会計が得意な子爵令嬢ですが、身に覚えのない浮気を理由に婚約破棄されました。王国の財政を立て直していたら、第一王子殿下から求婚されました
「エレオノーラ。君との婚約を、破棄する」
三年間、婚約者として過ごしてきたオーギュスタン様から、信じられない言葉を告げられた。
「……どうしてですか?」
「君が第一王子殿下と、不適切な関係を持っているという噂がある」
私は耳を疑った。
そんな事実は、どこにもない。
私はただ、王宮で財政改革のお手伝いをしていただけなのに。
そして何より、分からなかった。
三年間、私のことを理解してくださっていた婚約者が、どうしてこんなことを言い出したのか。
すべての始まりは、数か月前。
王宮の帳簿に、一つの間違いを見つけたことだった。
◇
私には、少し変わった特技がある。
数字を見るのが好きなのだ。
収入と支出がぴたりと一致したときの気持ちよさ。複雑に入り組んだ帳簿を整理し、お金の流れが明らかになったときの達成感。それは、何物にも代えがたい喜びだった。
もっとも、貴族令嬢としては、あまり褒められた趣味ではないらしい。
「エレオノーラ。また帳簿を見ているのかい?」
婚約者のオーギュスタン様にも、よくそう言われていた。
「はい。数字を整理するのが好きなんです」
「君は本当に変わっているね」
そう言って、彼は笑っていた。
私は、その笑顔が好きだった。
だからこそ、彼の言葉を疑ったことなど、一度もなかった。
◇
私、エレオノーラ・ベルフォードは、十七歳の子爵令嬢だ。
そして、前世の記憶を持っている。
前世では日本の大学で会計学を専攻し、卒業後は企業の経理部門で働いていた。毎日のように帳簿や決算書と向き合う仕事だったけれど、私はそれが好きだった。
数字は嘘をつかない。
もちろん、人間が数字を使って嘘をつくことはある。けれど、丁寧に調べていけば、その嘘にも必ずどこかに歪みが生まれる。
私は、そういう数字の性質が好きだった。
そして今世でも、その性分は変わらなかったらしい。
「エレオノーラ。王宮への報告を頼めるか?」
ある日の朝、父からそう声をかけられた。
「王宮へ、ですか?」
「ああ。今年の領地収支報告書を提出しなければならないのだが、急な用事が入ってしまってね」
父は申し訳なさそうに微笑んだ。
「お前なら帳簿の内容も理解しているだろう。代わりに説明してきてくれないか?」
「はい。喜んで!」
私は思わず声を弾ませた。
父が少し苦笑する。
「本当にお前は数字が好きだな」
「ふふ。お父様のお役に立てるなら嬉しいです」
こうして私は、領地の収支報告書を携え、王宮へ向かうことになった。
◇
王宮の財務局は、想像以上に慌ただしかった。
廊下を行き交う文官たちは大量の書類を抱え、あちらこちらから忙しそうな声が聞こえてくる。
「こちらの数字が合いません!」
「昨年度の報告書はどこだ!」
「殿下への提出期限は今日だぞ!」
私は案内された部屋で、父から預かった報告書を提出した。ところが、担当の文官が急用で席を外してしまい、しばらく待つことになった。
部屋の奥には大きな机が置かれ、その上には何冊もの帳簿と報告書が積み上げられていた。
何気なく一番上の紙へ目を向けた私は、思わず首を傾げた。
……あれ?
数字が、おかしい。
収入の合計額と、各項目の金額が一致していない。
もう一度計算してみる。
やっぱり違う。
前年末の残高が期首残高として記載されているのに、同じ金額が今年度の新規収入にも加算されている。
これでは、実際よりも財政に余裕があるように見えてしまう。
「……あの」
つい、声が出てしまった。
「何か?」
振り向くと、いつの間にか一人の男性が立っていた。
整った顔立ちに、落ち着いた青い瞳。金色の髪を後ろへ流した、気品のある青年だった。
「あ、申し訳ありません。勝手に書類を見てしまって……」
「構わない。何か気になることでも?」
「その……こちらの報告書なのですが、数字が合っていないように思いまして」
男性の眉がわずかに動いた。
「数字が?」
「はい。前年末の残高が、今年度の収入にも加算されています。これでは二重計上になってしまいます」
私は該当箇所を指し示した。
男性は報告書を手に取り、しばらく数字を追った。
「……確かに。よく気づいたな」
「いえ、たまたま目に入っただけです」
「たまたま、か」
男性は少し考え込むような表情を浮かべた。
「では、こちらも見てもらえるだろうか」
そう言って、別の帳簿を差し出してきた。
私は少し戸惑ったものの、促されるままに受け取った。
……これは。
「この帳簿、項目の分類が統一されていませんね」
「分類?」
「はい。例えば、こちらの橋の修繕費は公共事業費に含まれていますが、別の領地では同じような支出が維持管理費になっています」
「……なるほど」
「これでは、領地ごとの支出を正確に比較できません。それから、こちらの税収ですが……」
私は次々と気になる箇所を指摘した。
気づけば、すっかり夢中になっていた。
……しまった。
顔を上げると、男性が驚いたように私を見つめていた。
「申し訳ありません。つい、余計なことまで……」
「いや、素晴らしい」
男性は首を横に振った。
「これまで何人もの文官が確認してきた帳簿だ。だが、君が指摘した問題には誰も気づかなかった」
その声には、心からの感心が込められていた。
「君の名前を聞いてもいいだろうか」
「エレオノーラ・ベルフォードと申します。ベルフォード子爵の娘です」
「エレオノーラか。私はベルトランだ」
……ベルトラン?
