第六話
期末試験の足音が近づくと、校内の空気は目に見えて重くなる。それはミラエナ魔法学校が誇る大図書館も例外ではなかった。
天井まで届く書架のあいだを、羊皮紙をめくる乾いた音と、学生たちの押し殺した溜息が埋め尽くしている。エーレンはモブチートで気配を消しながら、書架の隙間を縫って歩いた。
(見事に満席だわ……)
お気に入りの窓際の席――柱の影になっていて、周囲の人間関係や根も葉もない噂話を盗み聞きするには絶好の特等席――には、すでに先客がいた。三年生の先輩たちが、魔薬学の分厚い事典を広げて頭を抱えている。
いつもなら空くのを待つか、別の隙間を探すところだが、今日の図書館はどこもかしこも殺気立った学生たちであふれかえっている。
エーレンは早々に席取り合戦からの撤退を決めた。カウンターへ向かい、事前に目星をつけておいた数冊の専門書を司書に差し出す。
「貸出をお願いします。『妖精学の基礎』と『世界の妖精たち』、あと『精霊と対話するための魔力波長』……以上、三冊です」
これらは選択科目である「妖精学」の資料だ。司書が杖を振ると、本の背表紙に魔力の刻印が浮かび上がり、貸出処理が完了する。
重たい本を鞄に詰め込み、エーレンは逃げるように図書館を後にした。
石造りの回廊に出ると、ひんやりとした秋の風が頬を撫でた。
見上げれば、吸い込まれるような青空が広がっている。寮の自室に籠もってインクの匂いと格闘するのも悪くはないが、この陽気を無駄にするのは惜しい気がした。
エーレンは制服の上に厚手のコートを羽織り、鞄に入れた魔法のティーポットの存在を確かめてから、校舎裏へと足を向けた。
目指すのは、いつもの並木道だ。
夏には青々と茂っていた魔導樹の葉は、すっかり黄金色から茶色へと変色し、乾いた音を立てていた。風が吹くたびに枯れ葉が舞い落ち、地面に幾重もの絨毯を作っている。
並木道の奥、定位置となっているベンチにたどり着いたエーレンは、ふと足を止めた。
(当たり前だけど、誰もいないわね)
そこにはただ、枯れ葉が積もった古びたベンチがあるだけだった。フェイの姿はない。
事前に待ち合わせをしたわけでもないし、彼だって一人で試験勉強に励んでいるのかもしれない。
エーレンは杖を一振りして、ベンチの枯れ葉を吹き飛ばしてから、腰を下ろした。
視界には誰もいない。聞こえるのは風の音と、遠くから響く生徒たちのかすかな声だけ。
一人でいることは、エーレンにとって日常であり、むしろ好ましい時間だったはずだ。前世の記憶を思い返し、今後の作戦を組み立てる貴重なひととき。
それでも、この場所であの灰水色の髪をした少年の姿がないだけで、辺りの景色が妙に寒々しく感じられた。
(フェイは、私とつるむ前はずっと一人でここにいたのよね……)
当時の彼は、どんな気持ちでこの風景を見ていたのだろう。やはり、孤独や不安にさいなまれていたのだろうか。それとも、自分の殻に閉じこもることで安らぎを感じていたのだろうか。
想像すると、胸の奥がちくりと痛んだ。エーレンは大きな溜息をこぼした。
「しんみり感傷に浸ってる場合じゃないわ。集中、集中」
エーレンは頭を振って思考を切り替えると、鞄から大判の本を取り出し、膝の上で開いた。
吹き抜ける風が、足元の落ち葉をさらっていく。大図書館での殺気立った静寂とは比べものにならないほど、屋外の空気は澄んでいて心地よかった。
エーレンは膝の上に広げた本――『世界の妖精たち』という、表紙だけはメルヘンチックな図鑑に視線を落とした。
この世界ではスライムやゴブリン、ペガサスに竜といった幻想生物、魔法生物が当たり前のように存在している。
そのなかでも知性のある魔法生物たち、特に妖精や精霊が使う、魔力を使った話術や言語を「妖精語」と、人間が呼称しているのだ。
パラパラとページを繰るエーレンの指が、ある一点で止まる。
「……あれ?」
図鑑に描かれた精緻なスケッチと、目の前に広がる景色を交互に見比べる。
そこに描かれていたのは、秋になると鮮やかな黄金色に染まり、周囲の魔力を緩やかに吸い上げて成長する、「魔導白樺」の木だった。
