線香
特にはありません。
線香を買った。
意味なんてない、仏壇も無ければ家族の墓もない。ただ業務用スーパーで食品を買いだめしに行って、レジの前に置いてあるその線香が目に入ったから。
私の部屋は綺麗に片付けてあるが、全くもって変な部屋だと言えるだろう、扇風機の隣には石油ストーブ、狭い部屋には不釣り合いな大きく美しい螺鈿のテーブル、一人になる前は石油ストーブで家族と餅を焼いた。壊れてしまったそれにもう火が灯ることはないが、いまだに部屋の真ん中に置いてある。そこに灰皿の上に陶器の小さな花受けを置いて線香をさした。
酷く懐かしい匂いが鼻をさした。
幼い頃、仏壇の前で父が刀の手入れをしていた。
私は父にかまってほしかったんだ。それで、
「お父さん!」と抱きついた。父は怒った。私が抱きついた勢いで掌を大きく切ってしまったから。父は短気な人で私に刀を突きつけて怒鳴る。今考えてみれば人からはホラだと思われてしまいそうな話だが、私にはそれが強く記憶に焼き付いている。父は悪い人ではない、ただ酒に飲まれやすく短気で、寂しがり屋で、でもお喋り好きの人だった。父は戦争の話が好きだった。幼い私に何度も戦争の映画を見せて、私はそれを見て泣いた。幼い頃に見た戦争映画の光景を理解しようとはしたのだ。しかし当然ながら私の目にはそれは”悪”でしかなかった。戦争に対して私が嫌悪をの言葉を父に漏らすと、父は「皆日本のために死んだんだ。すごい人たちなんだ。」と私に映画を強要した。何度かの反発のあと、私は父にいった。
「人を殺すための道具をつくってるって変だよ。」
戦争の意味を見いだせない、その光景は無残な惨状、残るのは主人公のトラウマと救われない事実、全てを理解していなかったが、最初の一つで十分だった。父は釣りが好きだった。初めて父との釣りの時、私は楽しみで仕方がなかった。
「まだ?」「まだ行かないの?」
と急かす私の声を聞いたおじいちゃんが先に行くか?と私に言った。私は、おじいちゃんと釣りに行った。父は遅れてくると思っていた。しかし父は来なかった。裏切られたように感じたのかもしれない。
そんな父とは反対で母はいつも優しい人だった。いつだって私の味方だった。だと言うのに、そんな母よりも嫌な父親のほうの記憶が鮮明だ。
自分に対して嫌悪感を感じる。釣りの件しかり、私はよい人間ではないのだろう。想像力が足りないのだろう。そんな事を考えながら線香を見つめていると、全ては灰へ還った。
特別なんてものはない、意味なんてものは無い、私は線香にまた火をつけた。その匂いは祖父との思い出を思い起こさせた。私は小さな島で育った。高台には台座しかないが、銅像があった。戦争の際に金属が必要で取り壊されたのだとか、今では整備すらされておらず、道中のサボテン丘は道路まで侵食しかけていた。祖父は私に言う
「多くのことに意味なんてないよ。すべてのことは地続きで終わってみなきゃわからない。」
昔は理解できなかったが、今ならば何となくわかる。それはきっと本質だ。おじいちゃんを見上げて、手を握る。釣りの帰りは寂しかった。お父さんが来てくれると思っていたから。
我に返る。
ピンポーンとインターホンの音がした。玄関を開けると、妹がいた。チグハグな私の部屋に妹を入れてお茶を入れた。すると、お茶も飲まず単刀直入に「介護を手伝ってよ」と言った。
父が難病を患ったのだ。そうは言うが、私にどうしろというのだろうか、父へ善意を向ければ悪意が返ってくる、悪意には悪意を返す。しかし今の私は違う、悪意にも善意を、そして笑顔を貼り付けた。それでも、私は父を手伝った。すると、父は私のことをこう言う、「あいつは俺を殺す気だ」
