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【短編056】 根:島で生まれ、島にいる。ただ、それだけの話。

掲載日:2026/10/26

生まれてからずっと、島にいる男の話です。

短い物語ですが、よろしければ。

 朝、起きると海が見える。


 昨日も見えた。一昨日も。生まれてからずっと、窓を開けると海がある。

 風が来て、塩の匂いがした。

 それだけのことだった。


---


 隆二は三十四歳で、父の漁を手伝っている。


 特に決めたわけではなかった。高校を出て、島を出ようとも思わなかった。ただ、そこにいた。


 父も祖父も漁師だった。それが理由というよりも、それ以外の理由がなかった。

 「跡を継ぐ」という言い方を、父はしなかった。隆二もしなかった。ある朝、船に乗った。次の朝も乗った。そのうち、自分の道具ができた。


---


 浜にハルがいる。


 いつからいるのか知らない。集落の誰に聞いても、昔からいるという。

 茶色と白の、耳の先が少し欠けた猫だ。右か左か、毎回どちらか忘れる。

 船を出す前、隆二はよくハルのそばで煙草を吸う。ハルは特に近づいてこない。逃げもしない。

 砂の上で丸くなって、目を細めている。


 話しかけたことはない。


---


 県外から来た人間は、海を見て必ず何か言う。


 きれい、という。

 こんな海、見たことない、という。

 住んでみたい、という。


 隆二はそのたびに、「そうですね」と返す。

 否定する気はない。

 ただ、きれいという感覚が自分の中にあるのかどうか、よくわからない。


 きれいとは、比べるものがあって、初めて出る言葉だと思う。

 隆二には、比べる海がない。

 これが海だ。

 それだけだ。


---


 四年前、移住してきた女が一人いた。


 三十代。陶芸をやっていた。

 波の上工芸店に少し顔を出して、集落のゆんたくに一度来た。

 隆二も同じ席にいた。

 よく笑う人だった、と思う。それだけ覚えている。

 それからあまり見かけなくなった。

 一年後に帰ったらしい。


 浜の公民館の前に、素焼きの皿が一枚置いてある。

 誰が片付けるでもなく、そのままになっている。

 雨が降っても、そこにある。


 隆二はそれをどこかから聞いた。特に何も思わなかった。

 それがこの島のやり方なのかもしれなかった。


---


 夕方、船を戻す。


 エンジンを切ると、波の音しかない。

 海が夕焼けで赤い。

 毎日この色を見ている。

 子どもの頃からずっと。


 きれいか、と聞かれれば、そうだと答えると思う。

 でも誰にも聞かれない。

 聞かれる前に、縄を結んで、魚を降ろして、次の日の準備をする。


 父がそうしていた。

 隆二もそうする。

 それでいいのか、と、ふと思った。


---


 ハルが浜に来ていた。


 隆二が船を降りると、ハルがそばを少し歩いた。

 隆二も少し歩いた。

 ハルが立ち止まって、海を見た。

 隆二も立ち止まって、海を見た。


 波が来るたびに、砂が濡れて、引いた。

 ハルはその縁に、ぎりぎりまで近づいた。濡れなかった。


 何を見ているのか、猫に海が見えているのかも、わからない。


 ただ、二人して同じ方を向いて、しばらく立っていた。


 それから、ハルはどこかへ行った。

 隆二は家に帰った。


---


 夜、祖母がテレビを見ながら言った。


「ゴーヤ、今年は遅いねえ」


 祖母はリモコンを手探りして、音量を少し上げた。

 部屋に線香の匂いが残っていた。いつもそうだった。


 画面の中に、どこかの都市の夜景が映っていた。


 きれいだと思った。

 でも行きたいとは思わなかった。


 それが不思議かどうかも、よくわからなかった。

 ここ以外の場所で眠ったことが、一度もなかった。


---


 次の朝、起きると海が見えた。


 カーテンを揺らして、塩の匂いがした。

 いつもの匂いだった。


 ハルが、浜にいた。

 縁側から見えた。

 耳の先が、朝の光で少し透けていた。


 隆二は顔を洗って、船に向かった。

お読みいただき、ありがとうございました。

海も、猫も、いつもそこにあるものとして書きました。

ご感想などいただけたら嬉しいです。

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