第七章
「絵美、元気が無いね」
「うん……ちょっと仕事が最近キツくて……正直辞めたいって思ってるんだ」
「辞めたら良いよ。僕と一緒に生活すれば良い」
「え?」
「僕は絵美と結婚したいって思っているんだ。メールのやり取りばかりだったけれど、初めて日本に来た時とても優しくしてくれて、その時から君を好きになっていた。だから、君の事は僕が守るよ」
「ダンテ……」
私はダンテの言葉が嬉し過ぎて涙が溢れた。
「ありがとう……」
「泣かないで絵美。仕事を辞めたら京都に来れば良いさ」
「うん」
こうして私は仕事を辞める決意をした。仕事が辛いのは事実で、最近気分の落ち込みが酷く、仕事が手に付かないのだ。
大量の仕事をこなすのに、相当時間がかかっていた。残業は毎日で、前のように淡々と仕事をこなす事が出来なくなっていた。
「ダンテと一緒に……か」
仕事を辞めてダンテのお世話になる、しかも結婚を前提として。
嬉しい反面、本当にそうしてしまって良いのか迷う話だった。
「絵美、指輪を買いに行こう」
「え?指輪?」
「うん、婚約指輪」
「は、早くない?」
「絵美は僕と結婚したくない?」
「勿論したいけどっ仕事辞めちゃったら負担になるだけだし」
「大丈夫。負担なんて思わないよ。それより絵美が元気になる方が大事だよ」
「私、男の人に指輪貰った事なんて無い」
「それなら僕が初めてだね。来週京都で買いに行こう」
そう言ってダンテは私の家に置いてあるカレンダーに平仮名で『ゆびわのひ』と、書いた。
私は心の中が温かくなっていくのを感じた。
「嬉しい」
また涙が溢れた。涙脆くなったのも気分が落ち込んでいるせいかも知れない。
「絵美、おいで」
腕を引かれてダンテの胸にすっぽり収まった。涙が次から次へと流れた。
「ごめ……涙止まらない」
「良いよ、好きなだけ泣くと良いよ」
トントンと背中を優しく叩かれた。これは恋人というより親子のようだ。
私は週明け会社でなっちゃんに相談した。
「じゃぁダンテさんと結婚して専業主婦になるって事?」
「まだそういう実感は無いけどそう言う事になると思う。でも働く事は辞めたくないからパートか何かで働いて……」
「うんうん、えっちゃんよくこの会社でもったよ。私もそろそろ潮時かなーって思ってたんだ。一緒に辞めちゃうか!」
「え?良いのそんな事して」
「実は良い所もう見付けているの。そこに転職するつもり」
「私今日係長に話す」
「うん。私は来週話すよ。まぁすぐには辞めさせてくれないだろうけど」
「なっちゃんはそれで良いの?」
「うん、転職先には五月からって言ってあるからね」
「分かった」
「溜まってる有休使えば一ヵ月は休めるんじゃない?」
「うん、使わせてくれるかどうかは分からないけれど」
「権利だから主張しないと!」
「うん」
私は自席に戻ると、係長が戻ってくるのを待った。緊張してドキドキしたけれど、私は仕事を辞めてダンテと暮らすんだ。ダンテの良い奥さんにならなくては。そう思った。
「係長」
「なんだね」
「少しお話よろしいですか」
「ここで話せない事かね」
「いえ……あの、私、社を辞めたいと思います」
「……困ったね」
「済みません」
困ったと言いつつそこまで困っていないような顔をした係長。
東京に来て二年。一生懸命働いてきた。ダンテと出会ったのも二年前という事になるけれど、私は自分の職務をこなすことだけを考えてきた。でも……。
「メンタル面が不調でして……」
「分かった。残りの有休は使うだろう?」
「え?はい、使わせて頂けるのであれば」
「明日からもう来なくて良い」
「あ、明日からですか?」
「やる気の無い人間に来て貰っても困るからね」
「……はい」
「荷物を整理したら帰りなさい」
「はい、お世話になりました」
深く一礼をすると、係長は軽く頷いた。私は自席にある私物をまとめることにした。
「なっちゃん……今までありがとう」
「これからもやり取りすれば良いよ!いつでも飲みに行こう」
にっこり笑ったなっちゃん。この笑顔にどれだけ救われたか数えきれない。
「ありがとう」
私はこうして十二年間務めた会社を辞めた。ダンテにすぐ連絡をした。
『話した通り、仕事を辞めました』
『良かった、マンションはどうする?』
『私横浜に引っ越そうと思う』
『横浜?』
『ダンテ……学校が終わったら、一緒に横浜で過ごさない?』
『良いね!僕は横浜も好きだよ』
『学校が終わるまで京都に住むよ』
『うん、すぐにでもおいで。待っているよ』
ダンテの優しい言葉に憑き物が取れたような感覚になった。
京都に行く前に行かなければならない所がある。そう、桃の缶詰だ。
私は翌日スーツケースを持ったまま桃の缶詰を訪れた。
「お久しぶりです」
「いらっしゃいませ」
いつも通りカーテンを開けるとMiraiさんは笑っていた。
「引っ越すんですね」
「はい」
「今回は何を占いましょうか?」
「今後……どうすれば良いかっていうか……仕事を辞めたのでどう生きていくかみたいな事を」
「占術は?」
「西洋占星術でお願いします」
「はい」
生年月日を告げるとMiraiさんは手際よくホロスコープを出した。
「貴女は山羊座、ご主人となる彼は天秤座。とても良い相性です。結婚する宿命にあったと言っても良いです。結婚は来年が良いですね。十月。仕事は暫く休んでも良いでしょう。貴女の気持ちが落ち着いた時本を書くと良いですよ」
「え、私本出すんですか?」
「はい、貴女の人生をモチーフに本を書きなさい。すぐではありません。この時、という時が必ずきます。それまでは専業主婦で良いです」
「このまま結婚しても良いんでしょうか?」
「はい、大丈夫。それがあなたの運命です」
「良かった……」
「横浜に引っ越す事をおじいさんは喜んでおられますよ」
「本当ですか?」
「貴女は横浜で終の棲家を見付けるでしょう」
終の棲家。それは私が欲しくて喉から手が出るほど欲しかった物。安住の地で夫と二人仲睦まじく生活する、そんな日が本当にやってこようとしているのだろうか?