「ここに植えられている木って、妖精が好む木だったんだ……」
解説文によれば、この樹木が発する独特の魔力波長に惹かれ、微細な精霊や妖精たちが集まってくる習性があるらしい。
エーレンは改めて、頭上を覆う並木を見上げた。日光を透かして輝く黄金の葉。その隙間を縫うように、目に見えない何かが飛び回っているのだろうか。
あいにく、エーレンを含む一般人の瞳には、彼らの姿は映らない。特殊な加工を施した魔道具を用いるか、あるいは彼らと波長の合う者でもない限り、妖精はただの風や光として認識されるだけだ。
すぐそばにいるのに、決して触れられない隣人たち。そう考えると、この静かな並木道が、少しだけ賑やかな場所に思えてくるから不思議だ。
「まっ、見えないものを気にしても仕方ないわね。問題はこっちよ」
エーレンは図鑑を閉じると、もう一冊の薄い、けれど内容の重さは図鑑の比ではない教科書『妖精学の基礎』を手に取った。
絶賛苦戦中の「妖精学」は、今期、興味本位で履修登録してしまった選択科目だ。前世のゲーム知識があれば、どんな科目も楽勝だと高をくくっていたエーレンにとって、この科目はとんだ誤算だった。
原作ゲームでの妖精語は、自動翻訳されてテキストボックスに表示される程度のものなのだから。
渋々、エーレンは本を開き、最初のページに記された発音記号をにらみつけた。
「うげぇー……やっぱり、難解すぎるわよ、これ」
活字が好きなエーレンであっても、思わず変な声が出る。
妖精語の厄介なところは、単に舌や唇の動きで音を作るだけではない点にあった。教科書の注釈には、こう記されている。『声帯を震わせる際、微量の魔力を呼気に乗せ、音階に色をつけるイメージで発声すること』。
魔力を呼気に乗せる? 音階に色をつける? 何回、首をかしげようとも、エーレンには理解できなかった。
「……ル、ルゥ……?」
試しに一言だけ、小さく呟いてみる。
しかし、口から出てきたのは気の抜けた音だった。魔力が乗っていない言葉は、妖精にとっては雑音と変わらないという。
これを習得するには、繊細な魔力制御のセンスと、感覚的に音を捉える天性の才能が必要だ。座学と暗記だけでどうにかなる代物ではない。
(最初から知っていれば、絶対にこんな科目、選ばなかったのに……)
がっくりと肩を落とし、エーレンは天を仰いだ。苦笑してしまうくらい、今日の空はどこまでも高く、青い。
「はぁ……。追試だけは免れたいけど、前途多難ね」
誰に聞かせるでもなく呟いて、再び呪文のような記号の羅列へと視線を戻した。
次第に太陽は傾き、並木道の影を引き伸ばしていく。
エーレンは魔法のティーポットから注いだ二杯目の紅茶に口をつけた。カップから立ち上る湯気が、冷え始めた秋の空気に白く溶けていく。
膝の上には『妖精学の基礎』が開かれたままだが、ここ数分、ページはめくられていない。視線は活字を滑るばかりで、内容は右から左へと抜けていく。
頭を占めているのは、難解な発音記号ではなく、ソニア・グリーナウェイのことだった。
(……なーんかおかしいのよね。この時期なら、もっとイベントが発生してもいいはずなのに)
本来ならば、季節の深まりとともに恋模様も加速するはずだ。しかし、最近の彼女はやけに大人しい。
エーレンが思考の迷路に入り込んだ、そのときだった。
「――エーレン?」
不意に名前を呼ばれ、心臓が跳ね上がる。音もなく近づいてきた影に、エーレンはビクリと肩を震わせて顔を上げた。逆光のなかに、見慣れた灰水色の髪が揺れている。
「フェイ! もう、気配を消して近づかないでよ」
「普通に歩いてきましたよ。エーレンが呆けていただけでしょう」
フェイは悪びれる様子もなく、ベンチの前に立っていた。
エーレンは驚きを鎮めつつ、慣れた動作でベンチの端へと身体をずらす。空いたスペースを見て、フェイがゆっくりと腰を下ろした。彼が隣に来ると、ふわりと冷たい風の匂いがした。
「今日はモブ活動はお休みですか」
