第8話 「もう一人の諜報員 3」
それから数日経ち、舞花のクラスはあの事件後初めての音楽の授業があった。
グランドピアノは修理に出しているらしく、予備のアップライトピアノ(縦型の普通のピアノ)で弾く音楽教師はいつもより腹に力が入っていなく、テンションが低かった。
グランドピアノがあのような壊れ方をしていたのは、真っ先に生徒のいたずらだと疑われて問題になりそうなものなのだが、朝礼や放送での報告は一切無かった。やはり狙撃したもう一人の諜報員により手が回され、間に組織が介入して隠ぺいしたのだろうと思われた。
そんな事など知らない舞花のクラスのこの間のメンバーは、あの時にピアノが壊れたのではないかと一時怯えていたのだが、天下御免の中学生なので数日のうちに忘却の彼方へ消える。同時に、学校の七不思議についての話題も子供達ならではの流行りの物だったようで、ベートーベンの動く目の事も忘れ去られていった。もちろん、舞花を除いて。
舞花は次第に焦り始めていた。J・POPが覚えられないのでは無い。それは更にレパートリーが百曲追加されている。そうでは無く、音楽室での事件について組織に報告を済ませているのに、何の連絡も無く放ったらかしのままだだからだ。
このままでは、次にまた同じような障害に遭遇した時、失敗を繰り返してしまう。あれが任務に関係ある騒動なら自分には成す術が無い。
物の怪の類など舞花は信じない。だが、仕掛け(トリック)が解けない以上、一般人が妖怪相手にするのと同じ対応、つまり逃げるしか出来ない。弾丸はすり抜ける。なのに、相手の攻撃はこちらに当たる。何と都合の良いモノなのだろうか。それを解くヒントに成り得るのは、何者かによりベートーベンの眉間に撃ちこまれた弾丸なのだが、それは奴と一緒に消えてしまった。貫通して壁にめり込んだ形跡は無かったのだ。
更にまだ舞花を悩ます事がある。あの時、音楽室から逃走を図ろうとした瞬間、なぜか体が動かなくなった事だ。いや、それどころか体の芯が熱くなり意識が飛びかけた。あれは何だったのか? 自分は何をしようとしたのか? 舞花は自分の体に精密検査でも見つからない病が隠されているのじゃないかと疑う程だった。
「舞花ちゃん、どうしたの?」
「んっ?」
登校中、眉間に深いしわを寄せながら歩いていた舞花は顔を上げる。すると、首を傾げて心配そうな顔をしている有璃が立っていた。
「えっと……ノルマまであと六百だなと……考えて……」
[ブォンッ バオンッ ブブンッ ブンブン]
舞花の声は、後方から聞こえてくるけたたましい音によって打ち消された。
二人が振り返ると、歩道を歩く舞花達に道路を併走してくるバイクがある。それは、不必要な程突き上がったライトに、不可解なラッパを付けている暴走族御用達の改造バイク……ではなく、前かごと冬は暖か手袋が付いた原付バイクだった。
「おーい! 一時間目の俺の授業はテストをやるからなぁ! ……昨日伝え忘れていたから、皆に教えておいてくれ!」
かぱかぱとヘルメットのシールドを開け、側頭部と後頭部を覆ったご婦人愛用型ヘルメットを被った男は、うるさいマフラー音に負けない大声で舞花達に叫んだ。そして、アクセルを回すとレース仕様かと思われる大排気音を出しながら、自転車並みのスピードである意味爆走して行った。
「大原先生は……難聴なのか?」
舞花が有璃に尋ねると、耳を塞ぎながら大原の後姿を見ていた有璃は首を横に振る。
「音がうるさいからって修理に出そうとしたら、動いているのが奇跡の原付だって言われて買い替えを進められるんだってさ。でもお金が無いからあれで頑張るって言うんだ」
「なるほど。しかし、それは生徒に物を大切にする心を教えるために作り話をしているとは考えられないか?」
「って私達も最初そう思ってたの。でも、大原先生って本当に貧乏らしくて、給食が無い日に学校の水道でお腹いっぱいにしている姿を男子が見たの」
「それは…………適当な理由が思いつかないな。だがそれで謎が解けた。給食の余ったパンやプリンをいつも大原先生にあげるのはそう言う理由か。あの食いしん坊の大樹も手を付けないし」
「うん! おっちょこちょいで慌てんぼうの大原先生だけど、結構みんなに好かれてるからね!」
有璃が大原の事を話す時のにこやかな表情から、慕われているのは嘘では無いと舞花は感じた。
そしてそのおっちょこちょいの男は、職員用の駐輪場で教諭主任の本宮を轢きそうになり、朝から巨大な三角定規で叩かれるのであった。
一時間目が終わるとすぐ、舞花は有璃にトイレへ誘われた。尿意は無かったが、生理現象は可能な時に必ず済ませておくと教わった舞花は断らない。廊下を歩くその途中、舞花の目の前で勢い良く教室の扉が開き、誰かが飛び出てきた。
「トイレトイレ…おわっ!」
