第八話
運動場で「ドラゴン誤召喚事件」が発生してから、数日が経った。
事件を引き起こした生徒は、退学処分を受けたと担任の教師から聞かされた。しかし、今のフェイ・トムレインにとって、そんなことはどうでもよかった。
教室へ向かう廊下を歩いているだけで、あちこちから視線が突き刺さる。
ひそひそとした囁き声、遠慮のない好奇の目、そして遠巻きに様子を窺う空気。それらは針のように、フェイの過敏な神経を逆撫でした。
「おい、あれがトムレインだろ?」
「すげぇ、本当にあんな優男がドラゴンを追い返したのかよ」
「隠してた実力ってやつ? かっこいいじゃん」
どこかの誰かが投げかける無責任な称賛。フェイは反射的に制服の襟を立て、首を亀のようにすくめた。
あの事件のあと、フェイはすぐに擬態魔道具であるイヤーカフをつけた。これによって、髪や瞳の色、特徴的な尖った耳も、以前と同じ「モブ」に戻った。だが、校内に広まってしまった噂は、魔法で消すことはできない。
つい先日までのフェイは、誰の記憶にも残らない、取るに足らない男子生徒だった。それが今や、歩くたびに波が割れるように人が退いていくか、あるいは寄ってくるかのどちらかだ。
「よぉ、トムレイン君! ちょっといいかな?」
勢いよく肩を叩かれ、フェイの体がビクリと跳ねた。振り返ると、上級生の集団がニヤニヤと笑いながら立っていた。
「聞いたぜ、妖精語がペラペラなんだって? 俺たちにも教えてくれよ。なんかいいことあるんだろ?」
「い、いえ、その……たまたま、本で読んだ知識が……」
フェイは視線を床に落とし、しどろもどろに答える。
鬱陶しい。消えてくれ。そんな強気な態度は脳内だけで、実際には愛想笑いを浮かべることしかできない。
「へぇ、謙遜しちゃって。次はいつドラゴン呼ぶんだ?」
「……失礼します!」
質問攻めに耐えきれず、フェイは逃げるようにその場を後にした。背中で嘲笑が弾ける音が聞こえる気がして、胃のあたりが重く沈む。
息を切らして次の教室に飛び込んだフェイは、習慣のように周囲を見渡した。
からし色の緩く結ばれた髪。いつも能天気な笑顔で、変なことばかり言ってくる女子生徒。教室のどこを見ても、エーレン・ホーソーンの姿が見当たらないのだ。
(……どうして)
以前なら、彼女のほうから声をかけてきたはずだ。茶化したり激励したりして、この重苦しい空気を笑い飛ばしてくれたはずなのに。
ここ数日、フェイはエーレンと一度も会話をしていない。会話どころか、その姿を捉えることすらできていないのだ。
授業の準備をしているビーシアとシーラを見つけ、フェイはおずおずと近づいた。
「あの……二人とも、こんにちは」
「あら、ごきげんようフェイ君。今日も大変そうね」
ビーシアが同情的な目を向けてくる。
「ええ、まあ。……ところで、エーレンさんは? 今日も欠席ですか?」
フェイの問いに、二人はきょとんと顔を見合わせた。
「え? 何を言ってるの?」
教科書を抱えたシーラが、不思議そうに首を傾げる。
「さっきまで、そこで一緒に古代魔法史の授業を受けていたじゃない。あなたの二つ後ろの席に座っていたわよ?」
「……はい?」
フェイは身をこわばらせ、絶句した。
それは嘘だ。自分は何度も振り返ったし、気配を探った。そこには誰もいなかったはずだ。
「移動教室のときも、近くを歩いていたのに。フェイ君ってば、有名人になって忙しいから、周りが見えてないんじゃない?」
ビーシアがくすくすと笑い、二人はフェイのもとから離れていく。
何かがおかしい。フェイの視界からエーレンだけが切り取られている、異様な感覚。
騒がしい教室のなかで、フェイは得体の知れない喪失感に立ち尽くした。
焦りによって判断力が低下していたのかもしれない。
人波の途切れた廊下の先、窓際に佇む後ろ姿が目に入った。少し癖のある、くすんだ黄色のセミロングヘア。背丈も華奢な肩も、記憶のなかの彼女と酷似している。
安堵感と高揚感に包まれ、フェイの足は勝手に動いていた。
(やっと、見つけた!)