「ダンテ!」
京都駅に着くとダンテがそわそわしながら待っていた。私の顔を見ると、満面の笑みで迎えてくれた。
「絵美!」
ハグをされて、少し恥ずかしかったけれどダンテの温もりが嬉しかった。
「さぁ、お腹空いただろう?荷物を置いたら食事にしよう!」
「私あまりお腹空いてないから……」
「大丈夫、絵美が来る事を分かっていたから僕特製のバナナパンを焼いてあるよ。軽く食べられるから食欲が無くても食べられるさ」
「ダンテ、料理出来るんだね」
「料理は好きだよ」
「ありがとう、楽しみ」
平野神社を通ってダンテのマンションに向かうと甘い良い香りがした。
「良い香り」
「バナナパンは焼き立てだよ」
「へぇ、これがダンテのバナナパン」
バナナを潰してレーズンとクルミを入れてパンにしたそれはとても美味しそうだった。
空腹感なんて無かった筈なのに私はとてもそのパンを食べたくなった。
「まずは薄切りしてみるから食べてみて。口に合うようならおかわりすれば良いよ」
「うん、ありがとう!」
一口口に入れると甘く、クルミのほろ苦さも相俟って美味しさが広がった。
「美味しい!」
「喜んでくれて嬉しいよ」
ダンテはたっぷりバターを付けながらバナナパンを食べていた。
「学校はどう?」
「順調……とは言えないかな。日本語、とても難しいです」
「段々慣れるよ。私もいつまでも翻訳アプリ使ってないで英語でダンテと話したい」
「大丈夫、心は通じているから必要な時だけ翻訳アプリを使えば良いさ」
「そうだね。何となく言っている事は分かるようになったし」
実際、私の英語のヒアリング力は上がっていた。洋画を見て勉強したり、ダンテと電話をして学んだ結果だ。と、言っても自分から話すにはまだカタコトの英語しか使えなかった。
机を見ると沢山の日本語教材があった。
「頑張ってるんだね。私も頑張らないと」
「ゆっくりでいいんだよ」
「あのね……ダンテ、聞きたい事があったの。学校が終わったら横浜で一緒に暮らしてくれるって言っていたけれど貴方は母国に帰らなくても良いの?母国で暮らしたいと思わないの?」
「ん?思わないよ?」
あっけらかんと言われて私は驚いた。最初からダンテは日本に永住するつもりだったのだ。
「だ、だって寂しくないの?友達や家族に会えなくなっても」
「ずっと会えない訳じゃない」
「そりゃそうだけど」
「それより絵美と一緒に居たい」
「ダンテ……」
「さぁ、絵美忘れていないかい?明日は指輪の日だよ」
「あ!」
「そんなに高いものは買ってあげられないけれど」
「気持ちが嬉しいよ」
「気持ちは大粒のダイヤ付きさ!ははは」
「ふふ……」
翌日、約束通り私達はジュエリーショップへ向かった。
「好きな物、試してごらん」
「うん……」
好きな物、と、言われてもなかなか遠慮心が働いて手が付かなかった。すると、『雑誌掲載』というポップが貼られたリングがあった。二人のペアリングになっていて丁度一万円。
これなら、と、思い手にするとダンテもサイズを確認し始めた。
「これ良いね」
「うん、可愛い」
「これにする?もう少し見ても良いんだよ」
「ううん、私、これが良い」
周りにあるジュエリーの中でもダントツ安いリングだったけれど、私は値段ではなく休みの日にわざわざ足を運んで指輪を買ってくれた事が嬉しかった。どんなリングでも良かった。
ダンテはラッピングされたリングを受け取るとカバンに詰めた。
「帰ってから嵌めよう」
「うん!ダンテ、ありがとう。すごく嬉しい」
「どういたしまして」
ランチをして、ケーキを買って帰った。この時私はダンテが単純に甘いものが食べたいのだろうと思ったが、ダンテは家に帰るとケーキに蝋燭を立て、ワインを注いだ。
「婚約、おめでとう」
「凄い!こんな準備までしてくれてるなんて」
「特別な日だからね」
「じゃぁ……改めまして、宜しくお願いします」
「よろしく、絵美」
二人で蝋燭を消すと、誰が見ているでも無い空間で指輪の交換をした。
「私、幸せだよ」
「僕もだよ」
こうして私の京都生活が始まった。足立区のマンションはそのままにしてあったが、京都で過ごした。ダンテが学校の日は近くのスーパーに行って食材を買い、料理をして待つ。
時間が余った時は平野神社にお参りに行ったり、観光名所を探したりした。ダンテと一緒に行く為に。
