第十話
終業を告げる鐘の音が、フェイにとっては逃走開始の合図だった。
教室の扉が開くと同時に、騒音が湧き上がる。「おい、トムレイン!」「ねえ、フェイ君!」と四方から投げかけられる無遠慮な声の数々を、聞こえないふりでやり過ごす。
廊下を早足で抜け、ひとけのない裏階段を駆け下りる。校舎を出てもなお、どこからか視線を向けられている気がして、フェイはひたすら足を動かし続けた。
息を切らして着いたのは、屋外運動場の奥まった場所、生け垣のさらに外れにある一本の古木の下だった。
冬枯れして葉を落とした枝が、空に向かって棘のように伸びている。フェイはその根元に、泥のように座り込んだ。
荒くなった呼吸を整えるたび、白い息が視界を覆っては消える。膝を抱えて小さくなると、ようやく鼓動が落ち着きを取り戻し始めた。
集団生活において、目立つことは死に直結する。そんな言いかたは大袈裟かもしれないが、フェイにとってはそれくらい切実な問題だ。
出自に関する事実が露呈してから、周囲の熱狂は冷めるどころか、尾ひれがついて加熱している。「ドラゴンスレイヤー」だの「隠された実力者」だの、勝手な期待と無責任な好奇心は、フェイの繊細な心身を容赦なく切りつける。
(人のことを、珍獣か何かだと思っているのか……)
この一年で、少しはマシになったと思っていた。
人前で顔を上げて歩けるようになったし、必要最低限の会話ならこなせるようになった。自分は変われるのだと、そう信じていたのに。単なる驕りだったのかもしれない。
結局、隣にあのお節介な友人がいないだけで、現実は冷たくて息苦しい場所に戻ってしまう。エーレンという存在はフェイにとっての緩衝材であり、道標だったのだと痛感させられる。
遠くの運動場からは、活気のある掛け声や、魔法が炸裂する音が風に乗って聞こえてくる。箒にまたがって空を駆ける生徒たちの影が、点々と小さく見えた。
ぼんやりと虚空を見つめる瞳は、目の前の光景を捉えていながら、何も映していない。
いつまで、こんなふうに耐え続けなければならないのか。答えの出ない問いが、頭のなかでぐるぐると回り続ける。
冷たい風が吹き抜け、枯れ葉を巻き上げた。思わず身震いをする。制服だけでは防ぎきれない寒さが、心の奥底まで入り込んでくるようだ。
いつのまにか、空は濃い茜色に染まっていた。
冷え切った指先をこすり合わせ、そろそろ寮に戻らなければと腰を浮かせた、そのときだった。
背後の茂みから、ガサリと落ち葉を踏む音がした。
「――あの、フェイさん……ですよね?」
遠慮がちながら、どこか強気な響きを持つ声。フェイは弾かれたように顔を上げた。
そこには、一人の女子生徒が立っていた。制服のリボンは一年生のそれではなく、フェイと同じ二年生の色だ。しかし、その顔を見ても名前はおろか、クラスすら思い出せない。
女子生徒は上目遣いにフェイを見つめ、照れた様子で指を組んだ。
「わぁ、やっぱりフェイさんだ。すごい偶然……あ、あの、よかったら、一緒に食事にでも……」
典型的な誘い文句だ。ここ数日、何度も繰り返されたやり取りに、フェイはうんざりして溜息をつこうとした。
だが、その台詞は最後まで紡がれなかった。女子生徒の視線が、フェイの肩越し、背後の一点に固定され、凍りついたように動かなくなったからだ。
不審に思い、フェイはゆっくりと振り返った。そこには、太い幹の陰に隠れようとして、隠れきれていない鮮やかな赤茶色の髪があった。
ソニアだ。彼女はフェイと目が合うと、しまったと顔をしかめて、慌てて幹の裏側へ身を引っ込めた。
その光景を目にした瞬間。フェイのなかで湧き上がっていた違和感が、一つの答えを導き出した。
視線を女子生徒へと戻すと、彼女はソニアの登場に、あからさまに動揺していた。肩を震わせ、じりじりと後退しながら、焦燥感をにじませている。
フェイは努めて冷静な態度で、スッと鼻から息を吸い込んだ。
(なんだ、そういうことか)