意味なんてない、それはきっと私に助けられるのが嫌だからだろう、だけれど、私にはそれが耐えられなかった。
私は父が嫌いだ。難病を患った父は今では一人ではほとんど何もできない、酒に逃げ、動けなくなり、そして漏らす。その片付けは私と母がしていた。いまは妹と母がしている。私は、逃げたのだ。死んだ祖父と祖母の家に私は一人で住んでいる。酷く広いその家に、1つだけある小さな客間を、思い出で満たして。嫌いな父親と……私はよく似ている。すぐに逃げてしまう所や弱いところが多いところ、顔立ちに、難病まで、本当に、私は私が嫌いだ。こみ上げてくるその嫌悪感を飲み込もうとする。
私は何も言えず静寂だけが流れる。妹は私を見つめて「元気にしてるの?」
と聞いた。ただ一言
「大丈夫だよ。」
とだけ言った。あれだけ仲の良かった妹との距離感も、今となってはすっかり忘れてしまった。罪悪感もあるのだろう、私はどうすればよかったのだろうか、考えても答えなどでない、そしてやっぱり、私は逃げた。妹には手持ちの金をすべて渡して帰らせた。あの部屋に戻って、いつの間にか消えてしまっていた線香に火をつけた。
この先はどうなるのだろうか、全ては地続きだ。私の先に父がいる。終わった先の意味を私が見たとき、私はそれを受け入れることができるだろうか、考えたが、やっぱりその思考は強い海風に当たって回り続ける風車のように止まることはない、そして、線香の火が消えた。祖父が死んだら売るようにと言われていた螺鈿のテーブルを手でなぞる。線香を置いていた石油ストーブと前に座ってみる。家族で戯言を叫んだ扇風機をつける。どれもこれも、意味なんてない。
立ち上がって深呼吸をする。吐く息は妙に震えている。私はあの場所に行かなければならない気がして、海風を浴び続けたからか、錆が回り始めている自転車に乗った。何故か線香とライターを握りしめてギーギーと音を立てて自転車は進む、意味なんて無い、サボテン丘に行くのだ。あの銅像の無い台座へ行くのだ。高台へ登る道中、道が土砂崩れで崩落していた。私は辺りを見渡して、急斜面の木が目についた。強く握ってシワシワになった線香の箱とライターをポケットに入れ、木をつかんで道と呼べないほどの斜面を登った。祖父と並んで見た台座はなくなっていた。石碑は壊れていた。だが、そこから見える海の景色は変わらない、海が燃えている。ゆらゆらと燃えて見えたその光景を焼き付け、祖父の姿を思い出す。あの人は今の私をどう思うだろうか、この通過点はいつ終わるのだろうか、私は家に帰ろうとした。しかし、私は足を滑らせた。全身が強張り、時間が引き延ばされたようにゆっくりと落ちていく、なんて愉快なんだろう、落ちていく光景のなかに石柱ごと滑り落ちたあの台座があった。それに手を伸ばして……
――バギッと嫌な音共に激しい衝撃が走った。
目を開けると、遥か上に私が立っていた高台があった。がどういうわけか痛みはなかった。立ち上がろうと体を起こそうとするが、私の身体は言う事を聞かない、下半身が動かない、これは良くない、しかし、同時に愉快だった、少なくとも私は父とは違った。私はポケットのなかの線香を取り出して束を外さず全てに火をつけた。つよい匂いが鼻をさした。おじいちゃんを思い出させる匂いだ。私は目を瞑った。今はただ、優しい思い出に浸っていたいと思ったからだ。だが、強すぎるその匂いはむしろ私の思考を現実に貼り付けた。目を開けて、空を見つめる。思わず言葉が漏れた。
「意味はあったのだろうか」
強烈な線香の煙が海風に乗って流れていく、心地良い風が顔を撫でる。海はゆらゆらと燃え上がり、夕日は煙の輪郭を鮮明にした。全ては地続きだ、果てに見えたそれは……。
――少なくともひどく美しいものだった。
特にはありません。




