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第一話

 開放的な天井を、色とりどりの光の粒がゆらゆらと舞っている。魔法による装飾が施された石造りの大広間は、ひんやりとした厳かな空気と、新入生たちが放つ浮き足立った熱気に満たされていた。


 エーレン・ホーソーンは、黒い式典用のローブを揺らし、列を乱さないよう静かに歩いていた。つばの広い三角帽子が少しだけ視界を遮るが、前を行く生徒の背中を目印にしていれば間違えることはない。

 商家の子女として、それなりに礼儀作法は教わってきた。由緒あるミラエナ魔法学校の入学式という晴れ舞台で、粗相などあってはならないと、エーレンは適度な緊張感を保っていた。

 そのときだった。


「きゃあ! 見て、デニアス様よ!」


 張り詰めた空間のなかで、場違いなほど高く鋭い声が響いた。エーレンの耳朶を打ったその名前が、引き金だった。


「っ……!」


 こめかみの奥で、鋭い痛みが走る。エーレンは思わず足を止め、帽子が脱げそうになるのも構わず頭を押さえた。視界が狭まり、石畳の床がぐにゃりと歪む。


 エーレンの脳内に、一気に情報が流れ込んでくる。

 無機質なオフィス、鳴り止まない電話の音、深夜のコンビニで買った甘ったるいコーヒー。そして、疲れ果てた日々のなかで唯一の癒やしだった、液晶画面に映し出されるきらびやかな世界。


(……聞き覚えがある名前に、見覚えがある光景)


 立ち止まっていたのはものの数秒だったが、体感時間にして永遠にも思える混濁を経て、エーレンはゆっくりと目を開けた。

 目の前の歪みは消えていた。しかし、先ほどまでとは世界の「見えかた」が激変している。

 エーレン・ホーソーンとしての十六年の記憶の上に、もう一つの人生――現代日本で社会人をしていた記憶が、密やかに上書き保存されてしまったのだ。


 壇上では、白い髭を蓄えた老教師が、眠気を誘うゆったりとした口調で祝辞を述べている。窓から差し込む陽光に、宙を舞う魔法の光が反射して、教室の塵までが宝石のように輝いて見えた。


(そうだ、思い出した。ここは乙女ゲーム『ステラ・メモリア』の世界なんだわ……!)


 前世の自分が、睡眠時間を削って没頭していたあのゲーム。魔法学校を舞台に、平民のヒロインが数々の困難を乗り越え、高貴な攻略対象たちと結ばれる物語。

 そして、先ほど女子生徒が叫んだ「デニアス」。彼はこの学校のスターであり、王国の若き至宝。ゲームにおけるメイン攻略キャラクターの一人だ。


 商家の娘としてのエーレンも、彼が有名な貴族の嫡男であることは知っていた。そこに前世の記憶が合わされば、意味合いは変わってくる。


(本物のデニアス様? パッケージであんなに神々しく微笑んでいた、あの?)


 エーレンはごくりと唾を飲み込み、周囲をそっと見渡した。

 ローブの裾を握る指先が、わずかに震えている。未知なる鑑賞対象を間近で見ようとする、オタク特有の高揚だ。


 会場のあちこちから、小声の私語が漏れ聞こえてくる。オタクであろうとなかろうと、その発想は同じらしい。「どこ?」「あっちよ、窓際の」湧き出る囁きを頼りに、エーレンは背筋を伸ばし、群衆の隙間からその姿を探した。

 しかし、視界に入るのは黒い三角帽子の波ばかり。新入生の数はゆうに二百人を超えている。おまけに皆、同じ制服に身を包んでいるのだ。いくら本人が光り輝くオーラを放っていようと、この密集地帯から特定の個人を判別するのは困難だった。


(だめだわ。さっぱり見えない……)


 結局、デニアスの端正な横顔を拝むことは叶わぬまま、壇上の老教師は満足げにスピーチを締めくくった。

 こうして、入学式はつつがなく終了した。



 続く新入生向けの説明会と、広大な敷地を歩き回る学内ツアーを終える頃には、夕闇が古都の街並みを包み込み始めていた。

 エーレンは石造りの廊下に足音を響かせ、割り当てられた女子寮の一室へと滑り込む。扉を閉めた直後、体中に溜まっていた緊張が、重い溜息となってあふれ出した。


 こぢんまりとした室内には、磨かれた木の香りがほんのりと漂っている。決して広くはないが、使い込まれた艶のある机と椅子、清潔なリネンが整えられたベッド、そして街を一望できる小さな出窓。一人で過ごすには十分すぎるほど、整然とした空間だった。


