第七話
ついに迎えた期末試験、当日。天気はすがすがしいまでの快晴。
絶好の試験日和と言えば聞こえはいいが、青空の下で繰り広げられている光景は、混沌を極めていた。
上空を風切り音と共に何かが横切ったかと思えば、箒に跨った下級生が悲鳴を上げながら飛んでいく。あれは飛行術の実技試験だ。
地上では自身の身長ほどもある巨岩と対峙し、必死に杖を振るう集団がいる。彼らは物体操作の試験中だろう。爆発音や詠唱の声、合否を告げる教師の怒鳴り声が入り乱れている。
その賑やかさを、少し高い位置にある渡り廊下から、エーレンは虚ろな眼差しで見下ろしていた。
ベンチの背もたれに体重を預け、体がしぼむほどの深く長い息を吐き出す。
「終わった……。あとはもう、祈ることしかできないわ」
先ほどまで行われていた、選択科目『妖精学』の試験。筆記試験はどうにか知識でねじ伏せたものの、続く実技――『妖精語』の発音テストは、まさに地獄だった。
喉の奥で魔力を練り上げ、音階に色をつけるイメージで発声する。頭ではわかっていても、実際に口から出る音は「スースー」と、空気漏れの音ばかり。教師の眉間の皺が深くなるたびに、エーレンの寿命も縮んでいくようだった。
追試か、あるいはギリギリで可になるか……。結果について、今は考えたくなかった。
しかし、こんなところで燃え尽きるわけにはいかない。今日はここで、物語の分岐点となる重要なイベントが発生するのだから。
「……さて、と」
エーレンは己を鼓舞するように膝を叩き、ゆっくりと立ち上がった。
視線の先にあるのは、運動場の隅に設けられた特設エリアだ。そこだけ周囲の空気が陽炎のように揺らぎ、厳重な多重結界が張られていることが見て取れる。
透明な障壁の向こう側こそが、これから始まる最高学年の「高等召喚魔法」の試験会場。ハプニングの起点となる場所だ。
渡り廊下の階段を降り、運動場の端へ向かって歩いていると、見慣れた二つの背中が目に入った。
ビーシアとシーラだ。二人とも試験が終わった直後のようで、どこか不安定な足取りで歩いている。
「お疲れさま、二人とも。錬金薬学の試験はどうだった?」
エーレンが背後から声をかけると、二人は肩を震わせて振り返った。
ビーシアは気まずそうに視線を泳がせ、シーラに至っては深々と肩を落としている。その制服からは、少し焦げ臭い、野草を煮詰めたような、苦々しい匂いが漂っていた。
「えーっと……まぁ、できることはやったわ。結果がどうあれ、終わったことは変えられないもの」
遠い目をしたビーシアが、哲学的なことを口走る。
「実技は……錬金釜が爆発しなかっただけマシよね。調合した薬の色が、教科書に載っている色とは似ても似つかない色をしていたけど」
隣のシーラもまた、力なく笑った。
どうやら、エーレンが選択しなかった「錬金薬学」も、それなりに手強い相手だったらしい。
二人はひとしきり愚痴をこぼして、少しだけスッキリしたようだ。ビーシアがこちらに向き直る。
「エーレンのほうはどうだったの? 妖精学は難しいって聞いてたけど」
エーレンは眉根を寄せ、重々しく頷いた。
「えぇ、難しかったわね。筆記はともかく、実技の発音がね。喉の使いかたが独特すぎて、最後は何かの呪いでもかけている気分だったわ」
その言葉に、ビーシアとシーラが顔を見合わせる。
「勉強家のエーレンがそこまで言うなんて……やっぱり、私たちは選択しなくて正解だったわね」
「そうねぇ。興味本位で取らなくてよかった」
安堵の息を漏らす二人を見て、エーレンは苦笑した。
「魔力に関しては、勉強だけでどうにかなるわけじゃないから……。さすがに、才能の壁ってものを感じたわ」
実感を持ってしみじみと呟く。前世の記憶と努力で座学はカバーできても、生まれついた魔力の質や量は変えられない。それがこの世界の残酷であり、リアルなところだ。
そんなふうに三人がささやかな反省会を開いていると、不意に空気を引き裂く音が響いた。
「キィーッ!」
ガラスを爪で引っ掻いた音に似た、甲高い鳴き声だった。三人は咄嗟に音がしたほうを見る。
視線の先にあるのは、三年生の「高等召喚魔法」の試験会場だ。
