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第九話

 食堂の窓ガラスが、気温差で白く曇っている。

 生徒たちの話し声と食器がぶつかり合う音、シチューの甘い匂いが充満する空間で、フェイは無意識に右耳のイヤーカフに触れた。

 冷たい金属の感触が、指先に伝わる。今のフェイは、あの騒動の前と同じ――くすんだ水色の髪に、眠たげな深緑の瞳をした、どこにでもいる「モブ」の姿に戻っているはずだ。


 フェイはスプーンでシチューをすくいながら、食堂の入口をぼんやりと見つめた。


 この食堂の隅にあるテーブル席は、かつてエーレンの指定席だった。彼女はここから、鋭い眼差しで道行く生徒たちを観察していた。

 フェイも真似をして周囲を観察してみるものの、視界に映るのは騒がしい日常だけだ。


 ふと、配膳カウンターの行列のなかに、鮮やかな色彩が紛れているのが見えた。赤茶色の髪――ヒロイン、ソニアだ。

 あの騒動以来、フェイは彼女と言葉を交わしていない。別に意識して避けていたわけではない。ただ、フェイにとっての優先順位が、命を救ったヒロインよりも、行方をくらませたエーレンのほうが高かっただけだ。


 ソニアは友人と談笑しながらトレーを受け取っている。元気そうで何よりだ、とフェイは他人事のように安堵し、再び視線を自分の皿へと落とした。

 冷めかけたパンを口に運ぼうとした、そのとき。テーブルに影が落ちた。


「――フェイさん?」


 鈴を転がしたような声に、フェイは顔を上げた。

 そこにいたのは、トレーを持ったソニアだった。近くで見ると、その瞳の輝きに思わず目を逸らしたくなるほどの圧がある。


「この前は助けていただき、ありがとうございました。お礼が遅くなってしまって、ごめんなさい」


 そう言って、ソニアが深々と頭を下げた。

 周囲の生徒たちが、こちらを振り返る気配がする。フェイは背中をちくちくと刺されている感覚に陥る。

 逃げ出したくてたまらない。だが、これほど丁寧にお礼を言われて、無下に追い返すほどの度胸をフェイは持ち合わせていなかった。


「……いえ、無事でよかったです」


 こんな場所では、もごもごと答えるのが精一杯だ。ソニアは花が咲いたような笑顔を浮かべ、小首を傾げた。


「ここ、空いていますよね。隣に座っても、いいですか?」

「あ、はい……どうぞ」


 フェイが頷くと、ソニアは「失礼します」と言って、フェイの向かい側の席に腰を下ろした。

 それと同時に、食堂内の空気がわずかに変わった気がした。


 ヒロインが動けば、世界が動く。彼女が座っただけで、この薄暗い隅のテーブルにスポットライトが当たったかのよう。……これも、エーレンからの悪影響だろうか。

 フェイはどうにか平静を装ってシチューを口に運んでみるも、味など全くしなかった。


 フェイは視線のやり場に困り、テーブルの上へと目を落とした。

 そこに置かれたソニアの夕食は、生命力にあふれていた。大きな鶏肉のローストに、根菜がたっぷりと入ったサラダ。主食のパンも二つあり、見ているだけで胃袋が刺激されるボリュームだ。

 その横には、湯気を立てるマグカップがある。甘いミルクとカカオの香りが漂う、ホットココアだ。


(よく食べるな……)


