだぁあああああああ！」
そう叫びながら、子ども達は痛みで上手く走れない長身の子どもを置いていきながら速い足で走り去っていった。
長身の子どもも「待ってくれよぉ」と泣きそうな声でよろよろと後を追いかける。
「子どもはみんな食べちゃうぞー、なんつって」
手を離しては振り返り、手をわきわきと動かしてニカッと笑う。なははと普段の呑気な表情に戻ったイノは軽く笑う。
その場に残ったのは、子供たちにボロボロにされ茶色い短髪の少年だった。活気ある顔立ちだろうが、今はすっかり弱っている。先程のイノの表情に少し脅えている様子だ。半ば硬直している。
「大丈夫？」
イノはしゃがむ体勢から少し屈んだ体制に立ち上がり、手を差し出す。そのやさしい声に少年はどぎまぎとする。
「あ、うん、えと……ありがとう、ございます……」
少しの躊躇いの後、その対応にたじろぎながらも手を掴んだ。土の匂いが少年からする。傷跡は多いが、ひどい怪我はないことにイノは安心した目つきになる。
「立てますか？」
「う、うん、なんとか」
立ち上がった少年の目を見てから、子供たちの逃げた道へと視線を変える。のどかな町並みから暖かい風が吹いてきた。
「いや～、案外驚くもんなんですね。これからも使ってみようかな」
「あっはは」とイノは笑う。先程の得体のしれないモノの目は嘘のようにも少年は感じていた。
「……」
「気を付けてくださいね。それじゃ」
とイノが去ろうと歩きはじめてから数秒後、
「ま、待ってください！」
「ん？」
イノがその声に気付き振り向くと、その男の子がこちらへ走っていた。顔に付いた傷から血がちょっと流れている。
「あのっ、た、旅人、って言ってましたよね？」
「はい、そですけど」
「お、俺、旅人に憧れてるんです！ だから、その」
「ああうん、いいですよー」
その子が言い出す前にイノは呑気に答えた。少年は戸惑う。
「え、俺まだ何も……」
「とりあえず、家に帰って傷を診てもらいましょう。そこまでついていきますし」
「……うん、わかった！」
旅人の微笑を前に、少年は元気な声で返事をした。
その傷だらけの少年の表情は輝いているようにみえた。
