第10話 「もう一人の諜報員 5」
廊下の先、音楽室の前には誰もいなかった。
舞花は走りながら腕を横に伸ばすと、すぐに制服の袖口からプラスチック製の小さな銃が現れて手の中に納まる。玩具よりもまだ小型のこの銃だが、実弾を二発まで発射可能だ。舞花は一発目の弾丸を装填しながら、開いた扉から音楽室に飛び込んだ。
扉の陰に敵がいない事をまず確認し、間髪入れずに両手で構えた銃を室内に向ける。
そこには……舞花の照準の向こうには男が立っていた。苦虫を噛み潰したような顔をして、肩までの冗談みたいな白い巻き毛と、男子学生服に似たボタンの多いハーフコートを着た年配の男。
「今度は……ヨハン・ゼバスティアン……バッハか」
すぐに前回現れたベートーベンと仲間だと分かった。どちらにも、壁に飾ってあった音楽家だと言う事以外にも共通点があるのだ。ベートーベンもバッハも、陰った場所に立っているかのようになぜか体全体が黒ずんでいた。
舞花は偉大な音楽家の外見を持つ男を注視しながら、広い教室にも視線を配る。音楽室には四人の学生が倒れており、三人は男子、そして、一番バッハに近い所でうつ伏せになっているのは女子生徒。あのおさげ髪は有璃に違い無かった。
銃を構えている舞花に気が付いたバッハは、おもむろに床の上の有璃に手を伸ばした。
「きゃぁぁぁぁ!」
バッハが有璃の首に後ろから腕を回し、締め上げるように立たせると有璃は悲鳴を上げた。だが、正面で銃を構えている舞花に気が付くと、足をばたつかせるのを止める。
「ま……舞花ちゃん! 助けてっ! バッハのコスプレおじさんが急に……」
有璃もまさかこの男が写真から抜け出てきたとは考えなかったのであろう。舞花が壁の写真を確認すると、やはり背景だけの写真が一つ飾られている。
「撃って! その鉄砲で弾をぽこぽことおじさんに当てちゃって!」
有璃はプラスチックの弾でも出ると思っているのか簡単にそんな事を言う。しかし、舞花の持っている銃は鉛の弾が入っており、人間に致命傷を与える物なのだ。
「…………っ!」
舞花は引き金に力を込める。前回は効果が無かったとは言え、今回もそうだとは限らない。再び弾がすり抜けたなら、すぐそばの扉から撤退すれば良い。重要なのは、敵の攻撃が届かない距離の今、発砲してこの武器の有効性を試す事だ。
……しかし、舞花は引き金が引けなかった。
標的の頭部の傍、あごの辺りには有璃の頭がある。その距離20センチ。舞花なら誤差1センチ以内で確実に眉間を撃ちぬけるはずだ。弾が逸れ、有璃に当たる可能性は舞花の腕なら限りなく零に近い。もちろん、零に近いだけで100%無いとは言い切れないのだが……。
硬直してしまった舞花の耳に、音楽室に近づいてくる複数の人間の足音が聞こえてきた。
舞花が入ってきた扉から初めに姿を現したのは田之上だった。
「どっ…どうし……なっ……なんだこれはっ!」
次に大原、そして片瀬と本宮。職員室にいた面々が舞花の後を追って辿りついた。
「も……モーツァルト?!」
「大原先生! あれはバッハです!」
細かい事を言い合う大原と田之上に、本宮の声が割って入る。
「どっちだって良いわよ二人とも! 不審者よ! 生徒が人質に!!」
不審者と聞いた大原は、後ずさりながら本宮の顔を見た。
「なに……見ているのよ?」
「だって主任強いから……。その三角定規なら大型ナイフ相手にしても勝てそうだし……」
そのまま大原は、本宮を前に出す様に彼女の後ろに隠れた。
「情けない男ねっ! なら下がってなさい! ここは私が……」
本宮は眼鏡のブリッジを一度しっかりと押さえると、50センチ程のプラスチック製クリア三角定規を両手で持って前に進む。
すると、左手で有璃を押さえているバッハが、その場で空いている右腕を横に軽く振った。腕は驚くほど伸び、五メートル以上離れていた本宮に迫った。
「い……いやんっ!」
腰が引けた本宮は後ろに転んで尻餅を付いた。その手から三角定規は消えている。
[バキャッ]
ゴムのように伸びたバッハの腕と共に壁に叩きつけられた三角定規は、白い壁の破片と共にバラバラになって床に落ちた。それを見た本宮は、いつものつり上がった眉をこれでもかってくらい下げながら廊下に逃げ出し、震えながら扉の影から顔を覗かせている。
舞花は、すがるように隣の校舎を見るが、誰の人影も無い。
(くっ……。今日は狙撃の助けは無いのかっ?! 用務員の菅原っ! どうしたんだ!)
どのような任務でも一人でこなせると信じていた舞花だったが、知らぬ間に助けを求めていた。
同じ組織の諜報員だと舞花が疑ったのは五人。この場にいる四人の教諭と用務員だ。現在までの様子から、教諭達の可能性は無いと確信した舞花は、やはり一番に疑っていた菅原こそがそれだと決定付けた。
(どうしてだっ! なぜ引き金が引けないんだっ! 指を1センチ動かすだけなのに……)
敵の能力はまさに怪物並み。しかも有璃が捕まり予断の許さない状況であるのに、舞花の人差し指は相変わらず微塵も動かない。味方の助けも無く、教諭達も頼りにならない。この上なく辛い状況で、舞花の目は生まれて初めて水気を帯びた。
そんな時…………舞花の持つ銃に、上から手が被さった。




