39 裏切り
「この辺だよ。ナディアちゃん、覚悟はいい?」
「は、はい」
しばらく走り続け、森深くまでやって来たナディアは緊張していた。人の気配のない静かな森だが、血の匂いがする。ヴェナムをおびき寄せるためなのか、小型の動物や魔物が餌として点々と木に巻きつけられていてとても不気味だ。きっとそれを追いかけ、ヴェナムは食べながらこちらに向かっているのだろう。
勘のいい魔物たちはみんなドラゴンの気配を感じて逃げている。魔物の中でもドラゴンは捕食する側の強い存在であり、魔物や動物であろうが人間であろうが何でも食べてしまうのだ。
ナディアは他の魔物なら全く怖くはないが、ドラゴンだけはだめだった。以前ドラゴンを前に身体が動かなかった恐怖が思い出されて冷や汗が背中につーっと流れるのがわかった。
「……おかしいわ」
しかしナディアはこの異常な森を見て、逆に少し冷静になった。この餌でヴェナムをおびき寄せられるのであれば自分が囮としてここにいる意味はないのではないかという疑問が生じた。
ヴェナムは過去に噛んだ相手をずっと覚えていて、その獲物を目掛けて襲ってくるという仮説は間違っている。だって、ナディアがこの森に着く前にすでにヴェナムは現れていたのだから。
「パトリック様、何かおかしくないですか?」
「ん? 何がおかしいんだい」
「わたしが囮なのですよね? では、なぜヴェナムはこんなにも早く現れたのですか。そもそも、わたしが森にいないと現れないはずですよね」
もう二度と現れないかもしれないヴェナムが、急に現れたと聞いて焦ってここまで来てしまったがそれが間違いだったかもしれない。だが、ナディアがそんなことを思ったところでもう遅かった。
なぜなら、ヴェナムはすぐ近くまでやって来ているのだから。
「そうだね。おかしいね」
パトリックは後ろにいるナディアに振り向くこともないまま、抑揚のない声で答えた。
「グルルルッ……!」
低く響く呻き声が聞こえた瞬間、目の前にヴェナムが現れた。ドラゴンの中では中型だが、それでも人間の何百倍も大きい。
「はっ……はっ……ああっ……」
ヴェナムの姿をはっきりと確認した瞬間、ナディアは幼い頃に襲われたことを思い出し呼吸が苦しくなった。
「ナディアちゃん、大丈夫!?」
「ゔぅ……うう……」
話には聞いていたが、ナディアがあまりにも苦しみ涙を流す姿にパトリックは戸惑った。
「だ……だいじょ……ぶですから……」
その言葉を聞き、パトリックは覚悟を決めた。ヴェナムが目の前にいるのだから、気を取られている場合ではない。
パトリックの実力ならば、普通に倒すのであれば何の問題もない。だが、今回は毒袋を避けてヴェナムを倒さなければならないという大事なミッションがある。
「グルルル……!」
パトリックは集中した後、腰から剣を抜き一切無駄のない美しい構えをした。ヴェナムはこちらの様子を伺っており、まだ襲ってくる様子はない。
「すぐに終わるよ」
ナディアの意識は朦朧としていが、この苦しみを我慢すればエドムンドと一緒に生きていけるのだと耐えていた。
その時、森の中から人影が見えた。ナディアは涙ではっきりとはわからなかったが、服装から考えてパトリックの父親であるハロルドのようだ。
計画者であるハロルドも現地に来てくれたのかとナディアが思っていた時、この場に似つかわしくない嫌な笑い声が聞こえて来た。
「パトリックよくやった! どうやらこの女がドラゴンにトラウマがあるというのは本当らしいな」
どうしてハロルドがナディアのトラウマのことを知っているのか。これを知っているのは、ナディアの家族とエドムンド……そしてパトリックだけなのに。
エドムンドからは、例え父親のハロルドであっても言わないで欲しいとパトリックに口止めしたと聞いていたのに。
ナディアの頭の中はとても混乱していた。
「この女がヴェナムに殺されたら、エドムンドは二度と立ち直れまい。そうなれば私を邪魔する者はいなくなるぞ」
ハロルドの言葉を聞いて、ナディアはこれが全て仕組まれたことだと気がついた。
「これでこの国は私のものだ」
あえてエドムンドのいない時に、ヴェナムをおびき寄せたのだ。そしてそれは味方だと思っていたパトリックと、その父親であるハロルドによる計画だったのだろう。
「パト……リック……さま……ど……して……エド……ムンドさまを……裏切る……なんて……!」
苦しい胸元を手で押さえ、ナディアはたくさんの涙を流しながらパトリックを睨みつけた。
「ごめんね、ナディアちゃん」
振り返ったパトリックは少しだけ申し訳なさそうに眉を下げたが、すぐに真顔に戻りナディアを冷たく見下ろした。
「こうするしかなかったんだ」
パトリックはそう言って剣を腰にしまい、倒れ込んでいるナディアの前からすっと姿を消した。
すると、奥にいたヴェナムの鋭い目がナディアを捉え激しく鳴き出した。
「グルルルッ……グルルルッ……!」
ナディアの身体はさらにガタガタと震え出した。だが、こんな場所でヴェナムに噛まれて死ぬわけにはいかない。
今ナディアが死んでしまっては、残されたエドムンドはどうなってしまうのか。しかも親友だと思っていたパトリックの裏切りによってナディアが死ぬのだ。
ナディアは何もかもを諦めていたエドムンドに前を向いて欲しくて、無理やり彼の妻になった。貴族令嬢らしいことは何もできなかったが、エドムンドは困惑し文句を言いながらもナディアを受け入れてくれた。
そしてエドムンドは自分の力でちゃんと立ち直り、騎士へ戻ることを決めた。
そのことだけでもとても幸せだったのに、エドムンドはナディアを愛してくれた。長年憧れていたエドムンドが、ナディアに本物の妻になって欲しいと求婚してくれた時は心臓が止まりそうなほど嬉しかった。
だが、まさかそれを利用されるなんて。
エドムンドがまた誰のことも信じられなくなり、部屋に一人で閉じ籠るのかと思うとナディアは耐えられない。そんなエドムンドの姿を想像するだけで、ナディアは自分が命を落とすことよりも辛かった。
「死に……たくない」
「動……かないと……」
「うご……いて」
大きな口を開けて自分に向かってくるヴェナムを前に、ナディアの身体はどうしても動かなかった。
「たす……けて……エドムンドさま」
大粒の涙がナディアから溢れ、噛まれる痛みに耐えるためにぎゅっと目を閉じた。