その名前を聞いた瞬間、私は固まった。
ベルトラン。
この国の第一王子殿下。
王国の財政を担当されている、あのベルトラン殿下?
「で、殿下!?」
私は慌てて頭を下げた。
「も、申し訳ございません! ご無礼を……!」
「顔を上げてくれ。君は何も悪いことをしていない」
殿下は穏やかに笑った。
「むしろ、礼を言いたいくらいだ」
「……礼、でございますか?」
「ああ。私は今、この国の財政を立て直そうとしている」
殿下の表情が真剣なものに変わった。
「だが、各領地の報告書は形式がばらばらで、正確な収支を把握することすら難しい。改善しようにも、何から手をつければよいのか分からない状態なのだ」
私は机の上に積み上げられた書類を見た。
これだけの資料がありながら、比較するための基準が統一されていない。それでは、いくら優秀な人が集まっても苦労するはずだ。
「エレオノーラ。君に、王宮の財務業務を手伝ってもらえないだろうか」
思いがけない申し出に、私は目を見開いた。
「私が、ですか?」
「ああ。もちろん、正式な手続きを踏み、君の父上にも許可をいただく」
殿下は真っ直ぐに私を見た。
「君の力を、ぜひ貸してほしい」
その言葉が、嬉しかった。
前世でも今世でも、数字を扱うことは私にとって楽しいことだった。けれど、それをここまで真剣に評価してもらえたことは、あまりなかった。
「私でよろしければ、喜んでお手伝いさせていただきます!」
◇
こうして私は、王宮の財務局で働くことになった。
父も最初は驚いていたけれど、第一王子殿下からの正式な依頼と聞いて、快く許可してくれた。
そして、婚約者のオーギュスタン様も。
「それは素晴らしいじゃないか、エレオノーラ!」
報告すると、彼は嬉しそうに笑ってくれた。
「第一王子殿下から直々に依頼されるなんて、君は本当に優秀なんだね」
「ありがとうございます」
「私も鼻が高いよ」
その言葉が嬉しくて、私は少し照れくさくなった。
オーギュスタン様は、ヴァルモン伯爵家の嫡男だ。王宮で文官として働いており、私たちは三年前に婚約し、来年には結婚する予定だった。
穏やかで礼儀正しく、いつも私に優しく接してくださる方。
私は彼との未来を楽しみにしていた。だからこそ、結婚までの間、少しでも殿下のお役に立てるよう、王宮での仕事を頑張ろうと思っていた。
◇
王宮での仕事は、想像していた以上に大変だった。
まず、各領地から提出される帳簿の形式が統一されていない。ある領地では税収と商業収入を分けて記録しているのに、別の領地では一つにまとめている。支出についても同じだった。
これでは、どの領地が効率よく運営されているのか分からない。
「殿下。まずは報告書の形式を統一することをおすすめします」
「形式を?」
「はい。収入と支出を共通の項目に分類すれば、領地ごとの比較が容易になります」
私は新しい報告書のひな型を作り、殿下に説明した。
「例えば、こちらをご覧ください」
同じ年度の二つの領地を並べてみせる。
「これまでは、どちらも財政に問題がないように見えていました。ですが、項目を整理すると……」
「……こちらの領地は、維持管理費が随分と高いな」
「はい。しかも、前年より三割も増えています」
「理由を調べる必要があるな」
「そうですね。ただし、必要な修繕費まで削減してしまうと、後で大きな支出につながる可能性があります」
殿下は感心したように頷いた。
「君は、ただ支出を減らせばよいとは考えていないのだな」
「はい。大切なのは、お金を正しく使うことだと思います」
私は少し考えてから続けた。
「橋の修繕費を惜しんで橋が崩れてしまえば、修理にはもっと大きなお金が必要になります。それに、領民の方々も困ってしまいますから」
殿下はしばらく黙っていた。
そして、ふっと微笑んだ。
「……君と仕事をしていると、数字の向こうに人々の暮らしが見えてくる」
「殿下……」
「私はこれまで、財政を改善することばかり考えていた。だが、本来の目的は国民の暮らしを守ることなのだな」
殿下は、単に財政の数字を改善したいわけではない。その先にいる領民たちの暮らしを、本気で守ろうとしているのだ。
そんな方のお役に立てることが、私は嬉しかった。
そして、もう一つ。
「殿下。予算と実際の支出を、毎月比較してはいかがでしょうか?」
「毎月?」
「はい。年度末になってから問題を発見するのでは、対応が遅れてしまう場合があります。毎月の支出を確認すれば、予算を超えそうな事業にも早く気づけます」
殿下は、少し考え込んだ。
「なるほど。問題が大きくなる前に、手を打てるということか」
「その通りです」
「よし。それも試してみよう」
殿下は嬉しそうに微笑んだ。
「君と話していると、次々と新しい考えが浮かんでくるな」
私は少し照れくさくなった。
前世では当たり前だった考え方が、この世界ではまだ十分に活用されていない。
だからこそ、私にもできることがあるのだと思った。
◇
それから二か月が経った。
私たちは少しずつ成果を上げ始めていた。
重複して計上されていた支出を修正し、不要になった契約を整理する。各領地の報告書も、新しい形式へと切り替わり始めた。
もちろん、すべてが順調だったわけではない。長年の慣習を変えることに反対する文官もいたし、報告書の作り直しを嫌がる領主もいた。
それでも、殿下は諦めなかった。
ある日の午後、財務局の会議室に一人の文官が駆け込んできた。
「殿下! 新しい帳簿を導入した結果、昨年度の支出に重大な重複が見つかりました!」
「どれほどだ?」
