第十一話:ざわめく心
膝の上には『妖精学の基礎』が開かれたままだが、ここ数分、ページはめくられていない。視線は活字を滑るばかりで、内容は右から左へと抜けていく。
頭を占めているのは難解な発音記号ではなく、ソニア・グリーナウェイのことだった。
(……なーんかおかしいのよね。この時期なら、もっとイベントが発生してもいいはずなのに)
本来ならば、季節の深まりとともに恋模様も加速するはずだ。しかし、最近の彼女はやけに大人しい。
エーレンが思考の迷路に入り込んだ、そのときだった。
「――エーレン?」
不意に名前を呼ばれ、心臓が跳ね上がる。音もなく近づいてきた影に、エーレンはビクリと肩を震わせて顔を上げた。逆光のなかに、見慣れた灰水色の髪が揺れている。
「フェイ! もう、気配を消して近づかないでよ」
「普通に歩いてきましたよ。エーレンが呆けていただけでしょう」
フェイは悪びれる様子もなく、ベンチの前に立っていた。
エーレンは驚きを鎮めつつ、慣れた動作でベンチの端へと身体をずらす。空いたスペースを見て、フェイがゆっくりと腰を下ろした。彼が隣に来ると、ふわりと冷たい風の匂いがした。
「今日はモブ活動はお休みですか」
フェイの視線がエーレンの膝に乗った資料へと落ちる。そこで「妖精」や「言語」に関する文字を目にした瞬間、彼の眉が一瞬だけ不快そうに寄せられた。
思考に没頭していたエーレンは、フェイの変化など気にも留めない。
「まぁね。勉強もおそろかにしたくないし……一旦、モブ活動の現状も整理したいなって」
エーレンは本を閉じると、大きく伸びをした。
「期末試験が近いからっていうのもあるけど、ソニアの動きが鈍化してるのよね。攻略キャラと交流する数が少ないっていうか……イベントの発生率が妙に低いのよ」
焦りをにじませるエーレンに対し、フェイは至って淡々としていた。
「たしかに、入学したての春頃と比べると落ち着いてますね。でも、学生の本分は勉強でしょう? 学業に専念しているのは、良い傾向じゃないですか」
「それはそうなんだけど……乙女ゲームにおいて、イベントの欠如は死活問題なの!」
エーレンは唇を尖らせると、持っていた本の角を隣に座るフェイの肩にぐりぐりと押しつけた。
「痛っ……何するんですか」
「他人事だと思って。まったく、自分のほうはどうなのよ。フェイの選択科目、私とは違うんだから、教えてあげられないわよ? ちゃんと理解できてるの?」
「授業に出席はしてますよ……一応」
フェイは億劫そうに肩をすくめ、本の角から逃れるように身を引いた。
「出席するのは当たり前のことよ!」
エーレンが楽しそうに笑うと、フェイはあからさまに肩を落とした。そして、うろんな目でエーレンの顔を覗き込む。
「なんだか、やけに上機嫌ですね。そんなに期末試験が楽しみなんですか?」
エーレンは目を瞬かせ、口元を手で覆った。にやける頬を抑えきれないようだ。
「ふふ、バレた? 実はね。今回の期末試験、ただの試験じゃないのよ」
今回の期末試験期間中に行われる、三年生の高等召喚魔法の実技試験。そこで起きるハプニングこそが、物語の流れを左右する、大きな見せ場なのだ。
本来なら呼び出すはずのない高位の幻獣――ドラゴンが誤って召喚され、試験会場は一時騒然となる。逃げ遅れたソニアの前に、颯爽と現れる攻略対象キャラクター。魔法や剣が交錯し、二人の距離は急速に縮まる。
「……で? 何があるんですか」
続きを促すフェイの声に、エーレンはハッと我に返った。
まずい。ここでペラペラと顛末を喋ってしまったら、楽しみが半減してしまう。
それにドラゴンの暴走なんて聞けば、心配性のフェイのことだ。「そんな危険な場所に近づくな」と、モブ活動を妨害してくるかもしれない。
「うーん……やっぱり内緒! そのときのお楽しみってことで」
エーレンは人差し指を立てて、唇に当ててみせた。
誰がソニアを助けに来るのか、その不確定要素こそが醍醐味だ。筋書きを知っているとはいえ、生の舞台では何が起こるかわからない。
もったいぶったエーレンの態度に、フェイは興味を失ったように視線を外した。
「そうですか。まぁ、エーレンが何をしていようと勝手ですけど」
彼は夕焼けに染まる空を見上げながら、釘を刺すように言った。
「危険な行為だけは止めてくださいね。笑い事じゃすみませんから」
芯を食ったその言葉に、エーレンは一瞬たじろいだ。彼の勘の良さは時として魔法よりも鋭い。
「大丈夫よ。基本的に私は見てるだけ、安全圏からの見学だもの。……たぶん」
語尾が少し弱くなったのを誤魔化すように、エーレンは乾いた笑い声を上げた。