障壁の向こう側、宙を舞っているのは鮮やかな緋色の羽を持つ、オウムに似た巨大な鳥だった。
感心した様子のビーシアが声を上げる。
「あれは……火の精霊鳥ね。そこそこの高位精霊じゃない」
エーレンは期待に満ちた眼差しで、試験会場を見つめた。
「えぇ、召喚魔法の試験が始まったようね」
この召喚魔法の試験は、ミラエナ魔法学校の試験のなかでも、特に注目度が高い花形イベントだ。
ルールは単純かつ過酷。試験官である教師が指定する属性や種別に合わせ、受験者は自身の魔力を使って契約可能な存在――妖精、精霊、あるいは魔獣などを呼び出す。
正確な召喚術式はもちろんのこと、より強大で、より格の高い存在を呼び出せば評価は高くなる。己の実力を周囲に見せつける絶好の機会でもあった。
だが、エーレンの胸が高鳴っている理由は、単なる見物人としての興奮だけではない。
(成績に執着した、愚かな生徒……か)
原作ゲームの知識によれば、このあと、とある男子生徒が試験に挑む。彼は実力不足を補うため、そして周囲を見返すために、禁制品である魔力増幅薬を服用して試験に臨むのだ。
一時的に限界を超えて膨れ上がった魔力は、制御を失い暴走する。その結果、彼の実力を遥かに超えた強大な存在、「ドラゴン」が呼び出されてしまう。
本来なら召喚できるはずのないドラゴンの出現に、会場はパニックに陥る。その阿鼻叫喚こそが、ヒロインと攻略対象を結びつける装置となる。
エーレンたちモブの役割は、その緊迫感を演出するために右往左往して逃げ惑うことだ。
エーレンは冷静に視線を巡らせる。
召喚試験の会場のさらに奥、運動場の外れでは、一年生の飛行術の試験が行われているのが小さく見えた。あの場所にソニアもいるはずだ。
(準備は整っているわ。あとは、役者が揃うのを待つだけ)
暴走したドラゴンは、より弱い魔力、あるいは特定の波長に惹かれ、あの一年生の集団へと向かっていく。
原作どおりなら、ソニアはそこで逃げ遅れ、絶体絶命のピンチを迎えることになる。
「……ねぇ、ビーシア、シーラ」
エーレンは視線を外さずに、隣にいる二人に声をかけた。
「二人は寮に戻って休んだほうがいいんじゃないかしら。試験で疲れているでしょうし、制服に薬の匂いが染みこんでいるわよ」
これからここは、危険地帯になる。同じモブとはいえ、友人たちを巻き込みたくはない。そして何より、エーレン自身が気兼ねなく「観劇」するためには、一人のほうが動きやすい。
「そう言われると、疲れがどっと出てきた気もするけど……そんなに匂う?」
エーレンの指摘に、ビーシアは思わず制服の袖に顔を近づけて鼻を鳴らす。
「エーレンは? まだここにいるつもり?」
少し不安そうにシーラが尋ねてきた。エーレンは振り返り、いつもどおりの穏やかな笑みを浮かべてみせた。
「えぇ。このところ、根を詰めて勉強していたせいかしら……もう少し、外の空気を吸っていたいのよ。召喚魔法の試験も見学したいしね」
嘘はついていない。ただ、その目的が少し不純なだけだ。ビーシアとシーラは顔を見合わせ、それから納得したように頷いた。
「わかったわ。あんまり無理しないでね」
「夕食の時間には戻ってきてね」
二人はひらひらと手を振り、校舎の方へと歩き去っていった。その背中が見えなくなるのを確認してから、エーレンは再び試験会場へと視線を向けた。
詠唱の声が風に乗って途切れ途切れに届く。試験は順調に進んでいるようだ。
ある生徒は手のひらサイズの精霊を呼び出して安堵の息を漏らし、またある生徒は召喚した魔獣が言うことを聞かずあたふたしている。
多少のトラブルはあれど、それらはすべて想定の範囲内、学生らしい失敗の範疇だ。エーレンが待っているのは、そんな微笑ましい失敗ではない。
ふと視線をずらすと、召喚試験会場のさらに奥、一年生たちが集まるエリアに、見慣れた赤茶色の髪があった。
ソニアだ。彼女は自分の身長ほどもある長い箒を抱え、不安そうに空を見上げながら順番を待っている。
(……位置よし、タイミングよし)
まもなく「そのとき」が訪れる。エーレンが固唾を飲んで見守るなか、事態は急激に動きだした。
