第五話
石造りの校舎が夏の日差しを跳ね返し、空気全体が熱を帯びている。
エーレンは額ににじむ汗をハンカチで押さえながら、壁の影に身を潜めていた。
エーレンはモブチートを全開にし、存在感を希薄にする。通り過ぎる生徒たちは、そこに一人の少女が立っていることなど微塵も気にせず、ただの風景の一部として視線を滑らせていく。
エーレンの視線の先には、一学年下のヒロイン、ソニアの姿があった。
(うーん! 今日も今日とて星が眩しいわ)
学年が違うため、普通に生活していれば接点はあまりない。しかし、エーレンには前世の知識という地図がある。
ソニアが何時にどの廊下を通り、どの温室で誰と出会うのか。先回りして背景に徹するのは、エーレンにとっての喜びだった。
ときに、廊下の隅で友人たちと適当な噂話に興じ、ソニアが通りかかる直前に「あそこを見て! デニアス様だわ!」と、都合よく黄色い声を上げる。
ときに、共通の選択科目の講義室で、ソニアの斜め後ろの席を陣取る。彼女が攻略対象と視線を交わす際、その背景に写り込む「その他大勢の生徒」として、完璧な無個性を演じきるのだ。
自身の印象を限りなく透明に近づけながら、耳だけはそば立て、ソニアの言動を拾い上げる。
ソニアがどの攻略キャラのルートを歩んでいるのか。その分岐点を見定める作業は、身を震わせるほどの緊張感と興奮をエーレンに与えていた。
「――本当に、眺めるだけで満足なんですか?」
昼下がりのカフェテリアのざわめきのなか、向かい合わせに座るフェイが、呆れを通り越して感心した声を漏らした。
彼はエーレンが差し出した、冷えたベリーたっぷりのタルトをフォークで突きながら、窓の外をぼんやりと見つめている。
「ええ、もちろん。同じ空間にいられるだけで光栄だわ。それに、私たちがどれだけ強く、濃い暗闇になれるかで、彼女たちの恋模様……すなわち『世界』の深度が変わるんだから、責任重大よね」
「いつものことながら、理解の範疇をこえています。……でもまぁ、約束ですからね」
フェイは溜息をつき、手元のメモ用紙をエーレンへと滑らせた。そこには、彼が独自のルート――誰からも認識されない自然な尾行によって得た、攻略キャラたちの動向が記されていた。
デニアスが図書室の奥で誰と会話していたか、騎士団長候補の少年が演習場でどれほど無茶な特訓をしていたか。フェイの報告は驚くほど細やかで、エーレンの知識を補完する以上の価値があった。
甘いものに釣られて動いているように見えるフェイだったが、その瞳の奥には、エーレンの期待に応えようとする静かな熱が宿っていたようだ。
他人と関わることを避けてきた彼のなかで、エーレンの「目的」に加担することが、思いがけない居場所になりつつあるのかもしれない。
「完璧よ、フェイ! これなら来週の『イベント』の布陣も万全だわ」
エーレンは嬉しそうに声を弾ませて、瞳を輝かせた。
季節の移ろいとともに、エーレンの「モブ活動」は過熱の一途をたどっていた。
講義の合間を縫ってはソニアの動線を予測し、放課後は攻略対象たちの出没スポットを背景の一部として徘徊する。休日ですら、街へ出かけたキャラクターたちの目撃情報を求めて東奔西走する日々だ。
そんなある日、珍しくフェイのほうから声がかかった。「次の休日、あの店に行きませんか」と。
行きつけの喫茶店への誘いに、エーレンは二つ返事で頷いた。久しぶりの休息、そしてフェイからの主体的な提案に自然と心が弾んだ。
――カラン、と真鍮のドアベルが軽やかな音を立てる。
珈琲豆の焙煎される香ばしい匂いと、店内に流れる緩やかな時間が、エーレンの全身を包み込んだ。
案内されたのは、店の奥にあるいつものボックス席。ビロード張りのソファに腰を下ろした途端、張り詰めていた糸が切れたように、体が沈み込んだ。
手足は鉛のように重い。長く深く息を吐き出すと、肺のなかの空気がすっかり入れ替わった気がした。
「……座ったら、急に疲れが出ちゃったみたい」
背もたれにぐったりと寄りかかり、エーレンは力なく呟く。
連日の尾行と張り込み、そして情報の整理。充実感という麻酔が切れたとき、蓄積していた疲労が波のように押し寄せてくる。
そんなエーレンの様子を、向かいに座ったフェイが呆れたように見下ろしている。彼は無言のまま片手を上げ、近づいてきたウェイターに淡々と告げた。
「ミックスサンドとアールグレイ。それと、季節のフルーツパフェを一つ」
メニュー表を開くことすらせず、流れるような注文だった。
エーレンが口を開く前に、彼女が欲しているものを正確にオーダーする。いつものメニュー、いつもと同じ組み合わせ。確認の言葉すら必要としないその一連の動作に、エーレンは目元を緩めた。ここにあるのは、言葉を尽くさずとも通じ合える、不思議な安らぎだ。
ウェイターが去ると、フェイは鞄から無造作に勉強道具を取り出し、テーブルの上に広げ始める。
「そんなに、楽しいものですか」
数式の並ぶノートに視線を落としたまま、フェイがぽつりと問いかける。その声には、単なる疑問以上の、どこか刺々しい響きが含まれていた。
「えっ?」