「王都の公共事業費だけで、年間予算の一割に相当します!」
会議室がざわめいた。
「一割だと……?」
殿下も驚いた表情を浮かべた。
「はい。複数の部署で同じ事業費を計上していたことが原因です。実際の支払い記録と照合したところ、帳簿上で二重に計上されていたことが判明しました」
文官は興奮した様子で続けた。
「エレオノーラ様の提案された新しい報告書がなければ、発見できなかったかもしれません!」
突然名前を出され、私は少し慌てた。
「いえ、私は帳簿を整理しただけです。これまで見えなかったものが、見えるようになったのだと思います」
殿下は私を見て、嬉しそうに微笑んだ。
「その『整理する』ということが、どれほど重要なのか、ようやく皆にも分かってもらえたようだな」
私は少し照れくさくなった。
それでも、嬉しかった。
自分の知識が、確かに王国の役に立っている。
その実感が、何よりの励みになった。
さらに、毎月の予算と支出を比較する仕組みも効果を上げ始めていた。
ある事業では、予算を大幅に超える支出が発生しそうになっていたが、早い段階で問題が見つかり、契約内容を見直すことができた。
その結果、必要な工事を中止することなく、余分な費用を抑えることができたのだ。
帳簿上の数字が正しくなるだけではない。
実際に、王国のお金の使い方が改善され始めていた。
◇
「エレオノーラ。君の提案した新しい報告書だが、財務局の正式な様式として採用することになった」
会議の後、殿下がそう告げてくださった。
「本当ですか!?」
「ああ。文官たちからも好評だ」
私は思わず両手を胸の前で握りしめた。
「嬉しいです……!」
殿下が優しく笑う。
「君のおかげだ」
「いいえ。殿下が皆様を説得してくださったからです」
「またそう言う」
「本当のことですから」
顔を見合わせ、二人で笑った。
最近、こうして殿下と笑い合うことが増えた気がする。
最初は緊張してばかりだったけれど、今では仕事の話なら自然に言葉が出てくる。
もちろん、殿下は第一王子であり、私には婚約者がいる。
それ以上のことなど、考えたこともなかった。
ただ、一緒に仕事をする時間が、とても楽しかった。
◇
「エレオノーラ。最近、随分と忙しそうだね」
ある日の午後、久しぶりにオーギュスタン様とお茶を飲んでいると、彼がそう言った。
「はい。ようやく新しい報告書の形式が整いまして」
「そうか」
「今度は、過去の報告書も整理する予定なんです」
その瞬間、オーギュスタン様の手が止まった。
「……過去の?」
「はい。現在の数字だけでは、財政の変化を正確に把握できませんから。まずは過去五年分を比較することになりました」
「……五年分」
彼は小さく繰り返した。
「それは、すべての領地を調べるのかい?」
「はい。もちろん、時間はかかると思いますけれど」
オーギュスタン様は黙り込んだ。
何か、ご心配なことでもあるのだろうか。
「エレオノーラ。そろそろ王宮の仕事を辞めてもいいのではないかな」
突然の言葉に、私は驚いた。
「どうしてですか?」
「君は来年、私と結婚するだろう? 伯爵夫人になれば、家の仕事も増える。いつまでも王宮で働くわけにはいかないよ」
「ですが、まだ結婚までは時間がありますし……」
「それに、君は十分に殿下のお役に立ったはずだ。これ以上、無理をする必要はないんじゃないかな」
私は少し迷った。
確かに、結婚後の生活について考えなければならない時期ではある。けれど、今の仕事を途中で投げ出すことには、どうしても抵抗があった。
「……もう少しだけ、続けさせていただけませんか?」
私は静かに答えた。
「今、ようやく成果が出始めたところなんです」
オーギュスタン様の表情が曇った。
「私との結婚より、仕事が大切なのかい?」
「そんなことはありません!」
慌てて首を振る。
「ただ、私にも責任がありますから……」
「……そうか」
彼は小さく息を吐いた。
「君の気持ちは分かったよ」
そう言って微笑んでくれたけれど、その笑顔はどこかぎこちなかった。
少しだけ不安になったものの、私は自分に言い聞かせた。
オーギュスタン様は、いつも私のことを理解してくださっていた。
今回も、きっと分かってくださるはずだ。
◇
一方、その頃。
第一王子ベルトランの婚約者であるマリアンヌ・ヴァルモンは、不機嫌だった。
「またお仕事ですの!?」
王宮の応接室に、甲高い声が響く。
「すまない、マリアンヌ。今日は財務局で重要な会議がある」
ベルトランは申し訳なさそうに答えた。
「今度のお茶会には必ず出席すると約束してくださったではありませんか!」
「予定が変わってしまったのだ。埋め合わせはする」
「いつもそうですわ!」
マリアンヌは頬を膨らませた。
彼女は幼い頃から、欲しいものは何でも手に入れてきた。美しいドレスも、宝石も、華やかな舞踏会も。そして、第一王子の婚約者という地位も。
自分が王妃になることを、当然の未来だと思っていた。
「……エレオノーラ様とは、毎日のようにお会いになっているのでしょう?」
ベルトランの眉がわずかに動いた。
「彼女は財務局の仕事を手伝ってくれている」
「私より、あの方の方が大切なのですか?」
「そういう話ではない」
「では、どうして私とはお会いになれないのです!」
ベルトランは困ったように息を吐いた。
「今は王国の財政を立て直すことが最優先なのだ。理解してほしい」
「……では、私はいつまで我慢すればよろしいのですか!」
マリアンヌは立ち上がった。
その背中に、ベルトランが声をかける。