高鳴る鼓動を抑えつけ、フェイはおずおずと手を伸ばした。
「……すみません! そこの人……!」
震える声で呼びかけると、その女子生徒はゆっくりと振り返った。
「……はい? 何かご用でしょうか」
それは丸い眼鏡をかけた、全く見知らぬ女子生徒だった。
フェイは凍りついた。伸ばしかけた手が宙を彷徨い、顔から急速に血の気が引いていく。
「あ、い、いえっ! その……人違いでした! すみません、本当にすみません!」
裏返った声で平謝りし、フェイは脱兎のごとくその場から逃げ出した。女子生徒の不審げな視線が背中に突き刺さり、恥ずかしさで耳の先まで熱くなる。
心臓が早鐘を打ったまま、フェイはひとけの少ない旧校舎へと続く渡り廊下を選んで歩いていた。
遠回りにはなるが、今の自分には好奇の目に晒される通り道を歩く気力は残っていない。冷え切った石畳の廊下を、力なく進む。
一人の足音だけが虚しく響く静寂のなかで、思考は自然とあの日の出来事へと引き戻されていく。
(俺は、間違っていたんだろうか)
ドラゴンの咆哮、震えるソニア。そして、誰よりも早く駆けだそうとしていたエーレンの悲痛な叫び声。
『危ない! 逃げてっ!!』
あの声を聞いた瞬間、理屈よりも先に身体が動いていた。
ただ、エーレンが悲しむ結末を回避したかった。それだけだったはずなのに。
ヒュゥ、と古びた窓枠の隙間から、冷たい風が吹き込んでくる。フェイは足を止め、白く濁った溜息を吐き出した。頬を刺す冷気が、自分の孤独を際立たせてくる。
いっそのこと、寮の部屋に引きこもってしまおうか。そうすれば、わずらわしい称賛も、突き刺さる視線も遮断できる。
なぜか、試験前に見せたエーレンの笑顔が脳裏によぎる。
『出席するのは当たり前のことよ!』
そう言ってフェイの腕を引き、陽の当たる場所へと連れ出してくれたのは、他ならぬ彼女だ。
フェイは瞼を伏せ、残像を振り払うように、再び一歩を踏み出した。
やがて、たどり着いたのは、敷地の外れにある並木道「迷いの木立」だった。
季節外れのこの場所に、迷い込む者はいない。
冬の気配が近づく静寂に身を沈めると、張り詰めていた神経が少しだけ緩んだ。
フェイは並木道の奥にある、古びたベンチへと腰を下ろした。冷え切った木の感触がズボンの生地ごしに伝わってくる。
背もたれに体重を預け、ゆっくりと空を仰ぐ。頭上を覆うのは、すっかり葉を落とした冬木立の枝。その隙間から覗く空は、寒々しい灰色だった。
フェイは指先を軽く動かし、詠唱もなく魔法を行使した。
ふわり、と温かい空気が身体を包み込む。魔力を熱源に変換し、周囲の気温を局所的に上げる調整魔法だ。
本来なら高度な魔力制御を要する技術なのだが、フェイにとっては呼吸をするのと変わらない。
その温もりに誘われるように、木の陰から小さな光の球体が現れた。
それらは確かな意思を持って、フェイの目の前でふらふらと漂う。
「やぁ、元気でしたか」
フェイは自然な口調で、その光に話しかけた。
喉から発したのは人の言葉ではない。風が擦れる音や、水滴が落ちる音に近い、複雑な魔力の共鳴音――『妖精語』だ。
光の球体――森に住まう下級妖精は、嬉しそうにフェイの周りをくるくると飛び回った。
カラコロ、と乾いた木の実を転がしたような音が響く。人間にはただの環境音にしか聞こえないその音の羅列を、フェイは瞬時に言語として理解した。
『久しぶりだね』『魔力の匂いが濃い』『あの娘はいないの?』
無邪気な問いかけに、フェイは力なく口元を緩めた。
「えぇ、今日は一人です。……彼女、エーレンは、ここには来ていませんか?」
妖精は空中で停止し、またカラコロと音を鳴らして左右に揺れた。
『いない』『見てない』『最近こない』
予想どおりの答えとはいえ、胸の奥がちくりと痛んだ。
フェイは右手の手のひらを差し出す。妖精は警戒することなく、その指先へと舞い降りた。ほんのりとした温かさと、くすぐったい感触がある。
「そう、ですか。……もしかしたら、もうここには来ないかもしれません」
弱々しい呟きが、周囲に溶けて消えていく。
妖精が不思議そうに、手のひらの上でぴょんと跳ねた。フェイは大袈裟に肩をすくめてみせた。
「俺だって、こんなふうに別れることになるなんて、思ってもみませんでしたよ。色々と、言いたいことがあったんですけどね」
ありがとう、とか。君のおかげで、とか。
あの日、ドラゴンを前にして力を解放したことに後悔はないが、その代償として、一番近くにいてほしかった人を失ってしまったのだとしたら、あまりにも皮肉な結末だ。
フェイの沈んだ感情に感応したのか、周囲の茂みから、さらに幾つかの光が集まってきた。
青白い光、薄紅色の光。形も大きさも違う精霊たちが、慰めるようにフェイの肩や膝に寄り添ってくる。
彼らは人のような言葉は持たないが、純粋な好意と親愛の情を魔力に乗せて伝えてくる。その優しさが、今は何よりも身に沁みた。
フェイは静かに目を閉じ、冷たく澄んだ空気を肺の奥まで吸い込んだ。
「……心配してくれて、ありがとう」
目を開けると、いつのまにか厚い雲の切れ目から、細長く光が差し込んでいた。
「もう少しだけ、頑張ってみます。せっかく、彼女が引っ張り上げてくれた場所ですから」
フェイは指先に止まっていた妖精を、空へと優しく放った。光の粒子をまとった妖精は、励ますように一度大きく旋回し、冬枯れの森の奥へと帰っていく。
その軌跡を目で追いながら、フェイはもう一度、深く息を吐いた。




