第十六話:誰がための光
終業を告げる鐘の音が、フェイにとっては逃走開始の合図だった。
教室の扉が開くと同時に、騒音が湧き上がる。「おい、トムレイン!」「ねえ、フェイ君!」と四方から投げかけられる無遠慮な声の数々を、聞こえないふりでやり過ごす。
廊下を早足で抜け、ひと気のない裏階段を駆け下りる。校舎を出てもなお、どこからか視線を向けられている気がして、フェイはひたすら足を動かし続けた。
息を切らして着いたのは、屋外運動場の奥まった場所、生け垣のさらに外れにある古木の下だった。
冬枯れして葉を落とした枝が、空に向かって棘のように伸びている。フェイはその根元に泥のように座り込んだ。
荒くなった呼吸を整えるたび、白い息が視界を覆っては消える。膝を抱えて小さくなると、ようやく鼓動が落ち着きを取り戻し始めた。
集団生活において、目立つことは死に直結する。大袈裟な表現かもしれないが、フェイにとってはそれくらい切実な問題だ。
出自に関する事実が露呈してから、周囲の熱狂は冷めるどころか、尾ひれがついて加熱している。「ドラゴンスレイヤー」だの「隠された実力者」だの、勝手な期待と無責任な好奇心はフェイの繊細な心身を容赦なく切りつける。
(人のことを、珍獣か何かだと思っているのか……)
この一年で少しはマシになったと思っていた。
人前で顔を上げて歩けるようになったし、必要最低限の会話ならこなせるようになった。自分は変われるのだと、そう信じていたのに。単なる驕りだったのかもしれない。
結局、隣にあのお節介な友人がいないだけで、現実は冷たくて息苦しい場所に戻ってしまう。エーレンという存在はフェイにとっての緩衝材であり、道標だったのだと痛感させられる。
遠くの運動場からは、活気のある掛け声や魔法が炸裂する音が風に乗って聞こえてくる。箒にまたがって空を駆ける生徒たちの影が、点々と小さく見えた。
ぼんやりと虚空を見つめる瞳は、目の前の光景を捉えていながら何も映していない。
いつまでこんなふうに耐え続けなければならないのか。答えの出ない問いが、頭のなかでぐるぐると回り続ける。
冷たい風が吹き抜け、枯れ葉を巻き上げた。思わず身震いをする。制服だけでは防ぎきれない寒さが、心の奥底まで入り込んでくるようだ。
いつのまにか、空は濃い茜色に染まっていた。
冷え切った指先をこすり合わせ、そろそろ寮に戻らなければと腰を浮かせた、そのときだった。
背後の茂みから、ガサリと落ち葉を踏む音がした。
「――あの、フェイさん……ですよね?」
遠慮がちながら、どこか強気な響きを持つ声。フェイは弾かれたように顔を上げた。
そこには一人の女子生徒が立っていた。制服のリボンは一年生のそれではなく、フェイと同じ二年生の色だ。しかし、その顔を見ても名前はおろか、クラスすら思い出せない。
女子生徒は上目遣いにフェイを見つめ、照れた様子で指を組んだ。
「わぁ、やっぱりフェイさんだ! すごい偶然……あ、あの、よかったら一緒に食事にでも……」
典型的な誘い文句だ。ここ数日、何度も繰り返されたやり取りに、フェイはうんざりして溜息をつこうとした。
だが、その台詞は最後まで紡がれなかった。女子生徒の視線がフェイの肩越し、背後の一点に固定され、凍りついたように動かなくなったからだ。
不審に思ったフェイがゆっくりと振り返る。そこには太い幹の陰に隠れようとして、隠れきれていない鮮やかな赤茶色の髪があった。
間違いなく、ソニアだ。彼女はフェイと目が合うと、しまったと顔をしかめて、慌てて幹の裏側へ身を引っ込めた。
その光景を目にした瞬間。フェイのなかで湧き上がっていた違和感が一つの答えを導き出した。
視線を女子生徒へと戻すと、彼女はソニアの登場にあからさまに動揺していた。肩を震わせ、じりじりと後退しながら焦燥感をにじませている。
フェイは努めて冷静な態度で、スッと鼻から息を吸い込んだ。
(なんだ、そういうことか)
胸の奥に詰まっていた暗い気分が、一瞬で霧散していく。フェイの口元は自然と三日月形に歪む。
一方の女子生徒は、踵を返して今にも逃げ出そうとしている。
「ええっと、私、急用を思い出しました……!」
すかさず、フェイの手がその細い腕を掴み取った。
女子生徒がぎょっとして振り返る。その瞳は驚愕で見開かれている。
「え、あの……?」
フェイは目を細め、高らかに宣言した。
「いいですね。さっそく食事に行きましょうか、エーレン!」
「――はぁ!?」
名前を呼んだとき、女子生徒の纏っていた気配が揺らいだ気がした。
フェイはイヤーカフに指をかけ、魔力の奔流を一気に解放する。
くすんだ水色の髪は、深く艶やかな藍色へ。眠たげな深緑の瞳は、鮮烈な黄緑色へと、瞬時に塗り替えられていく。
本来の姿に戻ったフェイは、腕を引いて彼女の体勢を崩すと、そのまま躊躇なく横抱きに抱え上げた。
「うひゃあぁっ!?」
女子生徒は間の抜けた悲鳴を上げる。フェイは重さを感じさせない軽やかさで地面を蹴った。
風を纏う妖精の身体能力は、常人のそれを遥かに凌駕する。
「ちょ、ちょっと! 下ろしなさいよ!」
腕のなかで暴れる女子生徒に、フェイは声を上げて笑った。
「あははは! お断りです!」
「う、後ろ! ソニアちゃんがいるのよ!?」
木の陰から呆然と顔を出したソニアを置き去りにして、二人は茜色の空の下を疾風のごとく駆け抜けていった。