「マリアンヌ。エレオノーラが作ってくれた報告書のおかげで、ようやく財政改善の道筋が見えてきたんだ。もう少しすれば、私も時間を作れるようになる」
ベルトランに悪気はなかった。
しかし、その言葉はマリアンヌの嫉妬をさらに強めた。
「……また、エレオノーラ様ですのね」
彼女は唇を噛んだ。
「私との時間を削ってまで、あの方とお仕事をなさるのが、そんなに楽しいのですか!」
「マリアンヌ、そういう意味では……」
「もう結構ですわ!」
今度こそ、マリアンヌは部屋を出ていった。
廊下を歩きながら、彼女は怒りに震えていた。
子爵家の娘のくせに。
私の方が、ずっと身分が高いのに。
どうして、あの子ばかり。
「……許せませんわ」
その胸の中で、嫉妬が膨らんでいった。
◇
数日後、私はオーギュスタン様から伯爵邸へ呼び出された。
何か大切なお話があるのだろうか。少し緊張しながら応接室へ向かう。
扉を開けると、そこにはオーギュスタン様だけでなく、妹のマリアンヌ様もいらっしゃった。
「お待たせいたしました」
私が挨拶すると、マリアンヌ様は冷たい目を向けてきた。
「よく平気な顔でいられますわね」
何のことだろう。
戸惑っていると、オーギュスタン様が口を開いた。
「エレオノーラ。君に確認したいことがある」
「はい」
「……ベルトラン殿下とは、どういう関係なんだ?」
私は首を傾げた。
「どういう、と申されましても……」
「仕事だけの関係なのか?」
「もちろんです」
そう答えた瞬間、マリアンヌ様が声を上げた。
「嘘ですわ!」
「……マリアンヌ様?」
「毎日のように二人きりでお会いになっているのでしょう!?」
「財務局では、ほかの文官の方々も一緒に働いております」
「ですが、殿下はあなたのことばかり褒めていらっしゃるではありませんか!」
私は困惑した。
それは、仕事の成果を評価してくださっているからではないだろうか。
「マリアンヌ様。何か誤解があるようですが……」
「誤解ですって!?」
マリアンヌ様は立ち上がった。
「あなたが殿下を誘惑していることくらい、分かっていますのよ!」
あまりに予想外の言葉に、私は何も言えなかった。
「お兄様! この方は、私の婚約者を奪おうとしているのですわ!」
「そんなことはしておりません!」
私は思わず声を上げた。
「私は、ただ王宮の財務のお仕事を……」
「もういい、エレオノーラ」
オーギュスタン様の低い声が、私の言葉を遮った。
彼は私を見つめていた。その表情は、いつもの穏やかなものではなかった。
「君には、何度も仕事を辞めるように言ったはずだ」
「それは……」
「それなのに、君は私の言葉を聞かなかった」
「ですが、殿下との間にやましいことなど、何も……」
「……もう、信じられない」
胸が、きゅっと締めつけられた。
……信じられない?
オーギュスタン様が、私を?
「エレオノーラ」
彼は一度目を伏せた。
そして、静かに告げた。
「君との婚約を、破棄する」
……え?
時間が止まったような気がした。
「……婚約を、破棄……?」
「ああ。君が第一王子殿下と、不適切な関係を持っているという噂がある。王族との不適切な関係を疑われるような行動を取る女性を、伯爵家に迎えることはできない」
私は、彼の顔を見つめた。
何かの間違いだと思いたかった。
だって、私たちは三年間も婚約していたのだ。
来年には結婚するはずだった。一緒に暮らす家のことも、将来のことも、何度も話し合ってきた。
オーギュスタン様は、私の数字好きなところも笑って受け入れてくださっていた。
それなのに。
「……私が王宮で働くことを、喜んでくださっていたではありませんか」
声が震えた。
「第一王子殿下から評価されたときも、素晴らしいことだと……」
「……事情が変わったんだ」
「何が、変わったのですか?」
オーギュスタン様は答えなかった。
私は、もう一度尋ねた。
「私は、何か間違ったことをしたのでしょうか……?」
「……」
「お仕事を頑張ることは、いけないことだったのですか?」
彼は目を逸らした。
その仕草が、何よりも悲しかった。
「……王族との不適切な関係を疑われた以上、君が王宮に勤め続けることも難しいだろう」
オーギュスタン様は、静かに続けた。
「しばらくは、実家で大人しくしていた方がいい」
私は、その言葉を聞いて、ようやく理解した。
彼は、私に王宮の仕事を辞めてほしいのだ。
婚約を破棄するだけでなく、私が大切にしてきた仕事まで失わせようとしている。
「……分かりました」
私は、震える手を握りしめた。
「オーギュスタン様のお気持ちは、よく分かりました」
深く頭を下げる。
「これまで、お世話になりました」
最後まで、涙だけは見せたくなかった。
私は静かに部屋を出た。
廊下を歩く。
一歩。
また一歩。
足が、ひどく重かった。
馬車に乗り込んだ瞬間、私はとうとう涙をこらえきれなくなった。
◇
婚約破棄から三日間、私は王宮の仕事を休んだ。
父は何も責めなかった。母は、ただ静かに私のそばにいてくれた。
「エレオノーラ。無理をしなくてもいいのよ」
母の優しい声に、また涙が出そうになった。
私は窓の外を見つめた。
庭には、春の花が咲き始めていた。
去年の今頃、オーギュスタン様と一緒にこの庭を歩いたことを思い出す。来年には結婚するのだから、もっと広い庭のある家に住もう。そんな話をした。
……全部、なくなってしまった。
私は、本当に彼のことが好きだったのだと思う。
だからこそ、こんなにも悲しい。
けれど、机の上には王宮から持ち帰っていた仕事の覚え書きが置かれていた。
まだ整理しきれていない報告書。確認しなければならない数字。殿下と約束した、過去五年分の財務分析。