フェイの視線が、エーレンの膝に乗った資料へと落ちる。そこで「妖精」や「言語」に関する文字を目にした瞬間、彼の眉が一瞬だけ、不快そうに寄せられた。
思考に没頭していたエーレンは、フェイの変化など気にも留めない。
「まぁね。勉強もおそろかにしたくないし……一旦、モブ活動の現状も整理したいなって」
エーレンは本を閉じると、大きく伸びをした。
「期末試験が近いからっていうのもあるけど、ソニアの動きが鈍化してるのよね。攻略キャラと交流する数が少ないっていうか……イベントの発生率が妙に低いのよ」
焦りをにじませるエーレンに対し、フェイは至って淡々としていた。
「たしかに、入学したての春頃と比べると落ち着いてますね。でも、学生の本分は勉強でしょう? 学業に専念しているのは、良い傾向じゃないですか」
「それはそうなんだけど……乙女ゲームにおいて、イベントの欠如は死活問題なの!」
エーレンは唇を尖らせると、持っていた本の角を、隣に座るフェイの肩にぐりぐりと押しつけた。
「痛っ……何するんですか」
「他人事だと思って。まったく、自分のほうはどうなのよ。フェイの選択科目、私とは違うんだから、教えてあげられないわよ? ちゃんと理解できてるの?」
「授業に出席はしてますよ……一応」
フェイは億劫そうに肩をすくめ、本の角から逃れるように身を引いた。
「出席するのは当たり前のことよ!」
エーレンが楽しそうに笑うと、フェイはあからさまに肩を落とした。そして、うろんな目でエーレンの顔を覗き込む。
「なんだか、やけに上機嫌ですね。そんなに期末試験が楽しみなんですか?」
エーレンは目を瞬かせ、口元を手で覆った。にやける頬を抑えきれないようだ。
「ふふ、バレちゃった? 実はね、今回の期末試験、ただの試験じゃないのよ」
今回の期末試験期間中に行われる、三年生の「高等召喚魔法」の実技試験。そこで起きるハプニングこそが、物語の流れを左右する、大きな見せ場なのだ。
本来なら呼び出すはずのない高位の幻獣――ドラゴンが誤って召喚され、試験会場は一時騒然となる。逃げ遅れたソニアの前に、颯爽と現れる攻略対象キャラクター。魔法や剣が交錯し、二人の距離は急速に縮まる。
「……で? 何があるんですか」
続きを促すフェイの声に、エーレンはハッと我に返った。
まずい。ここでペラペラと顛末を喋ってしまったら、楽しみが半減してしまう。
それに、ドラゴンの暴走なんて聞けば、心配性のフェイのことだ。「そんな危険な場所に近づくな」と、モブ活動を妨害してくるかもしれない。
「うーん……やっぱり内緒! そのときのお楽しみってことで」
エーレンは人差し指を立てて、唇に当ててみせた。
誰がソニアを助けに来るのか。その不確定要素こそが醍醐味だ。筋書きを知っているとはいえ、生の舞台では何が起こるかわからない。
もったいぶったエーレンの態度に、フェイは興味を失ったように視線を外した。
「そうですか。まぁ、エーレンが何をしていようと勝手ですけど」
彼は深く息を吐き、夕焼けに染まる空を見上げながら、釘を刺すように言った。
「危険な行為だけは止めてくださいね。笑い事じゃすみませんから」
芯を食ったその言葉に、エーレンは一瞬たじろいだ。彼の勘の良さは、時として魔法よりも鋭い。
「大丈夫よ。基本的に私は見てるだけ、安全圏からの見学だもの。……たぶん」
語尾が少し弱くなったのを誤魔化すように、エーレンは乾いた笑い声を上げた。
フェイはしばらくのあいだ、半眼でエーレンの顔をじっと見つめていたが、やがて諦めて大きく溜息をついた。
「エーレンの『たぶん』は、全く信用できないんですよね……」
そう呟くと、フェイは膝に手をついて立ち上がった。落ち葉を踏む音が、静寂に戻った並木道にカサリと響いた。そして、どこか落ち着かない様子で周囲を見回す。
その視線につられて、エーレンも頭上を覆う黄金色の葉の隙間を見上げた。
「もう、寮に戻るの?」
「はい。ここらへんは外灯もないので、日が落ちる前に移動したほうがいいですよ。足元も悪いですし」
フェイが並木道の奥、深い影が落ちる方角を見て言った。