姿を現したのは授業が終わったばかりの大原で、大げさに両手を広げて驚いた。舞花も足を踏ん張り急停止をしたが、舞花の右腕と大原の左腕が交錯するように軽く当たった。
「あ、すまん。……んんっ?」
すぐに謝った大原だったが、何かに気が付いたように鼻を鳴らしてから言う。
「高田。今……固い物が……? 腕に何かつけているのか?」
舞花は舌打ちしそうになるのを堪えた。ミスだった。腕に取り付けている小型拳銃に他人の手が当たってしまった。
「な……何もない」
舞花は作った笑顔でそう言うと、すぐさま廊下の先を進もうとする。しかし、その正面に大原がバスケのディフェンスのように回り込んだ。
「こらっ! 腕時計は禁止だろ?」
「そ……そんな物は知らない」
大原が手を伸ばしてきたが、舞花はそれを半身になってかわす。バランスを崩した大原だが、すぐに舞花に向き直る。
「……あやしいな。腕を先生に見せなさい」
「何もないと言っている」
大原は口を真一文字にしてわざとらしく威厳のある顔を作り、両手を前に構えてじりじりと舞花に迫る。それに対し、舞花は右腕を体の後ろに回し、目線を合わさないようにして少しずつ後ろに下がる。
ふざける事が多い大原なので、有璃はその二人の様子を楽しげに見守っていた。
「先生に腕をみせなさいっと!」
「断固拒否する」
両手で舞花の右腕を掴みに行った大原だったが、そこに舞花の姿は無かった。
一瞬の隙を突いて大原の背後に移動した舞花は、自分を見失って首を振る大原から足音を立てずにじりじりと遠ざかって行く。
しかし、突然思いもよらない角度から舞花は腕を掴まれ、持ち上げられた。
「この生徒の右腕がどうかしたのですか?」
舞花を捕えた声の主は、隣の三組を受け持つ長身の田之上教諭だった。彼はため息をつきながら握った舞花の袖をめくる。すると、舞花の腕に細い皮のベルトで巻きつけられた銃が露になった。
「……これは?」
田之上が指差しながら舞花に聞くと、それに答えたのは大原だった。
「懐かしいなぁ。銀玉鉄砲か?」
聞いた田之上は、顔を寄せて舞花の銃を間近で確認してから大原に言う。
「大原先生、古いですね。エアーガンでしょう。駄目だよ君、おもちゃを学校へ持ってきては」
田之上は、舞花の腕から銃を外して手に取り、いろんな角度から眺めた。
「作りが綺麗だ。お兄ちゃんの? 弟の? 君自身の物だとしても、勉強に必要ない物は携帯電話以外持ってきては駄目なのが校則だろ?」
小学生が本物の拳銃を持っているなど思いもしない。いや思ったとしても、プラスチック製のこれは100人が全員おもちゃだと言うだろう。田之上に大原も、多分に漏れずそうだったようだ。
「とにかく、これは没収だ」
田之上は一通り確認した後、銃を自分のズボンのポケットに入れようとする。しかし、そこに大原が割って入った。
「ちょちょちょっと、田之上先生、待ってください。今回はもう持ってこないと言う事で、警告だけにしてあげましょうよ」
「えっ? 駄目ですよ大原先生」
田之上は、確認の意味を込めて大原にもう一度銃を見せた。それを大原は自分の手に取る。
「人や動物を狙った訳じゃないですし。……あれっ? そう言えば、田之上先生がどうしてここに?」
この時間、大原はたまたま担任をしている三年二組での授業だったが、田之上は別のフロアで違う学年の授業があったはずだった。
大原に聞かれた田之上は、舞花で無くとも分かるほど動揺している。
「そ……それは……」
大原と田之上がごにょごにょと喋っていると、この時間は隣の三年三組で授業をしていた片瀬教諭が出てきた。彼女は二人に気が付くこと無く、長い黒髪を揺らして廊下の向こうの階段へと歩いて行く。
「あっ! ちょっ! 待ってください片瀬先生ぃ~!」
その後を、慌てて田之上は駆けて行った。すると大原は拳を振るわせて言う。
「あのやろぉ。また片瀬先生の出待ちしやがってぇ……」
自分も追いかけようとした大原だったが、振り返ると持っていたプラスチックの銃を舞花に渡した。
「いいか高田。必要の無い物は持って来るなよ。変態相手の護身用だとしても、そんなプラスチックで出来ている銃なんておもちゃだと一目で見破られるからな! 防犯スプレーやブザーの方が効果的だ!」
そして大原は「じゃっ! 先生は急ぐから!」と言って、トイレの事は完全にどこ吹く風だと田之上を追って行った。そこでやっと傍で見ていた有璃が舞花の隣に戻って来る。
「舞花ちゃん鉄砲好きなの? 私もゲームセンターにあるゾンビを倒すゲーム大好きだよ! 次からは先生に見つからないようにしないとだねっ!」
有璃は、天然キャラの舞花が銃を持ち歩いていても不思議に感じなかったようで、それよりも面白かった演劇にご機嫌でトイレへと向かった。
舞花はこの件で、気配を感じさせること無く自分の背後を取った田之上も油断ならない人間だと、用務員の菅原と共に諜報員候補だと位置づけた。