……途中だった。
私は、そっと覚え書きを手に取った。
王宮で働くことが、楽しかった。自分の知識が誰かの役に立つことが、嬉しかった。
その気持ちまで、失いたくない。
「……お母様」
「なあに?」
「私、明日から王宮へ戻ろうと思います」
母は少し驚いたように私を見た。
「もう、大丈夫なの?」
「……まだ、悲しいです」
私は正直に答えた。
「でも、仕事を辞めたら、きっともっと後悔すると思うんです」
母はしばらく私を見つめていた。
そして、優しく微笑んだ。
「そう。あなたが決めたのなら、応援するわ」
◇
翌朝、久しぶりに財務局へ出勤すると、文官たちが温かく迎えてくれた。
「エレオノーラ様! お戻りになられたのですね!」
「お身体はもうよろしいのですか?」
「はい。ご心配をおかけしました」
私は笑顔で答えたものの、少しだけ緊張していた。
婚約破棄の噂は、すでに王宮にも広まっていた。
どうやらマリアンヌ様が、私と殿下の関係について周囲に話しているらしい。
殿下は、どう思っていらっしゃるのだろうか。
そんな不安を抱えながら執務室へ向かうと、ベルトラン殿下が顔を上げた。
「エレオノーラ」
「……殿下」
私は深く頭を下げた。
「長らくお休みをいただき、申し訳ございませんでした」
「謝る必要はない。体調はもう大丈夫なのか?」
「はい。ありがとうございます」
私は少し迷ってから、勇気を出して口を開いた。
「あの……殿下。私のことで、何か噂をお聞きになっているかもしれませんが……」
「ああ。聞いている」
胸が、どきりとした。
「ですが、私は決して……」
「分かっている」
殿下の声が、私の言葉を遮った。
「君がそのようなことをする人ではないと、私は知っている」
私は殿下を見つめた。
「それに、私たちは仕事をしていただけだ。何も恥じることはない」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に溜まっていたものが、少しだけほどけた気がした。
「……ありがとうございます」
殿下は、何も聞かなかった。
婚約破棄の理由も、オーギュスタン様とのことも。ただ、いつもと同じように私を見てくださった。
「エレオノーラ。君が戻ってきてくれて、嬉しい」
「……殿下」
「君がいない間、財務局は随分と静かだったからな」
少し冗談めかした言葉に、私は久しぶりに心から笑った。
「ふふ。では、今日からまた頑張らなければなりませんね」
「ああ。頼りにしている」
その笑顔を見て、私は思った。
ここに戻ってきて、よかった。
◇
その頃、ヴァルモン伯爵邸では、オーギュスタンが妹のマリアンヌから思いがけない話を聞いていた。
「お兄様! エレオノーラが王宮に戻ったそうですわ!」
「……何だと?」
オーギュスタンの顔色が変わった。
「まったく、恥知らずな女ですこと! あれほどの騒ぎになったというのに、まだ殿下のおそばにいるなんて!」
マリアンヌは不満そうに頬を膨らませた。
しかし、オーギュスタンの耳には、その言葉はほとんど入っていなかった。
「……過去の帳簿も、調べているのか?」
「そんなこと、私が知るわけありませんわ!」
オーギュスタンは黙り込んだ。
婚約を破棄すれば、エレオノーラは王宮から去ると思っていた。
身に覚えのない浮気の噂を流され、婚約者にも見捨てられた令嬢が、王宮に居場所を失うのは当然だと考えていたのだ。
だが、その目論見は外れた。
エレオノーラは戻ってきた。
しかも、第一王子ベルトランは、彼女を変わらず信頼しているらしい。
……まずい。
オーギュスタンの背筋に、冷たいものが走った。
父が長年隠してきた帳簿の不正。
もし、あれが見つかれば。
伯爵家は、ただでは済まない。
「……お兄様?」
マリアンヌが不思議そうに首を傾げた。
「どうかなさいましたの?」
「……いや、何でもない」
オーギュスタンは、無理に微笑んだ。
だが、その顔から血の気は失われていた。
◇
それから数日後。
仕事を終えようとしていた私に、殿下が声をかけてくださった。
「エレオノーラ。今日はもう帰った方がいい」
「ですが、こちらの報告書がまだ……」
「報告書は明日でも構わない」
殿下は穏やかに微笑んだ。
「君が倒れてしまう方が、私は心配だ」
私は少し驚いた。
殿下は、私の仕事を高く評価してくださっている。
けれど、今の言葉は仕事の能力とは関係がなかった。
ただ、私自身のことを心配してくださっている。
「……ありがとうございます」
私は小さく微笑んだ。
「では、お言葉に甘えて、今日は失礼いたします」
「ああ。ゆっくり休んでくれ」
執務室を出てからも、殿下の言葉が頭から離れなかった。
君が倒れてしまう方が、私は心配だ。
……どうしてだろう。
あの方にそう言っていただけたことが、こんなにも嬉しいなんて。
私は、少しだけ頬が熱くなるのを感じた。
◇
それから、さらに一か月が経った。
過去の領地収支報告の分析は、少しずつ進んでいた。
新しい形式に整理することで、これまで見えなかった問題が浮かび上がってくる。
そして、ある日の午後。
私は、一つの不自然な数字に気づいた。
「……あれ?」
ヴァルモン伯爵領の報告書。
オーギュスタン様の実家が治める領地だ。
過去五年間、農作物の収穫量が少しずつ減少していることになっている。
ところが、王都の商業組合から提出された輸送記録では、ヴァルモン伯爵領からの出荷量が増えている。
しかも、三年連続で。
私は二つの資料を並べた。
収穫量は減少。
出荷量は増加。