「ニシホンガンジ?」
「うん、割と近くだから行きたいなって思って。新選組知ってる?」
「知っています!ダンダラ模様!」
「そうそう、あはは流石時代劇好きだね」
「白黒映画で見たことが有るよ」
「その新選組が屯所にしていたのが西本願寺なの。私新選組好きだから行ってみたくて」
「僕も行きたい!」
「じゃあ今度の土日のどっちかで行こう!」
「もうすぐ夏休みだからね、沢山京都を見て回ろう!」
「うん!」
ダンテと旅行が出来る、それだけで私は心から嬉しかった。私は近頃ダンテの休みの日を楽しみにしている。ダンテは休みの日にはずっと一緒に居てくれて、私に英語を教えたり日本語の宿題を私が手伝ったり、一緒に買い物をしたりと本当に夫婦の様な関係性を築けていた。
しかし、私には秘密がある。Miraiさんの所へ通っている事実だ。未来が分かっている事、ダンテが運命の相手だと言われた事はダンテに黙っていた。
まさか占いが必ず当たる物で、私は言われるがまま行動していてたなんて知ったらきっと驚かせてしまうだろうし、信じて貰えるかどうかも分からない。
私はダンテに事実を言おうかどうしようか迷っていた。
「何か考え事?」
「あ、うん、ちょっとね……」
「言いたくないなら無理には聞かないけど、困っている事や悩んでいる事なら言って欲しいな」
私はその一言で決めた。
「あのね、ダンテ……私ダンテに出会ったりその……結婚相手になる事、分かっていたの」
「ん?どういう事?」
「私、前に占いにハマっていて、毎日占いに翻弄される日々を送っていたの。その日のラッキーカラーやラッキーフードを忠実に守らなければ悪い事が起きるって思い込んでた。でも、奥多摩で出会った占い師さんが居て、その人に言われたの。私はSNSで外国人男性と出会って結婚する運命にあるって。来年の十月に結婚するって。私、最初は信じられなかったんだけどおじいちゃんが死ぬ前に最後に一緒にお酒飲んだ日もその人に言い当てられていて、今おじいちゃんは私の守護をしてくれているって言われた。おじいちゃんの姿も言い当てられて、本当に当たるんだって思って、三回行ったの。その占い師さんはMiraiさんって言うんだけど、そのMiraiさん曰く、仕事を辞めてダンテと一緒に住むのが良いって言われて……それで仕事辞めた訳じゃないんだけど私の選択は間違ってなかったって言われた。彼女は必ず当たる占い館って言うお店を開いていて、奥多摩の桃の缶詰っていうちょっと怪し気なビルで占いをしているの。人生にたった七回しか行けなくて、寿命に関する事だけ聞いちゃいけない、そういう占いなの。私は三回見て貰ったから後四回。信じている事を馬鹿にされるかもって思って言えなかったけれど、ダンテに隠し事はしたくないから……って私やっぱり変かな」
「絵美、話してくれてありがとう。僕は占いを信じないけれどこうして絵美に出会って婚約して、結婚したいって考えているのは事実だからもしかするとその人は本当に当たる占い師なのかも知れないね。僕は絵美の考えを否定したり、馬鹿らしいなんて思わないよ。純粋な心を持った絵美だからそうして巡り合わせがあったんじゃないかな?」
「信じて……くれるの?」
「勿論さ。絵美が真剣に僕の事を考えてくれている様に、僕も絵美の事を真剣に思ってる。だから安心して。その内僕もそのMiraiさんに会ってみたいよ」
「ありがとう」
私はまた泣いた。信じて貰えた事、一度も笑ったり怒ったりせず私の長話を聞いてくれた事。それが嬉しかった。
「でも私次行っちゃったら四回目になるし、一応自分の考えで行動してみようっていう思いもあるから暫くは行かない。どうしてもって言う時に取っておく」
「そうだね。絵美が行きたい時に僕も付いて行くよ」
心強い言葉に私はダンテの胸の中に飛び込んだ。子供の様に泣きながら。
「よしよし。絵美は良い子だね」
まるで子供扱いされている様だったけれど、そんな言葉も嬉しく感じた。ダンテは私の恋人で、親友で、お父さん代わりで、そして私の生涯の夫になる人だ。そう実感した。
「愛しているよ絵美」
「うん、愛してる」
愛の言葉を囁き合って、私達は笑い合った。こんな幸せな事が起こるなんて微塵も思わなかった。