 ふと、フェイの脳裏にエーレンの姿がよぎる。

 彼女はいつも軽食ひとつに、砂糖を入れない紅茶という質素な組み合わせを好んでいた。


「改めて自己紹介しますね。私、ソニア・グリーナウェイと申します」


 カトラリーを手に取ろうとしたタイミングで、ソニアがにっこりと笑みを向けた。


 フェイの動きが、ぎこちなく停止する。

 そんなこと、とっくに知っている。エーレンの「モブ活動」に付き合わされたおかげで、彼女の趣味から交友関係に至るまで、フェイの頭には無駄な知識が詰め込まれている。

 だが、ここで正直に「あなたのことはよく知っています」と答える必要はない。


「……どうも、ご丁寧に。俺はフェイ・トムレインです」


 あくまで初対面の上級生として、フェイは短く名乗りを返した。ソニアは満足そうに頷き、フォークを動かし始めた。


「私、ドラゴンなんて、生まれて初めて見ました。絵本のなかだけの生き物だと思っていたから、本当にびっくりして……」


 食事の合間に、ソニアはよく喋る。あの事件の後、寮で友人たちといかに怖かったかを語り合ったこと、先生たちが大慌てだったことなどを、身振り手振りを交えて話してくる。


「そう、ですか。それは……よかったですね」


 フェイは生返事を繰り返しながらシチューを口に運んだ。味はやはりわからない。

 食事が半分ほど進んだ頃、ソニアが不意にフォークを置き、少しだけ身体を前のめりにさせた。


「あの、失礼ですが……フェイさんは、妖精の血をひいていると聞きました。……本当ですか?」


 声を潜めたその問いに、フェイはたまらず視線をそらした。


 またか、と心が沈む。ここ数日、何十回と聞かれた質問だ。

 しかし、ソニアは野次馬根性で聞いてきたわけではないだろう。自分の命を救った力の正体を知りたいと思うのは、当然のことかもしれない。

 意を決したフェイが、小さく息を吐いた。


「俺は人間と妖精のクォーターです」


 ここにきて、嘘偽りのない事実を告げる。もう誰にどう思われようと構わない。そんな投げやりな気持ちも、少しだけあった。


「見ての通り傍目には普通の人間ですし、魔力の質が少し違う程度です。入学する際にも、学校側には特別扱いをしないようにと伝えてあります」


 ついムキになって、突き放した印象を与えたかもしれない。

 異端であることを認めれば、大抵の相手は距離を置くか気味悪がる。フェイは無意識に身構え、ソニアの反応を窺った。

 そこで返ってきた反応は、予想の斜め上を行くものだった。


「わぁっ……! すごい!」


 ソニアは両手を胸の前で合わせ、瞳をキラキラと輝かせていた。


「妖精の血を引いているなんて、とても素敵です! だからあんなに綺麗な魔法が使えたんですね」


 そこには一点の曇りもない、純粋な憧憬があった。

 まるで、物語の王子様でも見るような熱っぽい眼差しを向けられ、フェイは完全に毒気を抜かれてしまった。


「え、いや……そんな、大層なものじゃ……」


 たじろぐフェイに、ソニアは優しく微笑んだ。


「実は、助けていただく前にも、何度か学内でお見かけしたことがあるんです」


 ココアのマグカップを両手で包み込みながら、ソニアが少しはにかんだように切り出した。


「フェイさんはいつも一人で行動されていて、近寄りがたい印象があったのですが……こうしてお話ししてみると、とても穏やかなかただったんですね」


 その言葉に、フェイは食事の手を止めた。


 近寄りがたいと思われたのは、自分が人の目を避けて歩いていたせいだろう。穏やかという評価も、単に言葉数が少ないのを好意的に解釈してくれているに過ぎない。

 だが、フェイが引っかかったのはそこではなかった。


「……俺はいつも一人、と言いましたよね」


 フェイは探るようにソニアの瞳を見つめ返した。


「俺の近くで、二年の女子生徒を見かけたことはありませんでしたか? 髪はくすんだ黄色で、少し癖のある……」


 たまに同じ授業を受けるとき、移動教室のとき、あるいはこの食堂で。エーレンは確かにフェイの隣にいたはずだ。

 ソニアは不思議そうに小首をかしげた。


「うーん? 女子生徒、ですか? 私は……見たことないですね。フェイさんはいつも、一人で静かに本を読んでいらしたような印象しかなくて」


 悪気など微塵もない、曇りのない声音だった。フェイは目まいを起こしそうになった。


 これが、「モブチート」の実態か。

 エーレンが指す「星」に対して、これほどまでに強い認識阻害を働かせているとは。ふざけた名前に反して、かなりの強度を持つ魔法のようだ。


 エーレンは本当に、物語の背景になりきっていたのだ。すぐ近くにいたはずなのに、ソニアの視界には、エーレンという人物は最初から存在しなかったことになっている。


(そんなの、寂しすぎるだろう)


 目の前で微笑むソニアは眩しい。その輝きは、周囲の人々を惹きつけ、物語を紡いでいく光そのものだ。

 その光が強ければ強いほど、影は濃くなる。エーレンはその影に身を潜め、徹底的に「個」を消している。


 愛らしい女子生徒に名前を呼ばれ、優しく微笑みかけられること。それは多くの男子生徒が夢見るシチュエーションかもしれないが、今のフェイには居心地の悪さしか感じられなかった。


 フェイは残りのシチューを流し込むようにして平らげ、ナプキンで口元を拭った。


「ごちそうさまでした」


 トレイを持って立ち上がると、ソニアが驚いて目を丸くした。


「あ……フェイさん、できればもう少し、お話しできませんか? もっとフェイさんのこと、聞かせてほしくて」

「すみません。課題が残っているので、今日のところは失礼します」


 嘘ではないが、真実でもない。ただ、この場から離れたかった。食い下がるように、ソニアが身を乗り出す。


「じゃあ、また別の日に会えますか? 私、お昼休みはいつも中庭にいるんです」


 フェイはその純粋な好意を、残酷だと知りながらも切り捨てた。


「……わかりません」


 拒絶とも受け取れる曖昧な返事を残し、逃げるように席を立った。


 食器返却口にトレイを置き、足早に食堂の出口へと向かう。

 背後からは、ソニアの悲しそうな視線を感じる。さらにその奥、人混みのなかから鋭い眼差しを送られている感覚もあった。


 わずかな違和感に、フェイは一度だけ立ち止まりそうになるも、振り返ることはなかった。そして、そのまま冷たい夜風が吹く廊下へと踏み出した。


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