もちろん、備蓄品を出荷している可能性もある。けれど、備蓄の減少は報告されていない。
私はさらに資料を調べた。
すると、別の不自然な点も見つかった。
伯爵領の商業収入が、周辺領地と比較して極端に少ない。市場規模や人口を考えると、どうにも説明がつかない。
これまでは、領地の収支報告書と商業組合の輸送記録を別々の部署で管理していた。そのため、両者の数字を照合する機会がなかったのだ。
新しい報告書の形式を導入し、複数の資料を比較できるようになったことで、初めて見えてきた矛盾だった。
……まさか。
頭に浮かんだ考えを、慌てて打ち消す。
まだ何も分からない。数字が間違っているだけかもしれない。
けれど、もし意図的に収入を少なく申告しているのだとしたら。
「……エレオノーラ?」
顔を上げると、ベルトラン殿下が立っていた。
「どうした? 顔色が悪いぞ」
私は少し迷った。
これは、オーギュスタン様の実家に関わることだ。婚約を破棄された私が報告すれば、私怨による告発だと思われるかもしれない。
それでも。
私は、数字を見つめた。
……見なかったことには、できない。
「殿下。確認していただきたい資料がございます」
私は二つの報告書を差し出した。
「ヴァルモン伯爵領の収入について、不自然な点が見つかりました」
殿下は真剣な表情で資料を受け取った。
「……説明してくれ」
私は、数字の矛盾を一つずつ説明した。
収穫量と出荷量の不一致。商業収入の不自然な減少。周辺領地との比較。
殿下は最後まで黙って聞いていた。
「……なるほど。これは、正式に調べる必要があるな」
「はい。ただ……」
「ただ?」
私は少し俯いた。
「私は、以前ヴァルモン伯爵家の嫡男と婚約しておりました。ですから、私が調査を進めることは、公平ではないかもしれません」
殿下は静かに頷いた。
「その懸念はもっともだ。ここから先は、王宮の監査官に任せよう。君は通常の財務業務を続けてくれ」
「……はい」
「だが、エレオノーラ」
殿下は私を真っ直ぐに見た。
「君がこの問題を報告してくれたことに、感謝する」
私は小さく頭を下げた。
これで、よかったのだろうか。
胸の奥には、まだ複雑な気持ちが残っていた。
◇
調査が始まってから、二週間が経った。
その間、私は普段どおり仕事を続けていた。けれど、ヴァルモン伯爵家のことが頭から離れなかった。
オーギュスタン様は、何かご存じだったのだろうか。
あの日、私が過去の報告書を調べると伝えたとき、彼の表情が変わったことを思い出す。
そんなはずはない。
そう思いたかった。
しかし、ある日の夕方、殿下から執務室へ呼ばれた私は、真実を知ることになった。
「エレオノーラ。監査結果が出た」
殿下の表情は厳しかった。
「ヴァルモン伯爵家は、長年にわたり領地収入を過少申告していた」
私は、思わず息を呑んだ。
「農作物の販売収入だけではない。商業組合からの納付金についても、一部を帳簿から除外していた」
「……それでは、納税額も……」
「ああ。本来納めるべき税金を、長年にわたり逃れていたことになる」
私は目を伏せた。
「そして……」
殿下は少し言いにくそうに続けた。
「オーギュスタンも、不正を知っていたことが判明した」
私は、何も言えなかった。
「彼が不正を始めたわけではない。だが、家の帳簿を確認する立場にありながら、問題を把握し、隠していた」
頭の中に、あの日の会話が蘇る。
『そろそろ王宮の仕事を辞めてもいいのではないかな』
『私との結婚より、仕事が大切なのかい?』
……そういうこと、だったのですね。
私が過去の帳簿を調べることを、恐れていた。
だから、仕事を辞めるように言った。
そして、マリアンヌ様の言葉を利用して、婚約を破棄した。
私は、しばらく言葉を失っていた。
「エレオノーラ」
殿下の声が聞こえた。
「……はい」
「つらい思いをさせてしまったな」
私は首を横に振った。
「殿下のせいではございません。ただ……悲しいです」
私は正直に答えた。
「オーギュスタン様は、私に本当のことを話してくださらなかったんですね」
殿下は何も言わなかった。ただ、静かに私の言葉を待ってくださった。
「私が何かお役に立てたかどうかは分かりません。でも、相談してくだされば……」
そこで、言葉が途切れた。
不正を隠す手伝いなど、できるはずがない。きっと、彼もそれを分かっていたのだろう。
だから、私を遠ざけようとした。
それが、何より悲しかった。
◇
ヴァルモン伯爵家の不正は、王宮に大きな衝撃を与えた。
伯爵家には未納税額の追徴と重い罰金が科され、領地経営の一部も王家の監督下に置かれることになった。不正を主導していた伯爵は、領地運営から退くよう命じられた。
そしてオーギュスタン様も、不正を知りながら隠していた責任を問われ、王宮での役職を失った。
さらに、マリアンヌ様の問題も明らかになった。
彼女が私と殿下の関係について、根拠のない噂を広めていたこと。そして、その噂を利用して、オーギュスタン様が婚約を破棄したこと。
すべてが明るみに出た。
王家は、ヴァルモン伯爵家との婚姻関係を見直すことを決定した。
◇
「納得できませんわ!」
王宮の応接室に、マリアンヌの声が響いた。
「どうして私が婚約を解消されなければなりませんの!?」
ベルトランは静かに彼女を見つめていた。
「ヴァルモン伯爵家の不正は、王国に対する重大な背信行為だ」
「それはお父様のことでしょう! 私には関係ありませんわ!」
「君が不正に関与していないことは承知している。だが、王家と伯爵家の婚姻関係を維持することは難しい」
