前文 神亡き世界
この前文を含む序章は特にストーリーに支障ないので読み飛ばしてもかまいません。
目を覚ませば、愛しい世界。毎日の景色は変わらず、幸せはいつもそこにあった。
夢から戻れば、見飽きた街。無様であっても、ただ生きるために地を這い、貪り続けてきた。
瞼を開けば、幻の郷。ただひとつの目的のために、道を切り拓く先駆者となる。
目を醒ませば、何処かのセカイ。自分を失い、夢は何処へと消える。
旅人はただ、天を仰ぐ。
*
どれぐらいの歳月が経ったのだろう。どのくらいの月日の流れを見てきたのだろう。そう思わせるほど、年季のある大きな老樹が鎮座していた。空へ羽ばたかんばかりに大きく広げた新緑の枝葉は木漏れ日を差し、足元の冷えた草土に温もりを注ぐ。その巨体故の威厳は、同時に雄大さを感じさせる。この土の下にどれだけの大きな根を大地に伸ばしているのだろう。決して揺るがない存在がそこにあった。
淡い風が流れ、白き髪を靡かせる。一面に広がる鮮やかな新緑の丘が風に揺られ、擦れた音を立てる。振り返れば白い巨峰、前を向けば青く輝いた海が奥に小さく見える。
一本の老樹の陰りと太陽の日向の境界線。草原の丘には一人の旅人が座っていた。旅人は何も語ることなく、ただその先に広がる世界を、その紅き瞳で見つめるのみ。
記憶も、言の葉も、目の前に映る世界も当てにならなかった。
セカイも自分も、幻のように曖昧だった。
それでも、信じることをやめなかった。
出会ってきた人々がそう教えてくれたから。
だから、彼らに感謝を捧げよう。
いつまでも、いつまでも。
「――」
旅人は立ち上がり、何かを言葉にする。だが、それはあまりにも儚く、ささやかな声だった。
旅人の髪が靡く。その表情はとても穏やかな、しかし嬉しいとも、哀しいともいえるそれだった。
終わりも始まりもない物語。終わりも始まりもない世界。
受け入れ、繰り返されるか。抗い、ただ真っ直ぐと進んでいくか。
変わることなきすべての根源。残酷だけれど、美しい。
そんな素晴らしい世界と、その世界で出会ってきたかけがえのない人々に。
――ありがとう。
白き旅人は一歩前へ踏み出した。
GroBe Ungenauigkeit――
共存から信仰へ。しかし、信ずることさえもなくなり、忘れられかけ、愛されなくなった孤高の存在は世界を見放した。時代は神亡き世界へと変わっていった。
神は死んだ。
だが、世界は鼓動している。
世界を視る眼の輝きが失わぬ限り、旅人の描いた人生は胎動を続ける。
風の往くままに、唄声の聞こえる先へ――。