突如、運動場に轟音が響き渡った。
地面が振動して、悲鳴とも歓声ともつかないどよめきが波のように広がる。
「ついにお出ましね……!」
障壁のなかで巻き起こった砂埃と黒煙が、風に煽られて晴れていく。予想どおり、そこに現れたのは最強の妖精種――ドラゴンだ。
全身が硬質な鱗で覆われた、蜥蜴と巨鳥を合わせた威容。背中には皮膜の翼が生え、太い尾が地面を叩いて激しい音を立てている。
体長はおよそ十メートル弱。ゲーム画面で見るよりも、遥かに圧倒的な質量と威圧感を持っていた。
エーレンは反射的に懐から愛用の杖を引き抜き、両手で強く握りしめた。
わかっていても、身体の芯が冷える。立っているだけで、肌がちりちりと焼けるような魔力の余波を感じる。
運動場は一瞬にしてパニックに陥った。我先にと逃げ惑う生徒たち。ある者は箒に跨って空へ逃れようとし、ある者は腰を抜かしてその場に座り込む。
試験官である教師が声を張り上げ、障壁の強化を試みようと杖を掲げるが、ドラゴンの喉奥から放たれた咆哮が、その声をかき消した。
「――――――!!」
大気を震わすドラゴンの咆哮に、教師の手元が狂う。障壁の結界はゆがみ、制御が効かなくなっている。
「まずいわね……思ったより結界が脆いわ」
被害が出る前に、早くイベントを終わらせてほしい。エーレンは焦りながらも、視線を一年生の試験会場へと走らせた。
そこでは、咆哮が引き起こした衝撃波にあてられたのか、飛行中の生徒たちがバランスを崩して次々と不時着していく。
もちろん、ソニアの姿もあった。彼女の持つ箒は制御不能に陥り、きりもみ回転しながら地面へと落下して――どうにか直前で体勢を立て直し、軟着陸したようだ。
しかし、降り立った場所が悪すぎた。そこは、明滅する障壁のすぐそばで、ドラゴンの鼻先と言ってもいい距離だ。
ソニアは箒を抱えたまま硬直し、目の前にそびえ立つ巨大な怪物を見上げている。悲鳴すら上げられずに震えているのが、遠目にもわかった。
ドラゴンの金色の瞳が、小さな獲物を捉える。
(さあ、今よ! ここが一番の見せ場!)
エーレンは心のなかで叫んだ。
絶体絶命のヒロイン。迫りくるドラゴン。ここで颯爽と現れ、魔法や剣で危機を救うのが攻略キャラクターの役目だ。
誰が来る? 王道のデニアスか? それともクールなレムエルか?
エーレンは期待と緊張で瞬きを忘れ、周囲を見渡した。
……しかし。誰も、来ない。
視界に入るのは、情けなく逃げ惑う男子生徒たちの背中と、混乱する群衆だけ。
キラキラしたエフェクトを背負った美形男子が飛び出してくる気配は、微塵もなかった。
「なっ……なんで?」
エーレンの思考が停止する。
ドラゴンの鼻息が、砂煙を上げてソニアに吹き付けられている。ソニアは腰が抜けたのか、後ずさりすらもできずにいる。それなのに、助けが来ない。
エーレンの脳裏に、最悪の可能性がよぎった。
(嘘でしょ? 誰も助けに来ないってことは……もしかして、好感度を上げていない?)
イベントが発生しないということは、フラグが立っていないということ。
つまり、ソニアはまだ誰のルートにも入っていない。誰とも親密になっていないのだ。
(ありえない。絶対に誰かが来るはずよ! ……いやでも、この場合、どうなるの!?)
ドラゴンの爪が、容赦なく振り上げられる。その質量がソニアの上に落ちれば、ただの怪我では済まない。
思考するよりも早く、エーレンの足は地面を蹴っていた。
弾けるように走り出しながら、エーレンは喉が裂けんばかりに叫んだ。
「危ない! 逃げてっ!!」
腹の底に響くほどの重い地響きとともに、視界が茶色い砂煙で塗りつぶされた。
直後、悲鳴とも怒号ともつかない声が四方八方から弾ける。
「逃げろ! 校舎のほうへ走れ!」
「先生を呼んで! 誰か!」
必死に避難誘導をする声が聞こえてくるが、パニックは収まらない。
エーレンは逆流する人の波に揉みくちゃにされていた。
「ちょっと、押さないで! そこを通して!」
ソニアの安否を確認しようにも、土煙と逃げ惑う生徒たちに阻まれて何も見えない。
(あぁ、もう! 早くどうにかしないと……!)