フェイはしばらくのあいだ、半眼でエーレンの顔をじっと見つめていたが、やがて諦めて大きく溜息をついた。
「エーレンの『たぶん』は、全く信用できないんですよね……」
そう呟くとフェイは膝に手をついて立ち上がった。落ち葉を踏む音が、静寂に戻った並木道にカサリと響いた。そして、どこか落ち着かない様子で周囲を見回す。
その視線につられて、エーレンも頭上を覆う黄金色の葉の隙間を見上げた。
「もう、寮に戻るの?」
「はい。ここらへんは外灯もないので、日が落ちる前に移動したほうがいいですよ。足元も悪いですし」
フェイが並木道の奥、深い影が落ちる方角を見て言った。
整然と並ぶ魔導白樺の木々は、視界の果てまでずっと一直線に続いているように見える。吸い込まれそうな奥行きは夕闇と相まってどこか幻想的で、同時に少しだけ背筋が寒くなるような不気味さをはらんでいた。
エーレンは急いで教科書とティーポットを鞄にしまい込み、コートの前をしっかりと合わせた。
「そうね。暗くなってからだと、帰り道がわからなくなりそうだもの」
荷物を抱えて立ち上がると、フェイがまだ並木道の奥を凝視していることに気づいた。
「ところで……エーレンはこの並木道、奥まで歩いてみたことはありますか?」
唐突な問いにエーレンは首を傾げた。
「いいえ。いつもこのベンチで休憩して、そのまま来た道を引き返すだけだわ。そういえば、この先がどうなっているのか知らないわね」
校内地図の端に位置するこの場所は、詳細な地形までは記されていない。ただの林だと思っていたが、フェイの口ぶりには含みがあった。
「実は、ここより先に歩いて行こうとすると、ベンチのある場所――つまり、ここに戻されてしまうんです。だから、この一帯は『迷いの木立』と呼ばれていて、地図にも載っていないのは、それが理由なんだそうです」
エーレンにとっては初めて聞く名前だ。
地図に載らない場所、進んでも戻される道。何かに感づいた様子のエーレンが、勢いよくフェイの顔を覗き込んだ。
「もしかして……妖精? それって、妖精の力が働いているの!?」
さっきまで読んでいた図鑑の知識が、おのずと脳内で繋がる。知識欲と好奇心が刺激され、エーレンの声が弾んだ。
フェイはわざとらしく肩をすくめ、視線を空へと逃がした。
「さぁ……。一帯の特殊な魔力が引き起こす自然現象なのか、あるいは本当に妖精の仕業なのか……俺にはわかりません。でも、ここに人が寄りつかないのも、その不思議な力が人を遠ざけているからなんだとか」
「へぇ~! そんなこと、よく知ってるわね」
感心して目を輝かせるエーレンだったが、ふと素朴な疑問が浮かんだ。
「でも、それならおかしくない? 人が寄りつかない『迷いの木立』なのに、どうして私とあなたは、こうして難なくこのベンチにたどり着けるのかしら」
人を惑わす森だと言うのなら、自分たちだって入り口で追い返されるか、道に迷うはずだ。だが、二人はいつも迷うことなく、まるで招かれるようにこの場所へ来ている。
エーレンの指摘にフェイはばつが悪そうに顔を背けた。
「どうして……でしょうね。たまたま、波長が合っただけじゃないですか」
どうにも歯切れの悪い返答だ。明らかに何かを隠している態度だったが、フェイが自分のことを話したがらないのは今に始まったことではない。
エーレンは追求したい気持ちをぐっと飲み込み、代わりに茶目っ気たっぷりに笑ってみせた。
「もしかして私たち、妖精に気に入られたのかしら。『ここなら休憩してもいいよ』って」
冗談めかして言ったつもりだった。けれど、フェイは笑わなかった。
彼は真顔で遠い目をして、エーレンのすぐ隣の空間――何もないはずの宙を見つめているのだ。
しばし、沈黙が落ちる。風が止み、木々のざわめきだけが耳に残る。
フェイの瞳には何かが映っている。そんな確信めいた寒気が、エーレンの肌を粟立たせた。
「……ねぇ、大丈夫?」
たまらず、エーレンはフェイの顔の前で片手をひらひらと振った。その動作に驚いたのか、フェイは瞬きを繰り返した。
「え……あ、すみません。大丈夫みたいです。早く寮に戻りましょう」
彼は何かを振り払うように早口で言うと、踵を返して歩き出した。その背中は何かから逃げているようにも見える。
「ちょ、ちょっと、待って! 今の『大丈夫みたいです』って、どういう意味!?」
得体の知れない不安が胸をよぎる。妖精ならまだしも、もしや亡霊の類ではないか。
そう思うと、エーレンの背後で次第に濃くなる夕闇が急に恐ろしいもののように感じてくる。
「いやいや、そんなまさか……ねぇ!?」
エーレンは慌ててコートの裾を翻し、逃げるように歩くフェイの後を小走りで追いかけた。