 エーレンは、荷ほどきの途中でベッドに放り出されていた鞄から、一通の手紙を引っ張り出した。勢いよく封を切ると、見慣れた父の力強い筆致と、母の柔らかな筆跡が目に飛び込んできた。


『エーレン、無事に入学式を終えられましたか。慣れない寮生活で心細い思いをしていないか、お母さんはそればかり心配しています。困ったことがあれば、すぐに手紙を書きなさい。ホーソーン家の娘として、胸を張って学びなさい。私たちはいつでもあなたの味方です』


 温かい言葉が、胸の奥にじわりと広がっていく。


「まさか、中身は一人暮らしも社会人も経験済みの大人だなんて……口が裂けても言えないわね」


 エーレンは苦笑交じりに呟き、手紙を胸元に抱きしめた。

 前世の自分に、これほど無償の愛を注いでくれる存在がいただろうか。思い出そうとすると、決まって灰色のオフィスビルと、パソコンの青白い光ばかりが脳裏をかすめる。


 エーレンは体を起こし、鞄の底から小さな銀細工の写真立てを取り出し、机の上に丁寧に置いた。家を出る日の朝、庭の大きな楡の木の下で撮った家族写真だ。少し緊張した顔の自分と、それ以上に誇らしげな顔をした両親と弟がいる。


「せっかく高い学費を払ってもらったんだもの……私、頑張るからね」


 固い決意を込めて写真を指先でなぞったあと、エーレンは配られたばかりの学校案内を手に取った。暮れなずむ空の色が移り変わっていくのを横目に、カリキュラムや校則を頭に叩き込む。


 ここは「ヴィルギリオ王国」の地方都市「ルウィエ」に建つ大きな古城、由緒ある全寮制の魔法学校「ミラエナ魔法学校」。歴史ある家柄や、強い魔力を持つ若者が入学できる教育機関だ。修業年限は三年で、現代日本でいう高等学校に近い。

 身分を問わず、生徒たちは敷地内にある寮で生活する。共用の玄関と談話室はあれど、寝室のある建物は男女で分かれており、往来はできない。

 男女ともに、黒を基調とした制服を着用し、学年ごとに色の違うリボンやネクタイを装着する決まりがある。三色のうち一色がローテーションで割り当てられ、三年間は同じ色で過ごす。


「……明日も早いし、そろそろ着替えなきゃ」


 窓の外が完全に夜の色に染まる直前、ようやくエーレンが立ち上がった。そして、真新しくも窮屈な制服を脱ぎ捨てて、柔らかな綿の寝間着に着替えた。


 いそいそと洗面台の鏡の前に立ち、ぬるま湯で顔を洗う。滴る水滴を片手で拭い、鏡に映った自分をじっと見つめた。くすんだ黄色の髪に橙色の瞳。どこにでもいそうな、平均的な少女の顔そのものだ。


「それにしても、前世の記憶が蘇って、ここが乙女ゲームの世界で……。デニアス様みたいなメインキャラが実在するのなら、私は一体、何者なのかしら」


 何気なく、目にかかる前髪を指で払った。

 特に呪文を唱えたわけでも、魔力をまとわせたわけでもない。ただ、心の底から「自分の立ち位置」を確認したいと願った、その刹那。視界がわずかに歪み、鏡のなかの色彩が一段階、彩度を落とした。


「――えっ? ……これが、私……?」


 鏡に映っていたはずのエーレン・ホーソーンが、まるで背景に溶け込むかのようにぼやけて見える。

 目元は穏やかに髪に埋もれて、その髪の色は壁の陰影と同化し、そこには「誰でもあって、誰でもない少女」が立っていた。


 意識して凝視しなければ、そこに人がいることさえ忘れてしまいそうな、異様なまでの存在感の欠如。

 喉の奥が震え、心臓がドクンと跳ねる。ショックではない。むしろ、その逆だ。


「――間違いないわ。私は、まごうことなき、モブ!」


 エーレンは歓喜に震える手で、自分の頬を包み込んだ。

 ヒロインのような華やかさも、悪役令嬢のような苛烈さもない。だが、この透明な盾があれば、物語を最前列で観賞し、かつ完璧にサポートできる。


 今まさに、この二度目の人生における真の使命を理解した。私は主役たちを輝かせるための、最高の背景になる。

 エーレンの唇は、今日一番の満足げな弧を描いていた。



 そして、翌日の朝。

 講堂の大きな窓から差し込む春の陽光が、歴史を感じさせる石床に長い影を落としている。教壇に立つ年配の教師が、魔法の基礎理論について朗々と語りながら、カツカツと小気味よい音を立てて黒板に文字を刻んでいた。