胸の奥に詰まっていた暗い気分が、一瞬で霧散していく。フェイの口元は、自然と三日月形に歪む。
一方の女子生徒は、踵を返して逃げ出そうとしている。
「ええっと、私、急用を思い出しました……!」
すかさず、フェイの手がその細い腕を掴み取った。
女子生徒がぎょっとして振り返る。その瞳は驚愕で見開かれている。
「え、あの……?」
フェイは目を細め、高らかに宣言した。
「いいですね。さっそく食事に行きましょうか、エーレン!」
「――はぁ!?」
名前を呼んだとき、女子生徒の纏っていた気配が揺らいだ気がした。
フェイはイヤーカフに指をかけ、魔力の奔流を一気に解放する。
くすんだ水色の髪は、深く艶やかな藍色へ。眠たげな深緑の瞳は、鮮烈な黄緑色へと、瞬時に塗り替えられていく。
本来の姿に戻ったフェイは、腕を引いて彼女の体勢を崩すと、そのまま躊躇なく横抱きに抱え上げた。
「うひゃあぁっ!?」
女子生徒は間の抜けた悲鳴を上げる。フェイは重さを感じさせない軽やかさで、地面を蹴った。
風を纏う妖精の身体能力は、常人のそれを遥かに凌駕する。
「ちょ、ちょっと! 下ろしなさいよ!」
腕のなかで暴れる女子生徒に、フェイは声を上げて笑った。
「あははは! お断りです!」
「う、後ろ! ソニアちゃんがいるのよ!?」
木の陰から呆然と顔を出したソニアを置き去りにして、二人は茜色の空の下を疾風のごとく駆け抜けていく。
迷いの木立に着いた頃には、荒かった息もようやく整い始めていた。
フェイは抱えていた女子生徒を、一年前に初めて会話を交わしたあの古ぼけたベンチへと降ろした。
ブーツの底が地面を叩く音と共に、エーレンと呼ばれた女子生徒が大きく息を吐き出す。
そして、ぱちんと指を鳴らすと、顔を覆っていた認識阻害の魔法が解け、見慣れた少し不機嫌そうな顔が露わになった。
「……まさか、力尽くで連れ去られるとは思わなかったわ」
乱れた襟元を直しながら、エーレンが唇を尖らせる。
「途中までは完璧だったのに、どうして私だってわかったの?」
その素朴な問いに、フェイはベンチの隣に腰掛け、得意げに鼻を鳴らした。
「違和感です。ソニアの周辺に、あんなに都合良く現れる女子生徒なんて、逆に不自然でしょう?」
「まぁ……それは、否定できないけど」
「それに、決定的だったのは匂いです」
フェイは自分の鼻先を指差した。
「かすかに、ベルガモットの香りがしたんです。君が飲んでいる、あの紅茶の香り。それで、あぁ、これはエーレンだな、と確信しました」
エーレンはきょとんと瞬きをしてから、観念したように額に手を当てた。
「……はぁ。一年前の私は、とんでもない伏兵に声を掛けていたのね」
本来の姿――藍色の髪と黄緑色の瞳を晒しているフェイは、わざとらしく首をかしげてみせた。
「目立たないように変装していたのは、エーレンも同じじゃないですか」
「同じなわけないでしょう。私は背景に溶け込むため、あなたは持って生まれたオーラを隠すため。……質が違うわよ」
エーレンが苦笑まじりにぼやく。その砕けた態度に、フェイの肩からようやく力が抜けた。
冷たい夕風が吹いているはずなのに、二人のあいだには不思議な温かさが漂っている。
膝の上で拳を握りしめているフェイを、エーレンがじっと見つめる。
「――俺の父方の祖父は、『妖精王』なんです。面識はないですが……妖精たちのなかでも、特に強い力を持つ存在だったんだそうです」
並木道の木々が、ざわりと揺れた気がした。フェイは視線を足元の枯れ葉に落とす。
「俺はその魔力と形質を色濃く受け継いでしまった。だから、隠していたんです。こんな力が知れ渡れば、平穏な生活なんて望めませんから」
重い沈黙が続くかと思われたが、隣から聞こえてきたのは感嘆の声だった。
「なるほど。たしかに、あなたは『星』なんでしょうね。それだけの設定があれば、納得だわ」
エーレンがしみじみと頷いて、どこか遠くを見るような目をした。