「モブ活動、です。毎日毎日、他人を追いかけ回して、気配を消して……そうやってくたくたになるまで消耗して。何がそこまで、エーレンを駆り立てるんですか」
フェイの手にあるペン先が、ノートの端をカツカツとリズムよく叩いている。
エーレンは瞬きを数回繰り返し、それから窓の外の茜色に染まる空を見上げた。
「望んでやっていることだもの。私には主役である彼らが、本当にキラキラして見えるのよ。物語が紡がれていく瞬間に立ち会い、その輝きを誰よりも近くで感じられる。……こんな体験、楽しいに決まっているでしょう?」
迷いのない言葉だった。疲労はあれど、その瞳に宿る熱は少しも冷めていない。
しかし、フェイは納得がいかないのか、あるいは別の感情が胸中にあるのか、唇をへの字に曲げたままだった。
「……おかしな人ですね、本当に」
吐き捨てるように呟き、彼はふいと顔を背ける。
その横顔は、夕日の逆光に照らされて影を帯びていた。拗ねているようにも、寂しげにも見えるその表情の意味を、エーレンは疲れた頭でぼんやりと考えた。
テーブルの上に広げられたフェイのノートは、走り書きの数字と幾何学模様で埋め尽くされている。まるで解読不能な古文書のようだが、それは彼が魔導数式と格闘した痕跡に他ならなかった。
「ふふ、期末試験が近くなってきたわねー。フェイ、そこの計算、桁がずれてるわよ」
エーレンはカップを持ち上げ、楽しげに指摘した。
フェイの成績は赤点ギリギリの崖っぷちから、どうにか平地へとはい上がってきていた。とはいえ、彼は授業中も存在感を消しているため、教師の言葉を受け流している可能性が高い。こうして放課後の補習が必要になるのも、もはや恒例行事だ。
フェイは唸り声を上げながら、ペンの先でこめかみを軽く突いた。
「うー……なんで魔法を使うのに、こんな複雑な計算が必要なんですか。感覚でドーンと撃てばいいじゃないですか」
「それが許されるのは規格外の天才か、制御不能の暴走魔法使いだけよ。……ほら、集中して」
エーレンが覗き込むと、フェイは観念したように息を吐き、再びノートに向き直った。その拍子に、彼の灰水色の長い前髪がさらりと落ちて視界を遮る。
フェイは邪魔そうに眉を寄せ、無造作な手つきでその髪を耳にかけた。その一瞬、窓からの西日が彼の耳元を打ち、キラリと鋭い光を反射した。
「あら……?」
エーレンの目が点になる。普段は髪に隠れて見えなかった彼の耳に、銀色の装飾品が光っていたのだ。
おそらく、ピアスではない。耳の縁を挟み込む、繊細な意匠が施されたイヤーカフだ。
「どうして今まで気がつかなかったのかしら。あなたって、耳にアクセサリーなんてつけていたのね」
エーレンは軽く何気ない調子で、思ったことを口にした。
しかし、その言葉が向けられたと同時に、フェイの手がピタリと止まった。
ペンの走る音が途絶え、ボックス席の空気が急速に冷える。フェイはゆっくりと顔を上げると、固い表情で耳元を隠すように髪を下ろした。
「……エーレン」
「え、ええ。何かしら」
いつもとは違う、妙に切迫した声色に、エーレンはたじろいだ。
「俺がイヤーカフをつけてるってこと、他の人には言わないでください。……絶対に」
フェイの深緑色の瞳が、真剣な光を帯びてエーレンを射抜く。
ミラエナ魔法学校の校則はそこまで厳格ではない。魔道具としての装飾品を身につけている生徒などごまんといるし、ファッションとしてのアクセサリーも華美でなければ黙認されているはず。
だから、これほど必死に懇願する理由が、エーレンにはわからない。
「誰にも言わないわ。でも、すごく似合ってるのに……どうして? 何か特別な魔道具なの?」
エーレンは頷き、探るような視線を彼に向けた。
フェイとの付き合いは一年を超え、互いに軽口を叩き合える仲にはなった。しかし、彼は自分の出自や過去については、いまだに厚いベールに包まれていた。
フェイは視線をノートに戻し、ぼそりと呟く。
「周りに好き勝手、言われるのが嫌だからです。ただでさえ目立つのは苦手なのに、変な噂を立てられたくない」
不機嫌そうな横顔には、拒絶の色がにじんでいた。
それが単なる自意識過剰なのか、何か込み入った事情があるのかはわからない。ただ一つ確かなのは、これ以上、不用意に踏み込めば、ようやく築き上げた信頼関係にヒビが入るということだ。
エーレンは小さく苦笑した。
誰にだって触れられたくない秘密の一つや二つはある。自分だって「前世の記憶がある」なんて突拍子もない秘密を抱えているのだから。
「わかった。もうこの話は止めるわ」
エーレンは手にしたペンで、フェイが書き込んでいるノートの端をコンコンと軽く叩いた。
「その代わり、あなたも勉強に集中すること! 次の試験で赤点を取ったら、デザートはお預けよ」
わざと明るく告げると、フェイの肩から強張っていた力が抜けていくのが分かった。彼はバツが悪そうに、けれど少しだけ安堵したように口元を緩めた。
「わかってますって……やればいいんでしょ」
フェイはいつものように憎まれ口を叩き、再び数式と格闘し始めた。
窓の外では、夕闇が静かに街を覆い始めている。店の奥のボックス席に灯る暖かなランプの下で、二人のペンの音だけが穏やかに重なっていた。