整然と並ぶ魔導白樺の木々は、視界の果てまでずっと一直線に続いているように見える。吸い込まれそうな奥行きは、夕闇と相まってどこか幻想的で、同時に少しだけ背筋が寒くなるような不気味さをはらんでいた。
エーレンは急いで教科書とティーポットを鞄にしまい込み、コートの前をしっかりと合わせた。
「そうね。暗くなってからだと、帰り道がわからなくなりそうだもの」
荷物を抱えて立ち上がると、フェイがまだ並木道の奥を凝視していることに気づいた。
「ところで……エーレンはこの並木道、奥まで歩いてみたことはありますか?」
唐突な問いに、エーレンは首を傾げた。
「いいえ。いつもこのベンチで休憩して、そのまま来た道を引き返すだけだわ。そういえば、この先がどうなっているのか知らないわね」
校内地図の端に位置するこの場所は、詳細な地形までは記されていない。ただの林だと思っていたが、フェイの口ぶりには含みがあった。
「実は、ここより先に歩いて行こうとすると、ベンチのある場所――つまり、ここに戻されてしまうんです。だから、この一帯は『迷いの木立』と呼ばれていて、地図にも載っていないのは、それが理由なんだそうです」
初めて聞く名前に、エーレンは目を丸くした。
地図に載らない場所、進んでも戻される道……。何かに感づいた様子のエーレンが、勢いよくフェイの顔を覗き込んだ。
「もしかして……妖精? それって、妖精の力が働いているの!?」
さっきまで読んでいた図鑑の知識が、おのずと脳内で繋がる。知識欲と好奇心が刺激され、エーレンの声が弾んだ。
フェイはわざとらしく肩をすくめ、視線を空へと逃がした。
「さぁ……。一帯の特殊な魔力が引き起こす自然現象なのか、あるいは本当に妖精の仕業なのか……俺にはわかりません。でも、ここに人が寄りつかないのも、その不思議な力が人を遠ざけているからなんだとか」
「へぇ~! そんなこと、よく知ってるわね」
感心して目を輝かせるエーレンだったが、ふと素朴な疑問が浮かんだ。
「でも、それならおかしくない? 人が寄りつかない『迷いの木立』なのに、どうして私とあなたは、こうして難なくこのベンチにたどり着けるのかしら」
人を惑わす森なら、自分たちだって入り口で追い返されるか、道に迷うはずだ。だが、二人はいつも迷うことなく、まるで招かれるようにこの場所へ来ている。
エーレンの指摘に、フェイはばつが悪そうに顔を背けた。
「どうして……でしょうね。たまたま、波長が合っただけじゃないですか」
どうにも歯切れの悪い返答だ。明らかに何かを隠している態度だったが、フェイが自分のことを話したがらないのは今に始まったことではない。
エーレンは追求したい気持ちをぐっと飲み込み、代わりに茶目っ気たっぷりに笑ってみせた。
「もしかして私たち、妖精に気に入られたのかしら。『ここなら休憩してもいいよ』って」
冗談めかして言ったつもりだった。けれど、フェイは笑わなかった。
彼は真顔で遠い目をして、エーレンのすぐ隣の空間――何もないはずの宙を見つめているのだ。
しばし、沈黙が落ちる。風が止み、木々のざわめきだけが耳に残る。
フェイの瞳には何かが映っている。そんな確信めいた寒気が、エーレンの肌を粟立たせた。
「……ねぇ、大丈夫?」
たまらず、エーレンはフェイの顔の前で片手をひらひらと振った。その動きに、フェイは驚いたように瞬きを繰り返した。
「え……あ、すみません。大丈夫みたいです。早く寮に戻りましょう」
彼は何かを振り払うように早口で言うと、踵を返して歩き出した。その背中は、何かから逃げているようにも見える。
「ちょ、ちょっと、待って! 今の『大丈夫みたいです』って、どういう意味!?」
得体の知れない不安が胸をよぎる。妖精ならまだしも、もしや亡霊の類ではないか。
そう思うと、エーレンの背後で次第に濃くなる夕闇が、急に恐ろしいもののように感じてくる。
「いやいや、そんなまさか……ねぇ!?」
エーレンは慌ててコートの裾を翻し、逃げるように歩くフェイの後を小走りで追いかけた。