「……前世の私は、あなたのことを知る前に死んでしまったのかもしれないわね。きっと、隠しキャラか何かだったんでしょう。主人公であるソニアから言い寄られてたみたいだし」
さらりと放たれた不穏な単語に、フェイはぎょっとして顔を上げた。
「言い寄られるだなんて……俺にはそんな気はないです!」
フェイは過剰に反応して手を振った。若干、声が裏返っている。
そんな必死なフェイの様子を見て、エーレンが吹き出した。
「あはは。冗談よ、冗談。……とりあえずは、ね」
楽しそうに笑いながらも、獲物を狙う眼光が宿っている。その含みのある物言いに、フェイはむっとしかめっ面を作ることしかできなかった。
二人がベンチで話しているあいだ、周囲の木々の輪郭はすっかり闇に溶け始めていた。
街灯が一つもないこの並木道は、あと数分もすれば漆黒に包まれるだろう。帰る頃には、杖の先に明かりを灯して足元を探りながら歩くしかなさそうだ。
フェイはポケットから、外していた銀色のイヤーカフを取り出した。冷たい金属を耳に装着すると、循環する魔力が抑制され、フェイの姿が変化していく。
夜闇にも映える鮮やかな藍色の髪は、どこにでもありそうなくすんだ水色へ。内側から発光していた黄緑色の瞳は、光を失った深緑色へ。
見慣れた姿に戻ったフェイを見て、エーレンはやれやれと首を横に振った。
「物好きな人ねぇ。いまや、あなたは輝かしい『星』なのよ? 無理に『夜空』に紛れる必要はないわ」
その言葉は、少し冷淡だった。これも、エーレンなりの気遣いなのだろう。
フェイはベンチから立ち上がると、屈託のない笑みを浮かべた。
「俺が『星』なら、エーレンのような『夜空』は欠かせないんでしょう?」
キザな台詞だと自分でも思う。けれど、今のフェイには飾らない本音だった。
「俺は……君のそばにいたいんです。光あふれる場所よりも、暗くて静かな場所のほうが、俺にはお似合いですから」
フェイは座ったままのエーレンに向かって、片手を差し出した。エーレンは目を丸くし、それから呆れたように息を吐き出した。
「まったく。やっぱりあなた、メインキャラっぽい演技、向いてないわね。どことなく台詞がクサいわ」
「はは……俺もそう思います」
降参とばかりにフェイが笑うと、つられたようにエーレンの頬も緩んだ。
差し出されたフェイの手のひらに、エーレンの手が重ねられる。その指先は冷え切っていたが、触れ合った場所からじんわりと体温が伝わってきた。
エーレンの手を引いて、フェイは周囲の暗がりを見渡した。
「俺、肉眼で妖精を見ることができるんです。エーレンが言っていたように、この場所には妖精や精霊が集まってくるんですよ。今だって、ほら」
フェイが視線を向けた先に――それらしきものは、何もない。エーレンは不思議そうに眉を寄せた。
「えぇ? 私には何も見えないわ。ただの暗い森じゃない」
「……じゃあ、少しだけお裾分けします」
フェイは繋いだ手を強く握り直し、唇だけで妖精語の呪文を紡いだ。温かい光の波が、フェイの腕からエーレンの腕へと伝播していく。
エーレンが「わっ」と小さく声を上げた。その瞳が、世界が映り変わっていく過程を捉える。
二人の周囲、暗闇だと思っていた空間に、無数の光の球体が浮かび上がったのだ。
淡い青、白、薄紅。それらは蛍のように明滅して、フェイとエーレンの周りをくるくると飛び交い、枯れ木を彩るイルミネーションのように並木道を照らし出した。
「すごい……こんなにたくさん隠れていたのね!」
エーレンが目を輝かせ、空中に手を伸ばす。光の粒は彼女の指先をすり抜け、また空へと舞い上がった。
その横顔を見ていると、フェイの胸は温かく満たされていく。
「行きましょうか。この先は、彼らが照らしてくれます」
二人は手を繋いだまま、光の回廊に様変わりした夜道を歩き出した。
その頭上では、どこまでも広がる夜空に包まれて、小さな星々が瞬いている。
終わり。