 エーレンは羽ペンを走らせるふりをしながら、昨晩の試行錯誤を思い返していた。

 鏡の前で何度も繰り返した、あの不思議な感覚。魔力をまとわせた手を刷毛として、自分自身の輪郭を塗りつぶしていく。そんな、妙に静かな手応え。

 この能力で性別を変えたり、背を伸ばしたりすることはできない。けれど、他人の意識の端っこに「ただの通行人」として滑り込むには十分すぎる効果があった。


(名付けて、『モブチート』。悪用は厳禁、でも活用は無限大。これこそ、私がこの世界で生き抜くための最強の武器だわ)


 エーレンは背中を向けて熱弁を振るう教師の隙を突いて、周囲を見渡した。

 講堂を埋め尽くす、数百人の生徒たち。そのほとんどが、原作では立ち絵すら与えられない名もなき存在だ。


(私は知っている。あなたも私も、そしてそこのあなたも……みんな、輝かしい主役たちを引き立てるための背景なのよ!)


 ペンを顎に当て、エーレンは心のなかで深く頷く。

 かつて愛した物語の断片が、現実として目の前に広がっている。主役という名の「星」を輝かせるためには、それを支える広大で深い「夜空」が必要なのだ。


(モブ……それは誇り高き使命。私はこの学校で、その役割を完璧に全うしてみせるわ!)


 口角が上がりそうになるのを必死に抑え、エーレンは再びノートにペンを走らせた。


 しかし、喜び勇んで独り立ちしたものの、一人での活動には限界がある。ただ影が薄いだけでは、主役たちを適切な方向へ導くことはできない。


(快適かつ完璧なモブライフを遂行するためには、気心の知れた協力者が必要ね……)


 講義終了を告げる鐘の音が、高い天井に反響した。エーレンは素早く荷物をまとめ、周囲の流れに身を任せて廊下へと滑り出す。


 たどり着いた食堂は、まだ夕食には早い時間だったが、自習や談笑に励む生徒たちでそこそこの賑わいを見せていた。

 エーレンはカウンターで一杯の紅茶を注文し、窓際の席に腰を下ろした。


 湯気とともに立ち上るのは、爽やかな柑橘の香り。その香りを深く吸い込むと、前世の忙しない日々のなかで唯一、自分を取り戻せた休息の時間が鮮明に蘇る。


(やっぱり、この香りは落ち着くわね)


 ふう、と小さく息を吐き、品定めするように行き交う生徒たちを眺める。

 そのとき、空のトレーを持った二人組の女子生徒が、エーレンのテーブルの前で足を止めた。


「こんにちは。ここ、お隣よろしいかしら?」


 声をかけてきたのは、少し気の強そうな印象の少女だった。隣には、おっとりとした雰囲気のもう一人の少女が立っている。


「ええ、どうぞ。空いていますから」


 エーレンが微笑んで席を詰めると、二人は「ありがとう」と言って対面に腰を下ろした。

 一瞥して、彼女たちが自分と同じ一年生であることを、リボンの色で確認する。それと同時に、エーレンの「センサー」がかすかに反応を示した。


 彼女たちの顔立ちや雰囲気からは、主要キャラ特有の「画面を支配する個性」が感じられない。かといって、単なる通行人にしては表情が豊かすぎる。


(……ああ、私と同じ匂いがするわ)