エーレンの額に脂汗がにじむ。
自分が駆けつけたところで、あの巨大なドラゴン相手に何ができるというのか。
必死に人混みをかき分けながら、エーレンは脳内の記憶を検索していた。
原作ゲームで、攻略キャラクターたちはどうやって事態を収拾していた? 剣で鱗を貫く? 特大の氷塊魔法で動きを封じる? あるいは――。
不意に、押し寄せていた人の流れがピタリと止まった。まるで時間が止まったかのように、どよめきが一瞬にして凪いだ。
理由はわからないが、この好機を逃す手はない。エーレンは立ち止まった生徒たちの隙間に身体を滑り込ませ、最前列へと躍り出た。
「……え?」
晴れ始めた土煙の向こう側、そこに広がっていた光景に、エーレンは息を呑んだ。
運動場の中央、地面に亀裂が走る荒涼とした場所で、ソニアは腰を抜かして座り込んでいた。幸い、目立った外傷はないようだ。
彼女の眼前には、荒い鼻息を吐くドラゴンが鎮座している。そして――その両者のあいだに、一人の男子生徒が立っていた。
ドラゴンを背中で庇うように、あるいはソニアを守るように、両手を広げて対峙している。
「――誰だ?」
近くにいた生徒が、ぽつりと漏らした。
見覚えのない後ろ姿。けれど、エーレンの心臓は早鐘を打ち、本能的に「彼」の正体を告げていた。
風に煽られて揺れる髪は、いつもの淡い灰水色ではない。夜の帳が下りる直前のような、深く艶やかな藍色。
その横顔から覗く瞳も、眠たげな深緑色ではなく、鮮烈な光を宿した黄緑色へと変化している。
色彩は違えど、その華奢な背中のラインも立ち姿も、すべてが見慣れたものだった。
(フェイ……!?)
名前を叫びそうになり、エーレンは自身の口を手で覆った。
ヒロインと、彼女を救うヒーロー、そして試練としてのドラゴン。これぞまさしく、原作ゲームにおける「イベントスチル」そのもの。
誰も立ち入ることのできない、不可侵領域だ。
ドラゴンと睨み合っていたフェイが、何かをぼそぼそと呟いた。
距離があるため、言葉の内容までは聞き取れない。しかし、それは魔法の詠唱ではなく、歌唱かと錯覚するほど優しい音色だった。
すると、驚くべきことが起きた。
殺気立っていたドラゴンが、フェイの言葉に応じるように、うやうやしくその巨体を地面に伏せたのだ。
直後、ドラゴンの真下の地面に、幾何学模様の巨大な魔法陣が青白く浮かび上がる。
グォォォ……と、ドラゴンが満足げな喉音を鳴らす。その身体が光の粒子となって崩れ始め、魔法陣のなかへと吸い込まれていく。
暴虐の限りを尽くすと思われた怪物は、ほんの数分で風と共に消え失せた。
周囲の人々が呆気にとられ、声も出せずにいる静寂のなか、誰かが震える声で呟いたのが聞こえた。
「今の……妖精語だ……」
脅威が去ったことを確認すると、フェイはゆっくりと振り返り、まだ震えているソニアに手を差し伸べた。
「大丈夫ですか? 立てますか?」
その声は、いつもエーレンと話す際と同じで、穏やかな丁寧語だった。差し出された手に、ソニアがおずおずと触れる。
フェイが身を屈めた拍子に、藍色の髪がさらりと流れ落ちた。その切れ目から、人間よりも少しだけ長く、先端の尖った耳が露わになったのを、エーレンは見逃さなかった。
(あ……!)
エーレンの頭のなかで、すべての辻褄が合う。
フェイがひた隠していたのは、自身の「妖精」にまつわる能力だったのだ。
ようやく落ち着きを取り戻した教師たちが、「怪我はないか!」と叫びながら二人の元へ駆けつけていく。それを見て、安全だと判断した生徒たちが、わっと騒ぎ始めた。称賛の声、安堵の声、驚きの声が渦を巻く。
「まさか、こんなことになるなんてね……」
エーレンは動揺を隠すように、自分の胸元をぎゅっと握りしめた。胸の奥で、何かが音を立てて落ちていくような感覚があった。
フェイはただのモブ仲間ではなかった。彼はソニアや攻略キャラたちと同じ、輝く「星」の一つだったのだ。
彼がこれまでその力を隠していた理由はわからない。しかし、こうして正体を晒し、ヒロインを救った今、彼は表舞台へと引きずり出されることになるだろう。
人垣の中心で、フェイがきょろきょろと忙しなく辺りを見回しているのが見えた。
教師からの問いかけにも、ソニアの感謝の言葉にも上の空で、必死に誰かを探している。その黄緑色の瞳が、群衆に紛れているはずの「一人」を捉えようとしていた。
(それは違うわ、フェイ)
ここで目が合ってしまえば、彼はきっとエーレンの元へ駆けてくるだろう。
そんなことをすれば、エーレンまで「特別な何か」だと思われてしまい、フェイが持つ可能性の芽を摘んでしまうかもしれない。
それに何より――今の彼を、どんな顔で直視すればいいのかわからなかった。
エーレンはひっそりと「モブチート」を発動させる。認識阻害のベールが全身を包み込み、存在感を希薄なものへと変えていく。
そのまま俯いて前髪で目元を隠すと、称賛の輪を作ろうとしている生徒たちに背を向けた。
誰にも気づかれることなく、静かに、速やかに。星が生まれ輝く場所から、姿を消した。