「そんな……!」
マリアンヌは唇を噛んだ。
「それに、君がエレオノーラについて、根拠のない噂を広めたことも看過できない」
「だって、あの方が……!」
「彼女は仕事をしていただけだ」
静かな声だった。しかし、そこには揺るぎない意思があった。
「君が不安を感じていたのなら、私にも責任はある。だが、それを理由に他人の名誉を傷つけてよいわけではない」
マリアンヌは言葉に詰まった。
「……私は、殿下の婚約者ですのよ?」
「ああ。だからこそ、互いを尊重し、信頼し合える関係でありたかった」
ベルトランは一度目を伏せた。
「だが、もうそれは難しい」
「……そんな」
マリアンヌの目に涙が浮かんだ。
「私は、王妃になるはずでしたのに……!」
ベルトランは何も答えなかった。
その沈黙が、二人の関係の終わりを告げていた。
◇
それから数日後。
私は、思いがけない訪問を受けた。
「……オーギュスタン様?」
ベルフォード子爵邸の応接室に、かつての婚約者が立っていた。
以前よりも、随分とやつれて見えた。華やかな衣装も、いつもの余裕ある笑顔もない。
「エレオノーラ……」
彼は私を見ると、深く頭を下げた。
「……すまなかった」
私は黙っていた。
「君に、ひどいことをした」
オーギュスタン様の声は、かすれていた。
「私は……家を守りたかったんだ」
彼はゆっくりと顔を上げた。
「父が長年続けてきたことだった。私が始めたわけではない。だが、不正だと分かっていた」
「……はい」
「それでも、今さら公表すれば家がどうなるかと思うと、怖かった」
私は静かに彼の言葉を聞いた。
「君が過去の帳簿を調べると聞いたとき、焦ったんだ。仕事を辞めてくれれば、何も起こらないと思った。そうすれば、君とも予定どおり結婚できると……」
彼は苦しそうに笑った。
「マリアンヌから殿下との噂を聞いたとき、これを利用すれば君を王宮から遠ざけられると思ってしまった」
私は、ようやくすべてを理解した。
彼は、私が浮気をしていると本気で信じていたわけではなかった。
自分の家を守るために、私を切り捨てたのだ。
「……本当に、すまなかった」
彼はもう一度頭を下げた。
「私は、君を失って初めて、自分がどれほど愚かなことをしたのか分かった」
しばらく沈黙が続いた。
やがて、彼は小さな声で言った。
「……もう一度、やり直すことはできないだろうか」
私は静かに首を横に振った。
「……申し訳ありません」
その言葉を口にした瞬間、胸が少し痛んだ。けれど、不思議と迷いはなかった。
「私は、あなたを信じていました」
オーギュスタン様の表情が歪んだ。
「三年間、一緒に過ごしてきました。来年には結婚するのだと、楽しみにしていました」
「……エレオノーラ」
「だから、あの日……本当に悲しかったんです。私の言葉を、一度も信じていただけなかったことが」
彼は、何も言えなかった。
「もし、あのとき本当のことを話してくださっていたら、一緒に正しい道を探すことはできたかもしれません」
もちろん、不正を見逃すことはできなかった。それでも、彼が自分から過ちを認めることはできたはずだ。
「ですが、あなたは私を遠ざけることを選ばれました」
私は静かに頭を下げた。
「……さようなら、オーギュスタン様」
彼は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
そして。
「……本当に、すまなかった」
最後にそう呟き、部屋を出ていった。
私は、閉じられた扉を見つめた。
数字の矛盾なら、調べれば理由が分かる。
けれど、人の心はそう簡単には分からない。
私は三年間、彼のことを信じていた。
その気持ちだけは、決して嘘ではなかった。
◇
それから三か月が過ぎた。
王都には、初夏の風が吹き始めていた。
王国の財政改革は、少しずつ成果を上げていた。
各領地の報告書が統一されたことで、収支の比較が容易になり、不自然な支出も見つけやすくなった。長年見直されていなかった契約の整理も進み、無駄な支出が減り始めている。
もちろん、王国の財政がすぐに豊かになるわけではない。
それでも、確かに前へ進んでいた。
「エレオノーラ」
ある日の夕方、仕事を終えた私にベルトラン殿下が声をかけてくださった。
「少し、時間をもらえるだろうか」
「はい。もちろんです」
案内されたのは、王宮の庭園だった。
夕暮れの柔らかな光が、花々を照らしている。殿下と二人で庭を歩くのは、初めてだった。
「……綺麗ですね」
「ああ。私も久しぶりにゆっくり眺めた気がする」
殿下は小さく笑った。
「最近は、書類ばかり見ていたからな」
「ふふ。私もです」
しばらく、穏やかな沈黙が続いた。
そして、殿下が足を止めた。
「エレオノーラ。君に、伝えたいことがある」
その声は、いつもより少し真剣だった。
「まず、礼を言わせてほしい。君のおかげで、王国の財政改革は大きく前進した」
「いいえ。私だけの力ではありません」
「分かっている。だが、君がいなければ、ここまで進めることはできなかった」
殿下は、私を真っ直ぐに見つめた。
「それに、君から教えられたことは、数字の扱い方だけではない」
「……え?」
「どれほど困難な状況でも、誠実に向き合うことの大切さだ」
私は、静かに殿下の言葉を聞いていた。
「君は婚約を破棄され、深く傷ついた。それでも、自分の仕事を投げ出さなかった。私は、そんな君を心から尊敬している」
「……殿下」
殿下は少しだけ息を吸った。
「そして……私は、君を愛している」
思いがけない言葉に、私は息を呑んだ。
第一王子殿下が、私を?