 瞬時に相手をカテゴリー分けしてしまった自分を、エーレンは心のなかで少しだけ恥じた。とはいえ、それは本能のようなものだ。

 エーレンは努めて友好的な声音で話しかけた。


「二人とも、私と同じ新入生よね? 私はエーレン・ホーソーン。よろしくね」


 スープを一口運んだ気の強そうな少女――ビーシアが、優雅に頷く。


「ええ、よろしく。私はビーシア。こっちはシーラよ」

「よろしくお願いいたしますわ」


 シーラと呼ばれた少女は、食事に手をつけず、そわそわとした様子で周囲を見渡していた。


「驚くことばかりですわ、この学校。……もうすぐここに『レムエル様』がいらっしゃると聞きつけて、急いでやってきたのですけれど」


 ビーシアも溜息を吐きながら、同意するように肩をすくめた。


「本当に。すでにこれだけ席が埋まっているなんて。みんな考えることは同じなのね。場所取りだけでも一苦労だわ」


 エーレンは紅茶のカップを口に運びながら、納得した。

 なるほど、「レムエル」が目的か。彼は一学年上の先輩であり、寡黙で学業優秀な攻略キャラクターの一人。


(さすがは名門校、初日からファンイベントが発生しているなんて、モブの観察対象としては最高だわ)


 紅茶の香りを楽しみながら、エーレンはこれから始まる賑やかな学校生活に期待を膨らませた。

 食堂内にはカトラリーが触れ合う軽快な音と、賑やかな話し声が響いている。


「ねえ、知ってる? 三階の図書室の奥には、夜な夜な主を失った杖が独り歩きしているっていう噂」


 ビーシアが声を潜め、いかにも怪しげな表情で身を乗り出した。それに対し、シーラは焼きたてのパンを千切りながら、うっとりとした溜息を吐く。


「幽霊よりも私は、騎士部に所属するエリオット様が気になりますわ。あの鍛え上げられた背筋、まるでお城の彫像のようですもの」


 二人の会話は、真偽不明なゴシップから、学内の美男美女の品評へと目まぐるしく移り変わっていく。エーレンは、紅茶の最後の一口を喉に流し込むと、冗談めかした口調で会話に加わった。


「あら、それならレムエル様についても面白い話があるわよ。レムエル様は非常にストイックで、いつも誰よりも早く訓練場に顔を出しているんですって。寡黙なのは、単に朝が弱くて頭が回っていないだけだっていう話もあるけれど」

「まぁ、意外だわ!」「でも、そんな隙があるところも素敵ですわね!」


 前世のゲーム知識を「どこかで聞いた噂話」として小出しにすると、二人は面白いほど食いついてきた。

 現代日本の社会人時代に培った雑談スキルは、異世界の女子生徒たちにも通用するらしい。


 ――結局、その日の夕食が終わるまで待ってみたものの、お目当てのレムエルが姿を現すことはなかった。


「残念。今日は外れの日だったみたいね」


 ビーシアは席を立ちながら、あっさりと肩をすくめた。シーラも「また明日があるわ」と、特に落胆した様子も見せずに微笑んでいる。


「二人とも、今日はありがとう。授業中に見かけたら、また声をかけてもいいかしら?」

「ええ、もちろんよ」「こちらこそ、楽しみにしておりますわ」


 軽い挨拶を交わし、エーレンは満足感とともに食堂を後にした。


 寮の自室に戻り、寝間着に着替えたエーレンは、吸い込まれるようにベッドへと倒れ込んだ。

 ふかふかの白い枕に顔を埋め、大きく息を吐き出す。


「ふー……。初日にしては、なかなかの成果じゃないかしら」


 天井を見つめながら、今日一日の出来事を脳内で整理する。

 ビーシアとシーラという、情報通でフットワークの軽い友人ができたのは大きい。今後の学内の動向を探る上で、強力な味方になってくれるだろう。

 しかし、エーレンは眉間にわずかな皺を寄せ、喉を鳴らした。


「でも、私と一緒に動いてくれる『実務担当』も欲しいわね」


 女子寮の談話室や女子生徒の集まりだけでは得られない情報が、この学校には山ほどある。男子生徒にしか入れない場所や、彼ら特有のコミュニティ……そこに入り込める協力者がいれば、モブとしてのサポートはさらに盤石なものになるはずだ。


「男子のモブ仲間……。どこかにいないかしら。私と同じように、背景に溶け込めるような人が」


 明日からは捜索範囲を広げよう、とエーレンは心に誓う。

 中庭、図書室、屋外でひとけのない場所。主役たちが立ち寄らない、影の薄い場所を重点的に探る必要がある。


 やがて、心地よい疲労がまぶたを重くしていく。

 窓の外では、ルウィエの街の灯りが星のように瞬いていた。その光は、これから始まる波乱に満ちたモブ生活を、祝福しているようだ。そうに違いない。

 エーレンは口元に微笑みを浮かべたまま、深い眠りへと落ちていった。


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