「最初は君の能力に驚いただけだった。だが、一緒に仕事をするうちに、君と過ごす時間が何よりも楽しみになっていた」
殿下は、少し懐かしそうに微笑んだ。
「君が新しい報告書の形式を完成させたとき、誰よりも嬉しそうに笑っていたこと。支出の削減を考えるときも、必ず領民の暮らしを気にかけていたこと」
私は、何も言えなかった。
「そして、つらい思いをしても、自分の信じる道を歩もうとしていたこと」
殿下が、一歩近づいた。
「私は、そんな君の隣にいたいと思うようになった」
胸の奥から、温かい気持ちが溢れてくる。
「エレオノーラ。私と、結婚してくれないだろうか」
私は、しばらく言葉を失っていた。
嬉しい。
けれど、信じられない。
「……殿下。私は、ただの子爵令嬢です」
「ああ」
「王妃になるための教育も、十分には受けておりません」
「それは、これから学べばいい」
「それに、私は……」
言いかけて、言葉が止まった。
私は一度、婚約を破棄されている。しかも、浮気という身に覚えのない噂まで流された。
そんな私が、第一王子殿下の隣に立ってもよいのだろうか。
不安が、胸をよぎった。
すると、殿下が優しく言った。
「エレオノーラ。私は、君に完璧な王妃になってほしいわけではない」
「……え?」
「もちろん、王族としての責任はある。簡単な道ではないだろう。だが、私は君となら、どんな困難にも向き合えると思っている」
殿下は、少し照れくさそうに笑った。
「……それに、仕事の話ばかりしてしまったな」
「……ふふ」
「本当は、もっと単純な理由なんだ」
殿下は私の目を見つめた。
「君と一緒にいると、楽しい」
その言葉に、胸がきゅっとなった。
「君が笑っていると、私も嬉しい。君が悲しんでいると、何とか力になりたいと思う」
私は、目を伏せた。
……ああ。
そうだったんだ。
私も、同じだった。
殿下と仕事をする時間が、楽しかった。数字について語り合えることが、嬉しかった。私の考えを真剣に聞いてくださることが、何よりも幸せだった。
そして、婚約を破棄されて悲しんでいたとき。
殿下は、私を疑わなかった。
ただ、変わらず信じてくださった。
私は、いつからこの方の笑顔を見ることが、こんなにも嬉しくなっていたのだろう。
顔を上げると、殿下は静かに私の返事を待ってくださっていた。
「……殿下」
「ああ」
「私も、殿下と一緒にいる時間が大好きです」
殿下の表情が、少しだけ変わった。
「仕事のお話をしているときも、何気ないことで笑い合うときも、とても幸せでした」
私は、そっと微笑んだ。
「ですから、私でよろしければ、喜んでお受けいたします」
殿下は、一瞬だけ驚いたような顔をした。
そして、心から嬉しそうに笑った。
「……ありがとう、エレオノーラ」
その笑顔を見た瞬間、私も幸せな気持ちでいっぱいになった。
◇
それからしばらくして、王宮では第一王子ベルトラン殿下とベルフォード子爵令嬢エレオノーラの婚約が正式に発表された。
もちろん、驚く人も多かった。子爵令嬢が未来の王妃になるのだから、当然だろう。
けれど、財務局の文官たちは、まるで自分のことのように喜んでくれた。
「エレオノーラ様! おめでとうございます!」
「殿下とエレオノーラ様なら、きっと素晴らしい王国を築かれます!」
私は少し照れくさくなりながら、お礼を伝えた。
そして、今日も。
私たちは財務局の執務室で、向かい合っていた。
「エレオノーラ。こちらの報告書を見てもらえるか?」
「はい。どちらでしょう?」
「新しい公共事業の予算案だ」
私は書類を受け取り、数字を確認する。
……あれ?
「殿下。こちら、計算が合っていません」
殿下は一瞬、目を丸くした。
そして、声を上げて笑った。
「ははは! また君に見つけられてしまったな!」
「ふふ。最初にお会いしたときと同じですね」
「ああ。本当に」
殿下は懐かしそうに微笑んだ。
「あの日、君が数字の間違いを指摘してくれなければ、私たちはこうして出会うこともなかった」
「……そうですね」
私は、そっと微笑んだ。
「エレオノーラ。これからも、よろしく頼む」
「はい。こちらこそ、末永くよろしくお願いいたします」
差し出された手を取ると、殿下が嬉しそうに微笑んだ。
王国の財政には、まだまだ課題が山積みだ。
けれど、この方と一緒なら、きっと乗り越えていける。
私はそう信じて、殿下の手を握り返した。
――完――
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ほかにも、異世界恋愛やファンタジーを中心に、短編・長編ともに執筆しています。
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